ふつうっぽい日記
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不思議なことに私は女性でありながら、子どもを産みたいという気持ちがほとんどありませんでした。
でも、子どもは好きです。 子育てをしている母親も応援したくなる心を持っています。
でも、自分が子どもを産むことを考えると、夢や希望が持てません。
その理由の一つらしきものが分かりました。
養育者(あえてこう書く)が、子どもを育てるという喜び、わが子を愛する喜び、子どもであった私が理解できなかったからだということ。「愛されていたか」 写真や文章では分かりません。 「感覚」
感覚が鈍かったのかも知れません。 一人で遊ぶことができるということが「自立」であり、立派なことだと疑わなかったのかもしれませんね。 でも、私は近くに母がいてほしかった。母じゃなくても。母みたいな人が。 ベビーシッターでも。 もし、「ちゃんといたのよ!」という状態だとしたら、私の中で何かの感覚が欠落していたのかもしれません。
たしかに悪戯をしたりして、親としては手がかかったのでしょう。 妹が出来て、妹をいじめたりすると、小さいゆえに、「姉」なんだから!と期待もあったことでしょう。
家から一時的であっても追い出された記憶が今となって、痛く私の心に刺さりました。
躾なのか虐待なのか。 もう何十年も前の出来事だから、彼らを責めることはしません。 でも、私は彼らを許し、そして、当時の可哀想な自分を解き放つことはこれからの人生では大切なのでしょう。
大きな声で笑っても、軽蔑される。 世間体を気にするように言われる。
そういう歪みみたいなのがこの4月5月に表出して私を狂わせたのでしょう。
そして、比べないで欲しかったな。
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