2006年02月28日(火) |
人は絶対「中身」だと思う |
確かに、声をかけてみたいと思ったり、一目で誰かをひきつけたいと思うなら絶対外見だと思う。チヤホヤされて出会いが増えるためにも外見が必要だと思う。 だけど、それは入り口やキッカケであって、中身がなければ冷めてしまう。 身勝手だったり、自己中、変にプライドが高かったり、そのくせ本気で何かをなしとげようとしない…そんな人とずっと話していられるだろうか。私だったら、ムリだ。どんなに男前でも、尊敬できるところが一つもないなら、魅力を感じなくなる。 外見がいまいちでも、内面さえ素敵な人ならば、偶然に起こったキッカケをつかみ続けることができる。 外見だけがよいだけではチャンスは多いけれど、保てない。けれど内面が充実していたなら、キッカケは少ないかも知れないが長くつづく。
私の目標は低くない。私のめざす地点は、人が予想するよりも、身のほど知らずだと言われるであろう程はるかに高い。 夢を語ることは悪いことか。理想を高くにかかげるのは愚かなことか。 ああ、愚かだ。限りない努力をしようとしない者は、ただの自信過剰にすぎない。夢に向かう力はプラスから来るものだけじゃない。マイナスからの力も利用するのだ。努力しなければ私は理想には届かないのだと現在の自分の力に自信がなくて、私はこれを諦められないという不安があったなら、無我夢中で努力せざるをえない。一日一日、自分で納得できるだけの努力をしなければ安心できないはずだ。 しかし、今の私は、不安を忘れたフリして見ないようにしている。努力しないで安心して寝ようとしている。これがたるんでるってことだ。
どしゃぶりの音。 朝なのにうす暗い部屋。 「あーぁ、今日は雨かぁ」とため息つく私。 階段をおりて居間にいくと、台所の電気と一緒になって、より一層明るい部屋。雨の日ゆえにどこか湿度のたかい、けれどコタツのぬくみで温かく、そこには髭剃の音や、台所をばたばたと慌しくかけまわる音、みそ汁をすする音とかたくさんの音が温かいなかに流れていた。 さらにどしゃぶりの音。「あーぁ、学校行くの面倒くさいなぁ」横目でテレビを眺めながら、ずっとこうやってダラダラしてたいなぁーと企みだす私。自然と身仕度の俊敏さもなくなって 「早くしなきゃ学校遅刻するよ」 と一喝される。ちょっとがっかりする私。さすがにでもやっぱ行かなきゃダメかー?と渋々玄関に向かう。 ところで私何年生だっけ?妹より二個下だから、四年生か。え、私小学生だったっけ?いやいや、違うよ私大学生だよ。小学校を見学しに行ってるのかなー、あ、じゃあ今日はサボってもいいか 「な」
で、覚めた。 部屋は相変わらずうす暗くて、私ひとりのアパート。どしゃぶりの音。 昔の朝の夢。昔っから私はサボる味を覚えていたらしい、うん、確かそうだった。まぁ結局は企み成功ならずで学校に行くことになるんだけど。 懐かしい感じがした。妹も四月からは大学で東京だ。こんな状況はもう多分ないだろう。春や夏休み、年末年始にやっと家族全員がそろうという実際があたりまえになる。
雨の日は本当にいやだ。独特の湿気の空気と匂いが、昔の光景をプレイバックさせる。たとえそれが楽しい思い出であっても、雨のざーざーという音が、現在の私を淋しくさせる。
今日は昼に起きた。そのせいか何だか家でゴロゴロしていたくて、外に出かけるのが面倒くさくなってしまった。 本当は友達との付き合いで外に行くちょっとした用事があったんだけれど。その子は彼氏ができたとたん特に音沙汰もないし、何だか特に大事にされている気もしないから、たまには私も身勝手に振るまっていいでしょう? 私だって何かに面倒くさくなることがある。たまにワガママになるくらいでしょう?それともダメ…だろうか?何にしたって、今日はとにかく面倒くさくなってしまった。
2006年02月24日(金) |
バカとわかったところで |
