私はおいしそうにたくさん食べる人が好きです。 でも、大食い大会とか嫌いです。なんで苦しい思いをしながら食べる必要があるのかって思う。 「フードファイター」とか一時期流行ったし、今でもテレビで大食いの人が取り上げられてることがある。テレビのその人は、味をわかってるのかわからない速さで、食物を胃に流し込んでく。 たくさん食べることを悪いって言いたいんじゃない。その人が満腹だと思うまで食べるのは全然良いんです…なんで苦しいのに、それ以上に食べなきゃいけないんですか?「大食い」っていう称号のためなんですよね? 地球のどこかに、食べたくても食べるものがない人たちがいるのに? 自分が食べたいものを食べたいだけ、いつでも食べられるこの国では、食事は楽しみなもの。満腹になるまで食べられるのは裕福な証で。「大食い」をエンターテイメントにする日本は、飽食なんだということ。 だけど、本来、食物は生きるために食べるもの。人間が生命として活動するために摂取するもの。 人間は過剰に栄養素をとっても必要でない分は、体の外に排泄されるそうです。だから、大食いでは生きるために必要のない食物を、自分の称号のためだけに消費してることになるのかなって思う。その食物が食べるものが無い人ものになったなら…って考えてしまう。 ケチケチしたこと言ってるって思うかも知れません。だけど、エンターテイメントとして騒ぎ立てる価値観に何となく悲しくなっただけです。
2006年04月27日(木) |
こんなに不便になったのは |
世の中はもっと便利なはずだ。昔じゃ考えられないような電化製品、ATM、携帯電話、インターネット… 個人情報保護だとかいって、自分の情報すらなかなか手に入れられない。こんな馬鹿な話があるだろうか。自分のことを自分が知られないなんて。おまけに自分が自分であると証明するために何段階も手続きを踏まなきゃいけない。 世の中がこんなに不便になったのは、全部悪い奴らのせいだ。卑怯で、姑息で、自分第一の迷惑なヒトのせいだ。 ストーカーとか、振込め詐欺とか、ワン切り行為とか。人の優しさとか、気遣いとか、そういうの利用して犯罪してる。だから、誰だって自分もだまされないように努力してる。だけど、そのせいですか?社会の目線はどんどん変わってきてる。 優しい人は馬鹿ですか?思いやりのある人は損をするんですか?責められるべきなのは誰ですか? 「平和ぼけ」していた日本はどこにいってしまったんだろう。平和ぼけってダメなんですか?相手を疑いもしない、そんな健康な世界が馬鹿にされるんですか? 「自分で自分の身を守らなくてはいけない」のは確かだけれど、最も責められるべきで罰を受けるべきなのはやっぱり悪いヒトだ。
私って何なんだろう。 なんだか空騒ぎしちゃったり、なんだか知らずに毒舌になっていたり。 なんだか自分の性格がわからない(-_-;
私が本当に思うのは、高校、大学と先輩に恵まれたということ。 中学まではすごく慕ってはいたけど、親しくしてはもらえなかった。私が一方的に憧れていたっていうだけで。「部活の先輩ってこういうものなんだ」って思いました。後輩は遠くに離れた先輩を見ているしかないと。後輩はなかなか先輩に話し掛けられないし、歩み寄ろうとして ウルサイ と思われてしまったら、しようがない。 でも、高校で部活に入ってからしばらくしたら、ある先輩が歩み寄ってきてくれた。そうしたら、他の先輩とも次第に話ができるようになっていった。 大学に入学してからも色々な先輩とつきあうことが増えたけれど、どの先輩も親しくしてくれる。とてもありがたいことです(T-T) 後輩をかわいがれる先輩っていうのは本当にすばらしい人だと思う。そんな先輩に私もなれたらいいなと思う。 こちらが恐れ多いなぁと思いつつ、親しくしていただけたら嬉しいなぁって気持ちでいたなら、先輩たちも心を開いてくれる。世の中にはそういう良い人がたくさんいる。
夢をみました。 何だか周りを疎遠している、無口な中学の同級生。でも中学の頃はそうではなかったし、一度声をかけてくれたこともある。もしかしたら、勝手に距離を置いてしまったのは私なのだろうけれど。 変わってないねって皆お互いに話していたし、私もそう思う。だけど、多分私はすごく変わったから…昔の自分勝手だった私を今となっては恥ずかしいくらいで。 きっと誰でも昔の恥ずかしかった思い出を持っていて、でも「もう時効」という感覚で話しているんだ。 あの頃の私じゃない、だけど、今の私はあまりに昔とは違う自分な気がして…その場に合う自分がわからなくて、チグハグな人になってしまう。自然でいるのって一番難しいんだ。昔とか今とか考えなくても、普通に私でいること。 夢のなかの私は、同級生たちと遊びにでかけていた。そして、自然にしていられていて。その無口な同級生と話をしていた。 少しでも話をしたくて、少しでも私に話してほしくて。どうして疎遠な感じがするのかも聞いてみたかった。私の言いたいことや、話したいことは恥ずかしいセリフが多くて、夢のなかの彼にしか言えないし、このまま同窓会もなかったり、彼がどこかの女性を愛したのなら一生言うこともないだろうけれど。 だけど、夢のなかの私は彼の信頼を得られて嬉しかった。
