ふつうっぽい日記
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2011年07月13日(水) 人を変え、言葉を変え、メッセージは届けられる

人を変え、言葉を変え、メッセージは届けられる。

同じようなテーマで話される内容であっても、人が変われば、自分の中で喚起されるエピソードは異なる。

そして、言葉や内容やその大切さについて理解していたつもりでも、一面しか見てこなかったことに後から気づかされることも多い。

その一つとして「通級」という制度がある。
通常の学級に在籍しながら、「通級指導教室」で必要に応じて特別な指導を受けることができる。

「ああ、教室に通っているんだな」ということは、外から見ていて分かる。
なぜ分かるかというと、通常学級の授業時間中に不在の状態になるからである。
その頻度は児童生徒の実態によって違ってくるが何曜日の何時から、という枠は固定されている。
在籍校でそのような教室がある場合は少ない様であり、別の学校に通うことになる。
そして、通うにあたっては保護者が送迎することになる。
電車に乗ってバスに乗って…。
保護者の希望と努力尽力があればこそだな、と思う。
何よりも子どもへの「愛情」が基盤にある。
そういう視点に立てば、例えば多忙な母子家庭だったら、さらに理解とスケジュール管理が求められるだろうと思われた。

そして、教室に通っている間、在籍している通常学級では通常通りに授業が進行しているわけであり、その間の学習の遅れも配慮されなければならない。

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特別支援学級では「交流」というスタイルがある。
支援学級に在籍しながら、自校の通常学級で授業等に参加する。

こういうことがあった。
「体力測定」が学年毎に計画されていて、「時間帯が変更になったという知らせを聞いたのに、さらに変更されて元の時間帯に実施されていたということを後から知ったために参加できなかった」という事案。

「5時間目に予定されていたのが1時間目に変更とされたがやはり5時間目に実施されることになった」という場合であれば多少混乱はするものの、参加は出来る。
その逆である。
「1時間目に予定されていたのが5時間目に変更とされたがやはり1時間目に実施」となり、5時間目に指定された場所へ行くとすでに終わっていたのである。

連携、連絡体制の甘さである。
通常学級の担任なり児童生徒が支援学級まで誘いに来る、ということは必ずしも絶対ではないのだ、という厳しさを知った。それでも、だからこそ、「原則」と据えるようにルールにするように働きかけることは重要なのだ。
支援学級の担任は受け持つ児童生徒は少数(定員は8名とされる)でありながら個別にスケジュールを管理することが求められる。交流学級毎の時間割を把握しながら、児童生徒の一人ずつの時間割を見通し、一日の流れを児童生徒一人ずつに確実に伝え理解するように促すことが求められる。

交流先の学級担任の支援学級への関わり具合によって、支援学級担任の苦労は軽減されそうだと思われた。とはいえ、授業を受け持つ学級のことで精一杯になり、なかなか「ゆとり」が持てないという状況も分からなくはないが、だからこそ、短時間であれ、他の領域に視点を移し、関わろうとすることでこれまで見えなかった一面に気づかされたり、結果として授業を受け持つ学級経営にも「ゆとり」を見いだすことができるのではないかなぁとも思った。

この先生は「ゆとり」持って学級経営してあるな、と客観的に(勝手に)感じることがある。
共通するのは、受け持ちの学級(教室)の場や役割以外での人間関係を上手い具合に活用していること。出会いやコミュニケーションを楽しんでいるというのがにじみ出ているような空気を感じ、関わりを持たれた側もなんだか存在を認めてもらえたような、見守られているような気持ちになるような。


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聴覚障害についての話から印象に残った言葉。
「障害は耳の中にあるわけではない。共有する困難が障害。」

共有とは、他者の存在があってこそである。
その他者の寄り添い具合によっては「困難」さは軽減されていく。

すべての人が同じ「困難」を抱えていれば、それが「困難」であることはおそらく意識されない。

すべての人はそれぞれ違う。
受け取り方もそれぞれ違う。

すべての人の思いを実際に尋ねて回ることは不可能。

自分自身を知り、変わっていくことをおそれないように。


2011年07月03日(日) 「引き継ぎ」

組織を管理する立場の人たちの引き継ぎ、具体的な制度のもとで任務に当たる人たちの引き継ぎ。

「引き継ぎ」について立ち止まり考え込んでしまう。

考え込んでしまう理由は分かっている。
でもだからといって、その理由を私個人が抱えて悩む立場ではない。

企業と学校とで比較されることは多々あると思う。
問題(弱点、努力すべき点)を解決していくためにある「案」があがり、それを実行していくために「計画」が作成されていく。その「計画」がそれぞれの役割を担う一個人に共有され、具体的な見通しを持って試行錯誤されていく。