自分が何にも知らない、臆病なバカだとわかったところで、「あれ だから何だというのだろう」と一瞬腑に落ちない感じがした。 誰かに「本当にバカだね」って言われたくないのか。しかし、そう言われて「わかってる、私はバカなんだ」と思ってそれで終わりか。「バカはいらないよ」と誰かに宣告されて、人前で泣いて、恥ずかしい思いをして、「私はバカだから仕方ないじゃないか」と納得するのか? すべて私の情けなさや、ワガママさを「バカだから」という言い訳で片付けるのか。「バカだから」といえば何でもしていいのか、何でも許されるのか。そんな免罪符があるはずない。 ずっと「バカだから」と言い訳にもならない言い訳をしつづけて、情けない自分を自分で許し続けるのか。恥ずかしさで苦しまないために忘れ続けるのか。 そうやって生きていくのか。醜いまま、情けないまま、恥ずかしいまま、我慢も本気も見せれないまま「自分はバカだから」と言い訳して…それだけはわかっているのだと主張して、バカのまま生きていくのか。「そんな己に苦しむのは、まぎれもなく自分自身なのだから」と開き直るのか。 救いようもない。最低だ、最悪だ。何もわかっちゃいない。何も考えちゃいないし、自分しか見えていない。バカな自分によって、傷つくのは自分なんかじゃない。 バカな私を見て、不安になって悩むのも。バカな私がおかした失敗を、優しいがゆえに何とかしりぬぐいしてやりたいと苦しむのも。本当に傷つくのは、私の家族や、大切な人たちなんだ
明かりが眠り まぶたをおろし 夜の静が私をおおい そして 暗い 暗い あたたかい闇のそこで 胸の苦しさを覚え 私は何にともなく 怒り 悲しむ 鼓動の解放を感じ 私は何にともなく 祈り 感謝する
闇のそこにある 心のゆりかごがそこにある ずっとこうして 音楽に抱きついていたい
明日(ていうか今日だけど 笑)は試験だ。背伸びしようとするから、足元がおぼつかなくなる。緊張っていったい何のためにするんだろう。なんか、私はいつも心配ばかりしているけど、もう試験まで12時間ちょいくらいだし、今頃あたふたしたところでしょうがない。試験ていうと固い感じだけど、専門家の人たちが私の歌を聞いてくれるんだから、こんなに嬉しい機会はない。ヘタだったら「あーいかんなぁこの子」ってなるだけだし、自分が後悔しないように、できるだけ自分の理想を夢みながら落ち着いてみよう。
私は知らないうちに、たくさんの友達を勝手に過去のできごとに分類して、勝手に完結させていた。それは、離れてしまった今でも友達だと思っていいのか不安だったという理由があって。相手が私を今でも友達だと思ってくれているのか…声をかけて煙たがられたりしないか…確かめるのが恐かったんだ。そして、臆病になって、気付かないうちに人を避けてた。友達との間に溝を作っていたのは、私自身だったんだ。 人は誰だって不安を持ってる。だけどみんな、それでも勇気を持って人に歩み寄るのに、臆病な私は勇気を持てずにただ影であたふたしていただけ。なんて…なんて情けなくて、湿気くさい振る舞いか。 私はもっと、快晴のような心を持って在る人でありたいんだ。臆病でいい、だけど勇気を持とう。失敗したっていい。注意されたって、怒られたっていい、そうしたら直せばいい。 弱くてもいい、だけど向上することを忘れないようにしよう。嘆いて自己満足するだけは、もう終わりだ。
今日、実感した。過去を実感してこそ、今が確かになる。意識が覚醒するような、地に足がついた感覚。 今までは、すべてがバラバラだった。小学の時の自分。中学の自分と友達。高校の自分と友達。すべて個別で、その光景は一つの記憶の線としてつながらない。光景は、親しい友人が変わるたびに区切られていく。私は不器用で、現在つき合う友達によって「顔」が変わり、前の友達の時の「顔」はわからなくなってしまう。私は私だが、時間と光景によって「顔」が違う。そして今しかわからない。昔の顔を覚えていない。過去を実感できない。 けれど、昔の友達に今日、思い切って「誕生日おめでとう」とメールをしてみた。幼なじみの友達。メールが返ってきて、向うも懐かしがっていた。昔の友達だと分類されてしまいそうだった過去が、昔からの友達になる。過去が今につながる。 私は、今自分の記憶や光景を一つの線にしたくて、今まで気付かないうちに区切ってきた仕切りを、はずすのに必死だ。今と過去をつなげて、一人しかない自分に統一するのに必死だ。