2006年04月21日(金) |
心頭めっきゃくなんたら |
心頭滅却すれば火もなんたらと言いますが、今日見たテレビの中で、こんなことをやっていました。 「左脳(右だったかも(^^;))ではプラスの言葉を思い浮べて、右脳では画的なイメージを思い浮べる。」 そうすると、分厚い雑誌を引き裂いたり、タバコを手のひらで消せちゃうそうです。 でその際の注意は、それ以外の光景や不安などは思い浮べないように、脳と外を一枚バリアーするような感じでシャットアウトすること。ようするに、イメージに集中して、それ以外は一切考えない。まるで瞑想してるの!?ってくらいに。 たとえば、テレビのタバコの例で言うなら「熱くない」って言葉じゃなくて「あったかくて気持ちいい」。そして、自分の右手が灰皿だという画をイメージ。(ちなみに雑誌だったら、裂く時の紙のビリビリ〜ッって音も想像するとなお効果的) 人は成功しようと考えると余計に力んでしまって失敗するんだそうです。だから楽しいことだけ考えて、楽しむようにだけすればいいと。 人間は脳のうんパーセントしか使ってないっていうし、もしかしたら人ってもっともっとすごい力があるのかもなぁ〜って思いました。
さくらの枝に 桜色と新芽の緑が 陽気のなかで嬉しそうだ
陽気のなかで 空気と日がたわむれて 踊っているようだ
この道に とつぜん寝そべって だだをこねたい いますぐ この大地に背をつけて ひろい空をかんじたい
なんか某ヒーリングアニメのセリフっぽいですけど(笑)
三年になって、少し授業形体が変わって、二年間おなじだったピアノのグループ授業のメンバーが変わりました。 私はそのメンバーが結構好きで、特に仲良くなった女の子と別になってしまったのでちょっと悲しかった。その女の子は、遠慮とか気遣いとかしないし、求めない。お世辞もウソも言わないし、思ったことをそのまんま口に出すのに、全然人を傷つける言い方にならない…こんなに自由奔放で快活な人だけどイヤミも迷惑をかけることもない、大学に入って「こんな人がいるんだなぁ」と驚きました。 その子と今日いっしょの授業だった時「ねぇ〜ピアノ変わっちゃったねーうぇえ寂しいよ〜」と話し掛けられました。 あぁ、私も寂しかったみたいに寂しいって思ってくれてたんだ〜って、本当に心からじんときちゃいました。その子にとって、私がピアノのクラスにいないことが残念だった…こんな風に思ってもらえるなんて本当に嬉しいことで。 あの一言がなかったら、私はこんなに嬉しく思えることもなかった。きもちが伝わることはなかった。 私は自分で言うのもナンなんですが、本当にシャイで相手に好意を表す言葉をなかなか言えなくて。でも、その恥ずかしさを乗り越えて一言発したとき、相手が喜ぶことになるのなら、がんばってみようと思う。後で言えばよかったって後悔するより、知ってほしいきもちは言葉にしなきゃって思う。
2006年04月16日(日) |
人の気持ち本当にわかってる? |
私は他人の気持ちを頭で解析することはできても、きっと心から感じることはできていない気がする。 それは私が自分しか見えていないから。余裕のない私はいつも焦ってる。緊張している時なんて、自分の胸の鼓動が心を急かしているような、頭のなかは焦りでいっぱいで。目は開いているのに集中できていないし、耳は聞こえているのに次のことばかり考えていて気に留められない。叱られることや、怒られることや、失敗ばかりに怯えて、びくびくしている。いつも頭の良いしっかり者のフリをしているけど、怒鳴られた瞬間私は弱い本当の私が出てきてしまうのを知ってる。それがバレるのが恥ずかしいんだ。 ほらね、いつだって私は私のことだけで精一杯。きっと、これから苦しいこととか怒られたりとかあるかもしれない、だけどそれは私が成長するために与えられた試練だと思おう。私がもっと強くなるためなんだって思おう。
