2006年09月25日(月) |
どう聞こえているんだろう |
人々の心を揺さ振る演奏をできる人の心に、音楽はどのようにきこえているのだろう。 私は、海外からきた指揮者にその一部、わけ与えてもらえて本当に胸が張り裂けそうな衝動にかられた。そう、きっと私がくみとれたのは一部にすぎないのだろうけれど、こんなにも私は音楽に心をにぎられてしまった。そしてあんなに自由に胸をふるわせて、心を、声を、解放したんだ。たった一部にすぎないのに。 あの人はいつも音楽をきくたびに、楽譜をめくるたびに、あの衝動とやすらぎにからだを震わせるのだろうか。いつも音楽が引力をもって、どんなにか自分に迫ってきてくれるのだろう。 まるでハンモックでねむるかのようにゆるやかに。まるで悲痛で苦痛な嘆きをくみとって泣き叫んでくれるかのように。心が、ふるえが、衝動がからだを飛び出して自由な世界へ足をおろすように。 ああ、それはどんなにか幸せなことなのだろう。なにがあっても音楽が心を解放してくれる。生きているあいだ、いつだって胸を満たしてくれる。どんなことがあっても、音楽が心をゆらしてくれる。 そんな人になれたなら。 いつだって音楽が私に迫ってきてくれる、そんな人間になれたなら、もしもそんな幸せがいつも私のかたわらにいてくれたなら、きっと私はなにがあっても生きていける_ そう思う。
映画のワンシーンをみるかのように、ときどき再生される光景と記憶。 あたたかい陽のさしこむ温室のろうかで、レモン色の服をきた赤ちゃんの私。たどたどしく大きなカップグラスを両手でつつんで、とどまる牛乳を飲もうとしている。 なんだかあたたかく、ぼんやりと、だけどくっきりと思い出せる景色。そう、私は過去に絶対、この景色のなかにいたんだ。そんな確信をもてる感じの。 こんなにも身近な感じがするのに、客観的にも思えるのは、ずっと昔、幼かった頃にこの光景を一枚の写真でみた、そのせいなのかもしれない。 なぜかこの光景は私の記憶から少しも薄れたり、揺らぐことがない。 なんだか静かなのに、陽の明るさと、陽の温かさと、陽の光がぼんやりとうかぶ音がある。 私はそれらがみちたやさしいところに座っているのだ。 ことばも、かんがえもなく。 だけど、その陽と白とぼんやりとしたあたたかいなかに、私はとこんと座っているのだ。
ただそれだけの景色が。ただそれだけの記憶が、こんなにも私にはいとおしい。
デズニーにいってきました(注:ディズニー) 開園10分前に着いたのですが、おー並んでるよー。 友「あ〜、今日は混んでるね。さすが三連休の真ん中」 中学一年だったか二年だったかぶりのディズニーランドは なかなかの混雑ぶり。 でもこの位の混みは想像していたので、まぁこんなもんよねぇ。と に、しても高ー!!と思うのは入園料。もうかってるんだろうなぁ〜。 アトラクションはそれほど乗れませんでしたが、パレードが楽しかった!! 昔はそんなにパレードというショーに魅力っていうか、 ワクワクを感じなかったのですが、 大人になるとパレードって楽しいんだね! 友達はどでかい乗り物の上で手をふるキャラクターに興奮をしていましたが、 私はどっちかというと、 その乗り物の周りを踊るダンサーに目がいっていました。 女の人みんなセクシーだよぅ!!可愛いよぅ!! 衣装も、メイクも、ダンスもすってき〜! 海賊の格好をしたダンサーの兄ちゃんにときめきました。
昔は「120分まちってなに!?いやだぁぁぁ」 と叫びたいくらいうんざりしたものですが、あら不思議。 子供の頃の二時間と、大人の二時間というのは 苦痛度がぜんぜん違うのですね。 友達と話しながらだと、気づいた頃にはもう搭乗口目前だったり。 時間がすぎる速さにびっくりしました。 12時間くらいいたはずなのに、 パレード→アトラクション→お昼&買い物→アトラクション→買い物→アトラクション×4、5個のコースをこなした頃に 「げ、もう夜だよ!?」 ってことで帰ってきました。
でも楽しかったですね〜♪ パレードがいちばん面白かった☆ ともだちと乗り物待ちするのも意外に楽しみがあることもわかった☆ もちろんすいてる日に行った方がお得なことは事実なんですが(笑)
たとえば挨拶もするし、もちろん会話もする。携帯の番号もメルアドも知ってるし、一緒に行動したりもする。あたりまえだけど、そんな人を友達という。 だけど、何だかまだ本当に友達になった気がしてならない時がたまにある。 私は嫌われるのをこわがってよく遠慮をする。相手に何か頼みごとをするのが苦手で、たとえ鉛筆一本かりるのですら「いつ言いだそうか」とタイミングを見計らう。損ねることもよくある。 私は勝手に遠慮して、逆に、相手から遠ざかってしまっているのかもしれない。 誰かに「私あの人と友達だよ」と言っても違和感を感じないような、本当の友達が私には何人いるだろう。 なんか、高校まではみんなが友達だったのに、大学に入ったら誰もが大人な気がするんだ。「本音と建前」を使い分けている大人の世界な気がするんだ。