私は頑固だと思う。友達と話していて考えが分かれたとき、話を聞いたり、うんうんとは頷くものの、根本では私の考えは変わっていない。 「そうかぁ、そういう考えもあるかぁ。でも私はこういう考えだなぁ」がほとんどだ。私と同じ立場の人が言うことに説得されることはほとんどない。けれど、私と違う立場だったり、努力や本気を持ち合わせてる空気の人の話には、途端に影響を受ける。「口だけの人に騙されることもあるんじゃないの?」と思われるかも知れないが、口だけの人かどうか見極められるかは、すべて私の心眼にかかってる。責任は私にある。 私は基本的に、自分の悩みは自分の中で考えて考えて自分の答えを出したいタイプだ。今までほとんどの悩みは自分次第のものだったから。 だけど、もし世界にどんなに考えても正解だと思える答えがでない悩みや苦しみがあるのだとしたら、人は偉い人の言葉に頼ろうとしるのかなと思う。自分より偉い人、自分より自信を持って話をしている人、善と悪を知っていそうな人。もしも、神様みたいな存在の人がいたなら、人は悩まずに済みそうだ。その人の言葉どおりに行動すればすべて正しいのだ。けれど、正解がでてしまったら、ほかはすべて間違いになってしまうのかぁ…
自分は性格が悪いと思っていて、自分は醜いと思っている人私は、自分に自信がない。だからこんな私は、いつも嫌われることを心配している。同時に、好かれるはずなどないのだと無意識に思いこんでいる。そして、近づいてきてくれる人を、知らないところでつめたくあしらってしまっている。せっかく、勇気を持って歩み寄ろうとしてくれているのに。 私なんかを心配している訳がない、私なんかを気にかけてくれている訳がない、私なんか呆られていない訳がない。 人の優しさをもらっても、「私なんかに優しくしてくれる訳がない。きっと何かしょうがなくなんだろう」「私なんか人に気苦労させてばかりだ。本当はきっと嫌なんだろう」と思ってしまう。 人を疑ってるんじゃない。優しい人だと信じることはできる、疑いもしない。私のまわりには、「優しい人」ばかりだ。だけど、こんなにも嫌な人な私が、優しくされることが信じられないんだ。 仏の顔も三度までって言うでしょう?いくら優しさを持ち合わせていたって、私のダメさを見たら、いい加減に呆れるでしょう? なのに、優しくしてくれる人がいる。厳しさも優しさも、真っすぐに人として向き合ってくれる人がいる。私のダメさ加減すら、情けなさすら見守ってくれる優しさをもっている人がいる。今は何一つしっかりとこなせない私だけど、せめて優しさを信じたい。こんな自信にすら優しくしてくれる人がいるのだと。
私は本当に泣き虫だ。悲しくても、感動しても、、励まされても、私の非を言い当てられたりしても、目の奥がじんわりと温かくなってきて、顔が赤くなり− 人前でもそうなってしまうことが、情けない。これは私の「非」だ。私は弱いのだ。小さい頃から八方美人だった、それにワガママだった。けれど、私の友達はみんな優しい人たちばかりで私を嫌うことはなくて、バカな私は自分の性格の悪さに気付かなくて、気ままに振る舞い続けた。ケンカをしても、「私は悪くない」とタカをくくってた。八方美人でもあったから、親や教師には「イイ子」の生徒だった。怒られることが、なかった。調子こいていたのだ。 けれど、今は八方美人などは通用しない。それこそが「非」で、醜いのだと思い知った今は、本気で正直にむかおうとする姿勢こそが重要なのだと思っている。 だけど、それが難しい。自分の心の正直なことばの中から、相手に不快感を与えないもの、自分の人格を落とさないようなものを選んで会話をするのは、難しい。「ものは言いよう」とも言う、自分の考えをいかに誤解を与えずに伝えるか−悲しみを訴えたいだけなのに、怒りのようなことばになってしまうとか、あるでしょう?−たとえ感情や思考そのままを話に表現しても、相手にそのままに受け取ってもらえるのかはわからないのだし、心は常に不安だらけだ。ましてや、人と向き合うことを識ってから日の浅い私だ、焦りばかりだ。 気付くのがまったく遅かった。誰でももっと早く気付くのに、自己中でワガママな私は、私は悪くないと思い込んでいた。人の気持ちを思いやるこということ等は、しようともしなかった。 私は弱くて、子供なだけの泣き虫なのだ。
もしも この世界が 無色なら 私の 心は 開かれない 自分が 在る ことすら モノのかたちも わからない ここは なにかと ブラックホールに おちる
ハチは 二色しか 見えない と聞いた その命は 疑問すら もたない 自らが 二色しか 見えていない などとは 思いもしない