NHKのみんなのうたを見て、なんか泣けました。 女の子とクマのヌイグルミの話なのですが、小さい頃からずっと一緒なんですね、寝るときも家に誰もいない時も。出かけるときだってクマを連れていくとダダをこねるほど。そのヌイグルミがある日ゴミ捨て場に置かれていたのを見て、女の子はすかさず助けて母にプンプン怒りながら家に帰ります。そして、ほつれたうでを縫いあわせて、まただいじそうにベッドの枕元におくと、最後にクマは一筋の喜びの涙をながしました。 歌はクマのヌイグルミの目線で進んでいくんですが、「なにも口はきけないけど」とか切なくて。ヌイグルミは全て受け身の立場で何にもできないんです、在るだけ。嬉しいも悲しいもなにも言えない。けど、女の子にとってはそのヌイグルミが大切でしかたなくて…なんかうまくいえません(T_T) 私も、いつかもしこどもを産んだのなら、その子と同じくらいの大きさのヌイグルミを与えてあげようと思いました。なるたけ長持ちしそうな可愛らしいヌイグルミを、ひとつ。たくさんあるよりも、きっとそのたったひとつが大切だと思えることが幸せだと思うからです。口もきけないし、心がないようなモノの気持ちまで考えられるのは、とても優しい心だと思うからです。 エゴですかね?でも親的にもいくつも与えてしまうよりお金もかからなくてよさそ(笑)
2006年04月13日(木) |
自分が嫌だと思う事は |
自分が嫌だと思う事は 人にもしてはいけないよ
と幼い頃から教えられました。ケンカして妹をはたいたら、私も母からはたかれました。「どれくらい痛いかあんたも体験しなさい」と叱られました。 母の前で友達にイヤミを言ったら、「おまえはそう言われたら嬉しいか?おまえはイヤミを言っていて楽しいか?」と問われました。
だから自分がされたら嫌だと思うことは、他の人にしないようにしました。それは間違いじゃいし、そうすれば失敗することはほとんどありません。人の痛みを自分において考えるには一番わかりやすい方法です。 だけど、世の中には私がされても何とも思わないことを、されたら嫌だという人もいるし、私がされて嫌なことを平気という人もいて本当にそれが個性なんだなぁと思います。
2006年04月12日(水) |
それは見えないけれど |
たとえば自分が愛されていない気がしていたり たとえば自分が生きている意味がわからなかったりする なにをしても何故か満ち足りなくて どこかさみしい気になったりするとする
こんなにも複雑な心境が こんなにも難解な疑問が ある日とつぜん なくなってしまうことがある 正解を経たように 満たされたかのように
それはきっと簡単なひとつのことで 決して狙ってできない 目に見えないきっかけのようなもの
求めていたなら きっと受け取れるはず きっかけのメッセージ 偶然のように 必然のように この世界がくれる 疑問への光
2006年04月11日(火) |
本当は愛すべきものばかり |
嫌だったことはすごくのこりやすい。素敵なこともたくさんあったのに、棚にあげて忘れちゃってる。本当に私はワガママなんだ。
あることを当りまえだって思い込んでいるものとか、求めていて、手に入れた瞬間あんなに感謝したのに今は当りまえなこととか、きっと幸せはずっと続いていて、気付きにくいものなんだ。 嫌なことはまるで津波のように突拍子もなくやってくる。幸せはずっと穏やかな海。津波はあんなに嫌がるくせに穏やかな海は誰も毎日そうあるべきだって思ってて、あたりまえで。地震でもたとえられそうだけど、地震だともっといろいろ比喩が広がりそう…それはまたいつか思いついた時に。 きっと、幸せに気付かないような世界は贅沢だ。あたりまえになってる幸せがあるなんて、私たちはいったいどれだけの幸せに囲まれているというんだろう。 憎い気持ちとかイライラとか、そっちばかりに気をとられていて瞳に曇りフィルターがかかってしまう。見逃してばかり、気付かないでばかりだけど、きっと本当は愛しくて、愛すべきものばかりなんだ。 目に移るなんでもないものすら幸せで、幸せなものも幸せで、目に移るほとんどのものは幸せばかり。こう幸せばかりだと、もしかしたら憎いと思ってるものすら隠れたところで実は幸せなのかなと思えてくる。
雨の日は私にかまわないでほしい
傘をさしながら歩くのも、だからといって、濡れて歩いてしけった服を着るのも大嫌いなんだ。あの生温さにイライラするんだ。 朝なのに明るくない、昼なのに日がささない、ずっと何時なのかわからない暗さが大嫌いなんだ。だからといって一日中電気がついてるのもイライラするんだ。 歩いていても、部屋にいても、晴れない生ぬるさとしけっぽさ、白でも灰色でもない妙に暗い空も、なにもかも気に入らないんだ。 いきなり転びそうになる濡れたアスファルトも、いつもより臭いトラックの排気ガスも、なんかやけに和やかにニヘラと笑ってるやつも、自分にうっとおしいものが雨の日は何故か多くて大っ嫌いなんだ。そんなイライラしてる自分の醜さにまたイライラして、雨の日はどうしようもないんだ。 雨の日はどうか私にかまわないで。こんな日は私は私のイライラを押さえるので精一杯で、余裕のない私は誰かを傷つけてしまうかもしれない。