誰とでも笑顔で挨拶しあえるけど、この中な何人が私を友達と認識してくれているんだろう?そして私自身も何人を友達と言ってよいのだろうかと迷ってしまう。 でも何となくわかる気もする。答えはわかってるんだと思う。 私にとって友達っていうのは「友達になるにはどうしたらいいだろう」って悩んでしまったり、「一緒にゴハン食べにいきたいなー」って思ったり、遠慮しないで話せるようになることだったりする。 そして私がもっとたくさんの人と友達になるために一番手っ取り早いキーワードもわかってる。「遠慮しすぎないこと」私が相手を信頼して頼みごとをしたのなら、相手も遠慮しないで信頼しかえしてくれる。 今の私は信頼してくれているのに、私はつまらないことで遠慮している状態のような気がする。
2006年09月05日(火) |
違いがあるから必要なこと |
私はあまり他人から大ダメージを受けたことがない。それは、私の周りには「ひどいこと」を言う人がいないためなのか、私が言われていることに気づかない鈍感なだけなのか。というか、その前にもともと人付き合いを広く持たないことも原因のひとつなのでしょうね。それに、もうそれ以上クヨクヨしたり悩んでも仕方のないことを言われても、ウジウジするだけ無駄だと想いませんか、そういう場合、「いいや、私は悪くないじゃないか」って自己解決させてしまうこともよくあります。 ちなみに、ちょっとお互いケンカごしの場合、「言われたら言い返す」の精神で、受けたダメージはその場できっちり相手に返すことで、ストレス発散して忘れているのかもしれません(結局後で後悔しますが、言葉自体に傷ついてはいません) 同じ言葉を言われても、「傷つく人と傷つかない人」がいることは仕方のないことだと思う。 「鈍感な人」は時に「思いやりのない人」にもなる。開き直りは、「開き直る図々しい人」とも「開き直る図太さがない人」ともどちらの意味にもとれる。「強い人」は「ワガママ」や「自信過剰」にもなりうる。一方、「鈍感な人」は嫌味を言うのが大好きな人には「ストレス解消の絶好のカモ」になるし、「開き直る人」は「過ぎたことでウジウジしない良さ」がある。 「傷つくことが悪い」わけでも「傷つかないことが良し」でもない。 でも、常に「相手が傷つかない言葉」を選ぼうとすることは、どんな人にも大事なことで。 「平等」と言われているけれど、「傷つく言葉」に平等も辞書もなくて。だから「こう言われたら傷ついても、おまえは正しいのだ」とか、「こう言われて傷ついても、おまえが悪いだけだ」なんてものはない。人が真に平等になることなんて、ありえない気がしてくる。人はみんな違う、誰だって基準や、価値はぜんぜんちがう。「わからない、自分が何を悪いことをしたっていうんだ?!」そういう風にあせったとき、不満や、不平を感じるかもしれないけれど、だから「やさしさ」が必要になるんだ。自分は悪くないのだと主張するのをやめて、泣いている人に耳をかたむけること。 誰が正しくて、誰が悪いのではなくて、「やさしさ」を持つことが必要なんだ。
夏休みをしばらく過ごすと、寝坊になります。 いえ、寝坊なんて年中なのですが、ここ最近はほんとにマズイです。 夜眠れた上に、朝起きるのも遅いっていうのじゃなく、 夜眠れないせいで徹夜して、朝にやっと眠気がくる。 そして、朝六時頃に眠り午後三時に起きる。九時間睡眠。
七月あたりにも何度か夜更かしをしてしまい、 カーテンめくったら朝だった…ということも幾度か。 そのときは四時ころでも明るかった。
大学三年生も残すところ後期だけ。 まだ暑い日々が続くといわれているし、 実際暑いから、夏の感じなのだけれど。 この季節が終わったなら…? もう、考えなくてはいけない。 どんな道を選ぶにせよ、 もう、現実から逃げるわけにはいかない。 逃げている時間はない。
なんとなく、途方にくれる。 私はもう21歳なのだということ。 大学生で、あと一年半で卒業なのだということ。 「進路」というより「人生」の言葉がしっくり聞こえる… そんな年齢。
わたしのじんせい いきていかなくてはいけないということ
「秋」なんてきてほしくなかった。 三年生の後期が始まるということ。 本当に苦悩の時間がもうすぐやってくる、 人としていきていくために乗り越えなくてはならない苦悩がくる。
眠れない夜、カーテンをあけたら もう明るい朝がきていた七月。 だけど、いまさっき。 外へ出たたけれど、まだ夜だった。 そうか、もう九月なのだから。
確実に季節はうつろうとしている。 どんなに願っても時間はすぎていってしまう。 だから、一時を、一日一日を大切に過ごすしかなくて、 そうして納得していくしかなくて。
わかっていても、心のおくそこで 「ずっとこの明るくて、さわやかな夏がつづいてほしい」 そう思っていた。 時間が経っても、知らないふりをしていた。 「まだ夏」そう思っていた。
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