人は 何色 見えるだろう 私は 色が見えるのに ときどき ブラックホールに はまる 人の目にも まだ 見えていない 色があるのかも 見えていないのに 思いもしないだけ なのかも
「人間、死ぬ気でやればできないことなんかない。」 よくこう言うけれど、私もそう思う。「死ぬ気」を「死ぬよりこわいことはないんだ(だから何したってこわくない)」と思うんじゃなくて、「死ぬことにだけ気をつける(そして限界に挑むつもりでやる)」と思うなら。 背後の後悔も、目先の不安も目にくれず、今やれるだけやりまくる。何に気を逸らされることもなく、ただ一つのことだけを大切にして、恐怖も誘惑も払い除けて、一心不乱に無我夢中に一つのことだけをやりまくる。
「夢は叶わないものなのさ」なんて、遠い目をしながら大人ぶって、夢見る青年に話してみたって、本当は自分にそう言いたいんでしょう?そう思い込まないと、納得して夢を諦めきれないんでしょう?努力しなかった自分に後悔してしまうだけなんでしょう? 「夢は叶うものだ」、ただし限界まで努力するなら。
私は「精一杯逃げずに悩んで行動を起こしたなら、後悔はしない」と信じている。それは今でも変わらない。
高校生の進路選択のとき、毎夜、毎時間、気付けば悩んで考えていた。涙を流しながら、たくさんの道と、可能性と失敗について。何ヵ月もつねに。くやしさと、理想と現実、夢を追うことと生きることについてずっと考えていた。本当に苦しかった、空が晴れていても心は毎日もやもやとしていた。でもその経過があったから今、「適当に決めなかった」「どんなことがあってもこの道を選んでいた」という確信が胸にあって私は前に進んでいける。
けれど近ごろ、何をしていても一つの悩みが自分の心にもやをかけるということがない。なぜなら、逃げているからだ。うまく行かないことがあるなら「どうしよう」と悩んで、ずっと心が曇る苦しさに耐えられないから努力すべきなのに、悩むことによって心にもやもやが生まれることを恐れてる。苦悩すること自体を恐れてしまっている。 悩め、おまえ。おまえは悩まなくちゃいけない、未来で後悔したくないなら、今悩んで行動を起こすんだ。おまえ次第だ。未来のおまえの天気は、今のおまえが決めるんだ。
「私変わってるんだよね」って人前で得意げに話す人ほど、案外普通だったりすることが多い。「人と同じだね」と言われるより、「人と違うね」と言われることの方が誰だって嬉しいに決まってる。本当に変わってる人は「人と同じ」ということに自慢気を覚えるだろうし、本当はとても変わっているのに自分が変わっているとは気付かない人が、変り者なんだ。 「変り者」はいい、それは個性で。けど「浮いてる人」になりたくない。もちろん、「浮いてる人」にも色々種類があるけれど、この場合は「なじめない隅の人」。私は誰とでもわきあいあいと話せる人でありたいんだ。誰にでも穏やかにあれる心と、そして時には自分の心にうまく折り合いをつけて本音を包むという賢くて冷たい心で、誰も嫌いになりたくないし、誰にも嫌われたくないんだ。 けれど、今みんなの世界観になじめない自分がいる。無力感から、私は私を自ら蔑んでみんながまるで手の届かない所にいるようだ。能無しの私は、自分の力がどれだけ幼いものか、みんなと話した時に気付くんだ。そして同時にみながどれだけの人と語り、話し、成長してきたかを痛感する。私はまだまだ子供だ。
誰かが私を罵ろうとするなら、「臆病者」と言うのが最もふさわしい。今までに言われた言葉の中で、私が唯一納得した言葉だ。今まで悪口を言われても、全て「それは勘違いだ」と思うもので、誤解されたことの傷と、苛立ちしか感じたことはなかったのに。昨年の秋、師である人にそう指摘されて、私は今までの私のたくさんの悩みは臆病から生まれていたのだとわかった。今までは悩むだけで、満足していた。どうしようもない情けない自分を見つめながら、嘆くことで自分をせめて美しくしようとした。自分独りで、自分だけの世界を作って、せめて考えることで、何かにひらめく瞬間を待っていた。だけど、そのひらめきをくれたのは私ではなくて師だった。 臆病は良か悪かは私にはわからない。ひとおもいに悪だと決めたくないのも、自分を悪だと醜く思いたくない臆病なのかもしれない。 だけど臆病じゃなくなったなら、人と自然に向き合えるようになるかな。毎日の心が晴ればれしくなるかな。 これからも臆病者の私はたくさん悩むだろうけれど、臆病にならない振る舞いをしていきたい。