にはなれないなぁ私。 人をまとめる仕事をするって意味で。小学校の班長とかあんなのは団体が5、6人程度で、しかもやらなきゃいけないことは全部先生が言ってくれるから、それをやればいいだけ。それに高校までは、気が利かなかったり、不手際があっても、未成年ってトコロで少しの間違いくらいは見逃される。 だけど大学の幹事とかはちがう。クラスやゼミの合宿、まずしなくてはいけないことを自分で把握して、時にはその仕事を人に上手く振り分けなくちゃいけない。教授や先生もくるなら、気の利いた待遇を用意しなくてはいけないし、不手際を起こせばダメのラベルを貼られて評価されてしまう。 私はとくに、人に仕事をふりわけることが出来ないし、気を利かせながらやるべきことを把握するっていうのが苦手…
テレビで 「自分は信じない 人のことは信じる」って宮崎映画プロデューサーの鈴木さんがいってました。 とにかく人に話をきくそうです。自分の考えを信じて通そうとかじゃなくて、人のいうことをとにかく聞くと。ヒット映画かそうでないかを左右する紙一重の判断をするとき、後輩の考えを信じる。 だけど、良くないものは良くないって自分の中で判断してきちんと言える。先輩としてというより、「人」の立場から見て感想を言う。 本当に人のことをよく見てるだろうし、人の立場からものを考えられる人だと思いました。それに、「人に伝えたい」って思いがすごく。キャッチコピーひとつでも、人にこのことを伝えるにはどの言葉で置き換えるのが正直か、何もしらない人がこれを読んでちゃんとわかる文か、とか。 考えて見ればあたり前なんですよ、「人にわかるように しかも正直に伝わるように 言葉なり態度なり行動にする」って。 でも私はたぶんできてない。自分がやりたいことをやって、自分が満足できて、それが美しいと思う…ってだけ。でも「人に伝わる」ことを第一に目標にしなきゃヒット映画ができるわけないですし、きっと歌も同じかなぁと思えました。 人に伝えるには美しい歌声じゃなきゃ納得してもらえないし、歌詞がきこえないなんていうのは何を伝えたいのかすら人はわからない。楽しいのは声で叫んでる本人だけだ。
今日でたぶん治りそう。明日は全快…だといいんだけど。きっちり熱が出て三日間くらい症状ありなんて風邪は一年半ぶり。 午後は買って一ヵ月もしないうちに不具合が出た迷惑な電化製品の修理があるし、午前中におもいきり寝よう…と思いつつ、もう10時間は寝ました。しょうがないのでテレビをつけると、NHKのお子さまドラマが。 そういえば小学生の頃、男の子とのケンカもしましたねぇ。しかも結構体はって。二年生の時でしたか…みぞおちに一発ぐぅとやられた記憶があります。痛みはさすがに覚えていませんが。 私もそんなことすっかり忘れていましたが、母はしっかりケンカ相手の名前を覚えていたようで、中学にあがったころです。妹はそんなこと露知らず、その彼を「□□先輩カッコイイね〜」と言いました。そうしたらうちの母が「えー、その人○○(私の本名)にいつだったかお腹にパンチした人だよ、ホント許せん」と言ったのが微妙にショックだったのは何故!?(不思議) なんだろうなぁ、「ケンカ両成敗だよ」って怒ってほしかったのか、「私が原因で相手が悪者になってる」のが嫌だったのか。それとも親が親バカ発言するのが聞きたくないのか(笑…や案外当たり?) ちなみにそのケンカの原因なんて誰も覚えちゃいませんけどね〜。
私 かっ 彼氏ができました!
… なんてウソいってみたところで虚しいですね…凹 こんな晴れのエイプリルフールだっていうのに、私は風邪です。ああ、誰にもウソつけないし、誰にもウソついてもらえないッ…凹。(なんか「凹」がプチブームになりそう 笑) だいたい好きな人もいないのに、こんなウソついたところでバレバレ。たまにときめいても、近づけるチャンスがないって思ったら、もうそれ以上好きにならないように無意識のうちにリミッターが働いてるのかもしれない。でも本当に好きだったら恥ずかしさなんて忘れて、友達とか人に頼ったりしてでも近づきたいと思うのかも知れないし。 もし私が誰かの前でこのウソをついて 「え…」 ってショックを受けてくれる人っているのかなぁ。もし一人でもいてくれたなら、本当にうれしい。
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