私の学校には壁がレンガっぽい建物があって、そこはすこし隅っこにあって。人はそんなに通らないけど、校舎と隔てた向こうからなんだか人がいる賑やかな空気だけ伝わってくる。 私はそんなところにある、ひとつの細い階段が何だか居心地がよくて、今こうして日記を売ってる。 少し高いところに座ってる。 斜めしたにはこぢんまりした広場。顔をあげれば、目のまえに幅広の階段とその先に通路、そしてその間に一本の桜の木。 この桜の木が不思議なくらい、ここに座る私を自然にしてくれてる。この木がなかったら丸見え。自然にかくまってくれている感じ。空気に溶け込みながら、ひと休み。
2006年06月28日(水) |
子供を嫌いだった理由 |
子供は無邪気 子供は正直 子供は汚れなき美しい心
そうですか? 本当にそうなんでしょうか? 何にも知らない無垢がかわいいと? 何にでも素直なところがかわいいと? 保育士になりたいとか、子供かわいいとか、そんなことは社交辞令みたいな決まり文句なんだと思っていました。自分の株をあげるためだけの。 そう思ったのは、子供時代の私がかわいくなかったから。 そんなにたくさんの記憶が残っているわけではないです、けど私は小学二年くらいの頃には小さな計算もしていた(たとえそれが幼稚なものでも)。 みんな誰だってそうでしょう? 自分が小さい頃に腹黒かった記憶があったり、自分が小さい頃にかわいかった記憶がなければ、目の前にいる子供も一瞬そう見えてしまうんだ。 本当の姿をみられないんだ
うれしくも、かなしくも、いらだたしくも、たのしくもない。それは無感情。 あまりに簡単すぎる答え。 だけど、何だか世界にはちょっと違う無感情があるような気がしてならなくて。それはあきらめにも似て、あせりにも、騒音のなかにある色褪せにも似て。 何かにせかされながら過ごした時間は、記憶に感情に明瞭に焼き付けられない たくさんの感情を感じたとしても、それが過ぎたとたん、またあせりだす 穏やかに、鮮明に刻まれない記憶。
2006年06月21日(水) |
平等であって不等式なもの |
A=B=C AもBもCも、すべて平等。 じゃあ A+B>C AとB、Cを天秤にかけたときCの方が軽い かと言うと、そうでないものがある。
ちょっと自転車で走った所に薬局があります。スーパー大くらいの広さで白い壁に明るい店内で、食品も日用品も安い。やっぱ薬局はいいですね!洗剤やサランラップとかなんて特売してると蓄め買いしてしまうので予想以上にお金を使ってしまいますが。 さて今日おもしろかったことと言うのは、そこでナンパされたと言うことです。しかも、またその場所が悪い。月1の婦女子の必需品がすごく安売りだったので、私はかがんで値段を見ていたんですよ。 そしたら突然背後から 「ねぇ、今度遊ばない?」 ってオイ!!! ここでか!!ここで声かけるのか!!? 見たところ作業服着た感じで、サワヤカでも不爽やかでもない普通の人でしたが。あなたを「モテなくて悩んでる人だ」と、勝手に想像して、「何故なんでしょう?」って相談されたなら、私は原因はタイミングの悪さであると断言します。 せめてシャンプーみてるとことか、洗剤選んでるとことかあっただろうに。 ついで言うと、先に自らの連絡先を渡してくるくらいの誠意はなきゃ、女の子はたとえ名前ひとつだって自らの情報をあかさないと思いますよ。こんな危険地域東京で初対面の男性を信用するなんて相当こわいですから。 それにしても、あのタイミングの悪さは呆れるを通りこして、「冗談のような本当にあった話」という感じです。
気付くのが遅すぎた。 ときどき夢に見るのも、思い出に残るのも優しい友達たち。誰もかれも優しくて、本当にいい子たちで。なのに私は違った、優しくされることに何も感じない、それほど人を心配したこともない…誰かを傷つけることも私には関係ない…私はわがままだった。 そんな私なのに、いつだって誰か一緒に友達がいてくれた。…ひとえに友達が優しい人ばかりだったから。私は冷酷で身勝手な性格なんだと気付くまでに時間がかかりすぎた。だって、誰も私を責めなかった、私に悪口を投げなかった。鈍感だっただけで、本当は嫌われていたのだろうか?見えないところで陰口をささやかれたのだろうか?たとえそうだったとしても、私は気付かなかったに違いない。 身勝手だったけれど、私は無邪気でもあった。私は誰かにことばを投げ掛けられて傷ついた記憶がそんなにない。ゼロと言っていいくらい。私は女の子が言われてイヤだと思う言葉を平然と聞き過ごしていた気がする。自分が傷つかなかった言葉だから、傷つくともわからずに友達にも言ってしまっていたことが何度もあると思う。もしかしたらイヤミを言われたこともあるかも知れないけれど、たとえ言われたのだとしても私はそれにも気付かなかっただろう。 心が子供から大人になるのが遅かったように思う。いいえ、深層と表面が一体化しない感じ。だから悩んで、毎日よく色々考えたことは覚えている。みんな子供だと思い込んでいた…みんなの考え方が男の子、女の子、そして大人の心に形づくられていく中で、私は誰もが子供なのだと疑いもしなかった。そのくせ自分は大人だと思っていたんだ。 身勝手でワガママで、鈍感で…人に優しさを与えもしないで…愚かだったのは私だ
に録音できたらいいと思いません? いえ、できる機器はすでに開発されているんでしょうけれどひとえに買えるだけのお金がないだけで。 今までにたまった音楽を整理したいです。MD何枚になるのやら。持ち運んで聴きたい曲が別々のMDに入っているとカバンのなかがMDでごちゃごちゃに。 iPodとかでもいいかしら。MD→iPodができるなら。できるんだったら大歓迎なんですけど…今度電気屋でたずねてみようか。聞くだけ聞いて多分その日に買うことはないんだろうけど(ひどい)