「すみません」って一言いうことによって、私はどうしてもらいたいというのだろう。 「私は犯した失敗の怠惰さを自分でも痛感しているのです」ってわかってもらいたいのか。 「許してください」と願いたいのか。 「反省しています」と主張したいのか。 謝ることで犯した失敗を完結させて、なかったことにしたいのかもしれない。そうしないと後悔が自分にずっと圧力をかけるから、悩み多くて。 だけど、謝って自己満足して自分で自分を許すより、ずっとその圧力を覚えていたのなら同じ間違いはしないだろう。もちろん、謝まっても覚え続ける人もいるけれど。
「すみません」は社会でも何かとあると使われるけど、本来どういう意味で使われるんだろう?私はどんな気持ちから、この言葉を使っていたんだろう? はて…疑問に思う。
日曜日に親知らずを抜きました。もう土曜の朝から痛くて痛くてしょうがなかったので。 本当に痛かった…。ズキズキとかじゃなくて、ずっとそこに痛みが棲み付いてるようで苦痛です。常にストレスのように圧迫されるので、眠れません。我慢ならなかったです。 本当は月曜に専攻の試験があったのでそれが終わるまで抜くのは我慢しようと思ったのですが、もう一晩耐えるのかと想像したら、夜気が狂ってしまう自分が思い浮かびました(笑) それに、電車に乗ってたら痛みのせいで気持ち悪くなってしまったので「もうこんなストレス耐えられない」と、ぷちんっと何かが切れたように、歯を抜く痛さなんて考えもしないで、歯医者に電話してました。わざわざ医療機関案内に日曜でもやってるとこを問い合わせて。 いざ抜くことになったら、麻酔の時は「ぎゃー」とおののきましたが、うれしかったですね。これでこの悩みとはオサラバだ!と。 処置後にいざ見る親知らず 思いのほかに おおきいかな (微妙に五七) 本当に大きかったです、歯。 けれど痛みはまだ終わらないんですね〜。抜歯後もしばらく痛むんですよ。歯がなくなったので歯グキの穴ぼこ状態。痛みの程度的には抜く前の痛さとあまり変わりませんが、心から見たその痛みのストレスはありません。何でかって、この痛みは処置後の痛みであっていつか消えるから。悩むこともないし、耐えられる。 痛みの程度が同じでも、心がそれをどう捉えるかで我慢の限界は変わってくる。悩みやストレスを生む痛みは堪え難いし、先の見える痛みなら耐えやすい。
2006年02月06日(月) |
失敗をしてしまった時 |
失敗をしてしまった時、私はとにかく慌てる。その場を何とかしのいでも、後悔の渦で、どうしようもない。 失敗をしてしまった自分はいつも頭が真っ白で、そんな時の自分はしっかり行動できていただろうかと不安で仕方ない。自分はあの時大声であわてふためいていなかっただろうか、人前でハキハキとしゃべれただろうか、礼儀ごとはしっかりこなせていただろうかと、心配が心配を呼んでくる。 失敗は失敗でも、人としての在り方の失敗をした時、私は恥ずかしくて、考えることを放棄したくなる。どうにかして理由を探そうところで、全て言い訳にしかならなくて、苦しさに耐えられないんだ。 真実は変わらないんだ。私はちゃんとした人間のように振る舞っているけど、パニックしやすく、失敗が失敗を呼ぶ弱い人間なんだ。そしてそのパニックを起こさないためにどう対処すればいいのかと、努力をしなかった怠慢な人間だという恥ずかしい事実は決して変わらなく、責められても何も言えない。 私の理想「ちゃんとした人」だというイメージが一回の失敗で壊れてしまう…私が一生懸命につくりあげてきた「良い人」の仮面が壊れてしまう、私の唯一の長所が消えてしまう。 次にどんな顔をしてふるまえばいいのだろう…後悔は延々と私をうずまくけれど、失敗は消すことはできなくて、怖くて忘れてしまいたくて、私は眠る。
