ふつうっぽい日記
もくじ|過去|未来
なんだか、見えない何かに支配されている今日このごろ。
顔を出しては溺れての繰り返し。
理解しようと思えば、それは歪んでいるように思えて、じゃぁ、次はその歪み具合はどんなだろうかと探究心が突き動かされて、次は、その歪んでいることを誰かに伝えたくて、忙しく動いてしまう。
それぞれの過程では、自分は正しいと思ってしまう。
うわ!これって、その支配されている「あいつ」の特徴じゃないか! 嫌だ嫌だ。
こんなの、放っておいていいんだ。 正義でもない。 自分を犠牲にすることでもない。
ちょっと信じられないことをする人がいるよ!と、酒の肴にしてやろう。 それくらいの価値くらいつけてやろう。
「適当な対処方法は、無視をすることです」 これが模範解答だったなんて!
なんどもやり直して、やっと意味が分かった。 現実に戻れた。
2009年07月14日(火) |
マイナス感情を認める方法についての考察 |
あえて、堅そうなタイトルをつけた。
「マイペース」(和製) my+pace 自分に適した速度で、物事を進めること。 ↑これは、ネットの辞書で表示された説明だ。
自分に適した速度… 速度に限ったことではないだろう。 独特の各個人の感覚の違いから速度が変わってくる、そういう深い意味も多分あると思う。
では、「感覚」とは何だろう。
目・耳・鼻・皮膚・舌などが身体の内外から受けた刺激を感じ取る働き。また、感じ取った色・音・におい・温度など。 (美醜・善悪など物事について)感じとること。また、感じとる心の働き。感受性。感じ方。 これも、辞書からの言葉である。
なるほど、個人差があることがよく伝わる。
「私は、感覚で対応している」と、ある職場で一緒になった方が言われていた。 それが感受性を重視しているという深い意味なのか、日々更新されていく環境によって変わりやすい「身体の内外から受けた刺激」のことをさしているのか、今となっては本人に確認することは極めて難しい。
しかし、冷静に考えると、物事を思案して実行するにあたっては、「感覚」という働きから始まっているというのは納得できる。
「だから、つまり、君はどういう方向性をもって対応にあたろうとしているのか?」までの精神までは伝わらない。言葉に起こす、ということを日頃から鍛錬のために行っている私ゆえに、少々「理屈」っぽく客観的に対話をしていこうとすることもあった。
「あなたの観察と分析は感心します」との反応はあるので、私も調子にのるところは絶対にあった。
同業の人材が同じ場所にいることの安心感、そして向上しあう関係を私は強く求めていたことに気付いた。よって、私の判断は、そうなってしまう。極めて高い設定だ。
その新しい人材が新しい場所で、まだまだ未知の試行錯誤の領域へ踏み出すこと、それは偉大なる一歩なのだと思う。 未熟故に、気に入らないとかそういう視点は持つものではないと意識してきたつもりだ。 知識を求めている、知ろうという意欲を相手から感じると、自分が知っていることは「教えて」やろうというお節介も私にはある。そういう自分も好きなのだ。年下だから若いからというのではなく、年齢を問わずそういう姿勢でありたいと思っている。ただ、やはり自然に年輩の方には敬意をもっていたいので貪欲にその方から学ばせてもらうという精神は大切にしている。 また、年下、そして「子ども」と呼ばれる層にある人からも私は学ばせてもらっているという気持ちを忘れない。何かに気付かせてくれる貴重な存在だ。
「大人」になってからの人間関係は、分かりづらいために、憶測は避けられない。 自分の中の「ふつう」や「常識」のラインで独特の「第一印象」に振り回される。 そして、その第一印象の感情を第三者に伝えることもやってしまう。
●「あの人、コワ過ぎ」 純粋な第三者には、それが感覚の情報になることも多分あると思う。
私はひねくれているつもりはないが、どんな人もしっかり向き合えば理解し合えると思ってきた。 残念ながら、「理解し合えるものだ」と言いきれない。
と、言っても
◎「見た感じもなんかコワそうですよね。近づかないようにします!どういう人が分からなかったので、なんだかホッとしました。今日はコワかったことを忘れて好きな音楽でも聴いてリフレッシュしてくださいね」
という反応はもちろんしていない。
実際に、やりとりをした。 私は、●発言に対して、「とても素晴らしい方でしたよ。勉強になるところがたくさんありました。」と正直に「あの人」に対しての感想を伝えた。
●発言者は「私が先入観を与えてしまったのではないかと、心配していたのでよかったです」という反応。●発言者の「あの人」に対する思いが、私は気がかりだった。
●発言者は、自分の言動が悪い方向に影響していないのかを気にする傾向らしかった。 そして、●発言は、「マイナス感情」を潔く認めていると思った。
生き辛さは、人それぞれだが、「マイナス感情」をなかなか認められないというのが私だと思った。リアルタイムに、「うわ!やだ!」「ちょっと!やめてよ!」「お前ムカつく!」と叫ぶ無邪気な子ども等は、「マイナス感情」を抱えずに、上手に発散できていると思える。
しかし、「そういう言葉はお友達が傷つくからよろしくない」「自分が言われたら嫌なはず」と諭されることも多分多い。 「やだ!」と言われることで、「ゴメン!」に繋がるかも知れない。 「お前ムカつく!」と伝えることで、「オレだってお前のことムカつく!」と対等の感情を潔く共有できるのかもしれない。
腹を割って話せる存在。 理想は自分と関わる人、全てがそういう存在であればと思う。 でも、そこにばかりこだわるのは違うのだろう。
たった1人でも腹を割って話せる存在がいればいい。
|