「学校」というところは、「上」から「案」が下りてくるような形をとる。
広い視点で見れば、それはその学校に属する子ども達の実態あってのことだけど、「上」からの「制度」として下りてくるとどうも受け身にならざるを得ないのかと思われてならない。

全国規模で「特別支援教育」は推進されている。
「支援員」や「介助員」といった教職員ではない外部からの人材も配置されている。
「ボランティア」という立場であることもある。

組織を経営する側に近い人間からすると、外部からの人材を「使う」ことになる。
「支援員」は、組織としての「学校」を支援するのではなくて、一個人の「子ども」に寄り添う役割を担う。


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ある現場で「ボランティアは申し訳なくて使いにくい」という声を聞いた。
その言葉を発した方は、ボランティアが「無償」であることを強調されてあった。

なるほど、もしも、それなりの手当等が発生する「専門家」であるならば、費用が発生しているのだからいろいろと気になることを遠慮無く言えるしとことん動いていただこうではないか!という気持ちになるのかもしれない。

「申し訳ないと思わずにすむボランティア」というのはどういう場合なのだろうか、ということを考えてみた。金銭的には「無償」であるが「ギブ&テイク」の関係が成立している、ということだろうか。

半年ほど私はボランティア活動をしたことがある。
何が支えになったかというと「ありがとう」の言葉だった。
「いつも子ども達のために見守って下さってありがとうございます」
たった、それだけの言葉ではあるがプライスレス。

結果として「学校」や学校「職員」の手助けをしているだけであり、一個人である「子ども」のために安全面を見守り、その子どもの発するメッセージをキャッチして周りに伝える「大人」の存在に過ぎないのだ。
「子ども」それも課題を抱える(障害を持つ)子どもの発達を思えば、ただお互いの存在を認める、それだけで十分に価値があると私は思う。
そこには確実な一対一の「コミュニケーション」が存在する。

コミュニケーションから人は多くのことを学ぶ。

「無償」でコミュニケーションをテーマにした実習、実践を子どもが体験することができるのだと考えるのはどうだろう。
対応していく大人の「資格」のようなものとして、「子どもが、くそばばぁ!と暴言を吐いたり、時に未熟さ、不器用さから繰り広げる行動や表現を通して、子どもを理解することができる人」

偏った表現ではあるが、「ボランティアは申し訳なくて使いにくい」という真意は「ありがとうと言う気持ちを抱き難い困った状況になる場合もある」「善かれと思ってしている行動に我々は文句が言えない」「複雑な心境を察していただきたい」ということを伝えたいのではないか、と。




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「引き継ぎ」が的確に実施できるためには日々の役割(任務、仕事)の反省(ふり返り)が不可欠だと考える。
日々でなくても定期的に。

「反省」(ふり返り)が的確にできるためには何が必要か。

「目標」や「計画」である。

では、その「目標」や「計画」は誰が何に基づいて作られ誰に向けて発信されるのか。



同じ「制度」のもとで役割を担う人材だが、属する組織の方針や計画性、リーダーシップによってその人材個人が持つ「存在感」「価値観」は変わる。
例え、同じ「組織」(同じ場所)にその人材が居続けても、組織を運営、経営する人は変わっていく。その人材の役割が浸透していても、組織を運営、経営する人とゼロから人間関係を構築し、信頼関係を築き、その組織での役割具合についてつかんでいくことに努力していかねばならない。


具体的な「目標」や「計画」が見えない中で、果たして、必要な人材として機能していると言えるだろうか。「ボランティア」ではない賃金が支払われる立場であるにもかかわらず、「方針」や「計画」が見えないのだから、「ボランティア」になるとぶれずにはおれないだろう。
なるほど、そうか。
「無償」ではない人材の使われ方の基盤が揺らいでいるのだから当然ともいえるか。


「制度」で配置される人材として、組織を運営する、経営する人たちへ。
組織を「制度」が機能するような環境に整えてから人材を配置していただきたい。

ただ「制度」(決まりだから、「上」からのお達しだから)だからという流れにのせて、日々やり過ごすだけというのは費用の無駄遣いのような気がするし、人材の向上心、モチベーションも揺らぐ。

唯一、支えているものは、「子どもの笑顔」「子どもの行動」、守っていくべき「子ども」の存在だ。

計画的に、効率的に、使っていだたきたいと切に願う。

いや、私がちっぽけに願うだけでは何も変わらない。


充実感を持って、達成感を持って、より善く「使われる」ために、知識やスキルを習得し、「学ぶ」努力を惜しまず、行動につなげていくことが私に課せられた使命なのかもしれない。

「ボランティア」という立場でも、体験料をこちら側が支払いたいくらい貪欲な学びを深める力があると確信しよう。

そして、私は、「子どもが、くそばばぁ!と暴言を吐いたり、時に未熟さ、不器用さから繰り広げる行動や表現を通して、子どもを理解することができる人」であり続けたい。






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