私は恋の話を限られた友人としかしない。今までに私は付き合った人が一人いるけれど、それを知っているのは今でも仲のいい高校部活の仲間4人と、もう1人友人、そして母だけだ。他には誰にも話していない。 もし今、本当に好きだと言い張れる恋人がいて「彼氏はいるの?」って聞かれたら「う〜んまぁ」くらいには言えると思う。 けれど当時は、私の中に不思議な美学があって「何も知らない美しい自分」で在りたかった。 その美学を意識したのは、今までただ一緒にバカしてた一番の私の友達が、ある男性と体の関係を結んだことを聞いた時だ。その友達の彼は私も知っていた人で、けれど私にとっては「人」というよりは「オトコ」という感じで少々気持ち悪いと思っていた。そのせいもあってか、正直に言って「美しくない」と思った。その瞬間、恋人ができるということはいつか汚れることなのかと、恋は美しいものだっていう思い込みが壊れた。まるで「汚れる」なんていうとマンガかよって感じだけど、経験のない私には未だそれは、考えても考えても、腹というか胸というかがむかむかしてきて、とうてい「綺麗なこと」には思えない。 きっと私はまだ子供なんだろう。けれど、何も知らなかった頃に誰かが好きでたまらなかったことが、もっとも綺麗だった。 しかし、友達がだんだん大人になっていくにつれて、綺麗だけが美しいんじゃないと思えるようになってきている私もいる。色んな面があって「恋愛」なのかなぁと思う。
いつも憎んでいた。人も自分も社会も大嫌いでしかたなかった。自分の聖域を汚すものは許せなくて、しかし自分で自分の聖域を汚している気がして自分も憎んで、目に飛び込んでくる全てのものがただの物体に見えた。そして周りから見える私も同様にただの物体だということに醜さを感じた。いいかげんにしてくれ、いいかげんにしてくれ、私は叫んでいたいだけだ、ずっと叫んでいたいんだ。さわったものも関係ない、そこに私はつながっていない、地に足がついていなくてイライラするんだ、ギャアとわめくよう歌をうたっていたいんだ。ほっといてくれ、ほっといてくれ、しかし誰か一人愛してくれ。それだけだ一人だけ私を大切にしてくれ、そうして私はまたギャアギャアわめくんだ、もしくは黙って眠るように静けさを歌ってみたいんだ。
今日の日は春だ だって引っ越しの時の空気がするから 日のキラキラも 風のソヨソヨも 空のスカラカンも 鳥のピチピチも ああそう 卒業式の空気 ああそう 入学式の空気 ストーブの音楽室 合格発表の朝 春の朝はいい 目がパチリ 何もかもが青空の匂い どこもかしこも緑の若さ あたたかい地面のエネルギー ああ 飛行機のブォーンもああ 寝ころがるゴローンも 春の朝の空気 頭のなかもスッキリシャキリ お出かけの日の おひさまサンサンワクワクだ
私は昔から、あまり自分の体が自分の心と一体だというのを確信したことがない。手も私、足も私、顔も私、胸も腹も私だ…それは当たり前のことだ。だけど、まるで心が歩いているようで、足が歩いているという感じがしないし、目に見えているというより、心に見えているという感じがする。私の体は地に足がついていないようで、体すら心のようにふわふわ感じる。シャワーを浴びながら足を洗おうとして、ふと、よく見つめると「この足=私」のはずなのに、とても不思議なことのように思う。私はこの足で歩く…当たり前のことなのに、頭のなかで思い描けない。私には私の目から飛び込んでくる光景や景色がすべてで、私は私自身が街を歩いていたり、スポーツをしていたり、友達と遊ぶ光景を想像できない。だって誰だって、自分の目のまえに自分を見ることはできないでしょう。人は自分の手や足、体しか見えなくて、それが自分の中に描ける自分の全てだ。この足先から指先から頭まで、まぎれもなく物体で物質で、それ自体はなんの気持ちも持っていないように見えて、全て私で、私は心で、私は体だ。なんだか不思議だ。 私はずっと見つめ続けていると「ヲ」が読めなくなる、漢字とかでも時どき思考がカラになって疑問に思う。この不思議な感覚に似ている。
明らかに誰もが嫌がることを それらしい理由をつけて押しつけられた時に 「嫌だー」と正直にワガママにならずに それらしい理由を言って 標的を誰かに転換したり 自分にはその役はきっと向いていないとか いいわけして遠回しに逃げようとするのは みっともない
自分に非がないように言い訳をつくったり 偽善者でありたくて自分の言葉を作っていると どこかで歪みがうまれてきて 自分の正直な気持ちで主張ができなくなって 全て言い訳に聞こえてくる みっともないのは 正直に話せばいいのに その本音を隠して わざわざ理由や言い訳を作ってまで 自分の評価を下げまいとすることだ
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