日曜日に妹とカラオケに行きました。 ポップスはクラシックの発声では歌えないですし、地の声でどのように操るかと言われればもうそこは未知の領域です。正直切ないですが、あまり人前で自信持って歌えるものではないです。どれだけ汚くきこえるか恐くて、おっかなびっくりしています。 ですけど、私はカラオケが好きです。好きな歌がたくさんあるから。歌詞もやっぱり日本語がいい、心を吐き出しやすいから。 不思議なものでポップスはうまく歌おうとか良い声で歌おうとかすると全くうまく行きません。どれだけ心をことばで吐き出すかって思ったほうが、自然に音も声ものっかる。 いい声にしようなんて気にしないで、「どうしてなの」「なぜなの」という叫びを歌に解放した瞬間、苦しさも痛さもなく、声はまっすぐのぼります。 私はこのあいだ初めてこれを体験しました。 自分は毎日クラシック音楽をしていて、毎日心を乗せる練習をしていたつもりでしたが、やっぱり殻に閉じこもっていたみたいです。なにかが恥ずかしかったのか、なにかが怖かったのかわからないけれど、確かに私は殻をもっている。一度殻を壊す体感をしたから、よくわかりました。
六月に入った頃から、「西の善き魔女」著:荻原規子 を読んでいました。市民図書館で全巻一挙に借りて。 中学の頃一巻だけ借りた覚えはあるんですが、当時私は借りても読むまでに返却期限がきてしまう子だったので、内容はまったく知りません。タイトルだけ知っていたという程度。ですが近ごろ深夜にアニメになっていまして、熱が。 こんなにファンタジーな作品ってあるでしょうか。姫に騎士に女王、伯爵…それの根底にある世界がとても素敵です。私たちの現実社会にある常識を、話の中でとりあげても、その世界では当たり前にしていないところがおもしろいです。だから、身近なのに夢をみてる感じ。 超感動した、とか超泣けたとかそういうのでなくて、「これぞファンタジーだ!」って嬉しくなるというか…王道っていうとちょっと…この世界感を求めていて中々めぐりあえなかったけど、やっとめぐりあえた!!って感じでしょうか。純血のファンタジー…うーん、ダメだ上手な表現が。 とにもかくにも、私はこの物語を読んでいると、ずっと不思議な色の夢にひたって次から次へと巻をすすめたのでした。 八冊あったのに気付いたらもうおわってしまいました。終わりに近づくにつれて、なんだか寂しい気がしてくるんですよね。 今その寂しい気をとりはらう新しい物語を探し中です。
その手をもとめて わたしは髪にくしをいれましょう ささやかな首飾りと 少しばかり飾られた服をまとって 太陽に照らされた昼を過ごしましょう その夢をもとめて わたしは優しくありましょう 怒りも憎しみも嫉妬も 忘れることはできません わたしはしがない一人の人間 それすら抱いて 善き者になりましょう 美しいわたしになれますように その手をとれる日がきますように
−−−−− 女の子が着飾るのとかオシャレするのはもてたいからじゃないと思うんですよ。自分に夢を見れるくらいの自信が欲しいというか。おとぎ話のような王子様とお姫様。いつかそんな王子のような人に出逢いたいと夢みるのに、鏡に映った自分がまるでお姫様とはかけはなれていてがっかりする。素敵な恋物語を夢みることができないなんて、なんてつまらないんでしょうか。鏡に映った自分に失望した女の子は、夢をみたとしてもそこにいるお姫様は自分ではありませんよ。きっと。お姫様は美しいのがお決まりですから、どうして「私」をそこに想像できますか。自分ががっかりする「私」なのに。 まぁ、男性より清潔にするっていう性分もあるんでしょうけれど。虫とか服に泥汚れがつくとか耐えられないですもんね。
去年の健康診断よりも、視力が両目ともマイナス0.5です。 何となく気付いてはいましたが。本を読んだり、夕方つかれたころの遠くの黒板のぼやけ具合。 視界にもやがかかったり、明瞭でない感じが私はものすごく嫌いでなりません。 それだけで私の意識がぼやついている気がする。地に足をつけていないようで、不安なんです。 私はいま本当に目を覚ましているんだろうか?このままぼやけた意識な感じがつづくのは耐えられないって。
私はそれほど詩集を読むわけではないのですが、合唱曲を歌っていると、とても素敵な空気をもった詩にたくさんめぐりあいます。 日本の合唱曲をつくる作曲家さんはどうしてこんなにもいい詩ばかり歌にしてくれて私は日本の合唱曲が大好きだー!! 私が学校で勉強している外国の歌曲はなぜか恋とか愛とか男と女の話ばかりです。私がただ識らないだけなのかもしれませんが、私が知っている限り8割はそういう話です。あ、だけど宗教曲もたくさんあるか…。 ですがヨーロッパ発祥の曲はとにかく恋と愛の歌ばかりです。それも素敵だと思います、まるでルビーやダイヤの宝石のように甘くまばやく輝くような空気。 でも今私が好きなのは、水面にときどき光る白い輝きのように、自然にひかる空気。小さくてとらえられない、けれどまばゆくて、でも必要以上にキラキラしない、心に吹く風のように一瞬な輝き。 世界の色や、自然の光景だけじゃなくて、恋や愛もこんな空気で詩になったなら、すごく嬉しいだろうな。私はそういう歌をうたいたい。そういう歌にめぐりあいたいし、そういう歌を見いだせる人になりたい。
工藤直子さんの「あいたくて」私はこの詩の想いも空気もだいすきです。
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