今日授業の音楽史の時間に、オペラをスクリーンで見た。 その時に、私は何だかふと「ああ、私は音大にいるんだ」と思った。
中学生の頃。 心に「音大」っていうものを片隅に知った頃、 それは、とおい雲の上の、どんなに背伸びをしても、何をしても手のとどかない・・・ そんな印象であって。そして、夢だった。 私の夢は音大にいくことだった。 それは宇宙にあるかのように、スケールの大きい、遠い存在だった。 想像やら空想が得意な私でさえ、私が音大にいる場面は想像できなかった。 「音大に行けるのなら、長生きできなくていい」 そんなことすらも思った。 いや、今はせめて日本平均寿命くらいまでは生きていたいと思いますが(笑)
あの頃、あんなにも遠くに感じていた夢が、 今目の前にある。私はここにいる。 そう思ったら、私は幸せ者だと胸があつくなった。 家族や、たくさんの人に、感謝した。
私たちは、夢とか、憧れとか、希望とか、願いを持っていて。 それが現実になるのを、望んでる。 人は夢を抱く。このことは誰もが知っている。 だけど、願いがかなった後、どうするのだろうか?って、 実はあまり考えたこと無い。
誰もがそうでしょう? 夢がかなった後、それから人はそれをどう感じるようになるんだろう?
小さい頃、私はお店でアメを一袋買うだけで、どきどきしてた。 自分のお財布から、お金をだして、自分だけのアメを手に入れて、 それが1個じゃなくて、1袋もあるからワクワクして。 小さな、だけど、その頃の私には、それが夢だった。
中学生の時、電車にのって学校に行く高校生が大人に見えた。 私も、高校に受かったら毎日電車に乗って行くんだ!と思って、おどろいた。 定期を持ってる自分を想像したら、楽しかった。
でも、今は、その夢たちは当たりまえの光景になってる。 まぁ、電車通学は今はしてませんけどね(^o^; 夢はかなった後、自分の一部のようにあって当たりまえになる。 一度つかんだ夢の、心のときめきを忘れてしまう。
私たちは、自分が時々不幸に思えたり、みじめに思えたりするけれど、 ふと自分のにぎりしめていた手を、そっとひらいてみる。 そうしたら、そこには、 かなえたことすら覚えていなかったり、気づいていなかった夢がある。
私は、手の中ににぎしめている夢や願いに、感謝する心を忘れたくない。 今日、あらためてそう思った。 私は、その気持ちを忘れない限り、幸せはずっとここにあると思うから。
「おしゃべりな性格だったら楽だったろうな」 最近思う。
無口なわけじゃないけど、話題がないとしゃべれないと言うか…。 慣れている人なら、そりゃあもうしゃべりまくるんですけど(笑 でも、慣れない人だと何だか 『はて、何を話そうか・・・?』って一瞬止まってしまう。 そんな時、私は慌てて、『わぁっ、いかん!』て思う。 このままじゃ話題が途切れて、気まずくなると思う。
でも、慌てているのは私だけじゃない。 相手も慌てている。 きっと、向こうだって慣れない人との会話で、 どんなテンポで話そうか戸惑っているんだ。
そんな時は、とりあえず笑ってみればいい。
今は誰もが、 「この人はこんな感じの人だ。そして、あの人はあんな感じ」 っていう風に、相手のテンポを把握している時期。 だから、今は、必ず自然体でいなければいけない。 今、自然体であれば、 相手はそれを「この人の普通はこんな風なのか」と認識する。 そしてこれからも、自然体で生活すればいいので、楽だ。 だけど、今、無理に自分を作っていると、 相手にはそれが「自然体」と誤解されて、 これからもずっと誤解されてしまった自然体のままでいなきゃならない。 ずっと、作った自分でいなきゃならないなんて、そんなの辛すぎる。
無理にやけに明るく振まったり、無理にしゃべったり、そんなのは必要無い。 あと、恥ずかしがるのも。 実は一番自然体に慣れない原因はこれなのかも知れない。 けど、何が恥ずかしいんだろうって思えば、 「はぁ。そういえば、私は何が恥ずかしいんでしょう?」 って思える。(思えるように頑張る)
素直〜に、自然〜に。 そうだよ、適当でいいんだよ! 今から、友達と完璧な信頼関係をきづかなくてもいいんだから。 もっと、のんびーりとほのぼのとしてればいいんだ! 「いい人に見られよう」とかそんな気持ちはいらない。 過ごしていて辛い自分の偶像はいらない。 私は、私らしく、のーんびりしてよ〜。
・・・いやいや、勉強はちゃんとやりますってばっ(笑
大学に入学して、もう1ヶ月半。 一人暮らしも慣れたし、授業の感じにもなれてきた。
だけど、まだ慣れていないのは、 周りの人達の中で自分がどんな風に振舞えばいいか。つかみきれない。 知らない人とはなかなかしゃべれない私だから、 あえて、明るく明るく・・・と思って頑張っているけれど、 それじゃあなんだか、顔がつかれる。 猫かぶっている自分に嫌気がさす。
たとえば、 向こうは私のことなんかどうも思っていないかもしれないけど、 やっぱり顔くらいは知ってると、偶然出くわせば 内心『あ、あの人はー』っていう具合に目が合うし、 そんな時、どんな感じの親しみを込めて声をかけようかと悩んでしまう。 そして、結局悩んでいるうちに通りすぎて、 ・・・まぁ、その後関係が悪くなるとかでもないけれど。 向こうも何も言ってこないし、そんなものなのかな?
どんな風に接していいかわからないと言ったけど、 別に、誰に対してもというわけじゃない。 ただ、友達の友達とか、顔は知ってるとか、 その程度の同級生にどう接しようか、困ってしまう。 私は、見た目で判断しちゃいけないと心で思っていても、 どうしても、今時な感じの人に近づくのが恐く感じる。 すごくテンションが高かったり、かと思えばいきなりそっけなくなったり、 思っていることがよくわからなくて、いつも慌ててしまう。 なのに言葉遣いは親しくて、「○○ってよんで。私も△△って呼ぶから。」 って初対面から呼び捨てを要求されるけれど、 でも私はいきなりそんな風に言われても、絶対無理なんだってばー! まだ話も聞いていない合ったばっかりの人に、すぐには親しくなれない。 なんだか変。呼び捨てで呼び合うことが仲が良いことを示す基準みたいだ。 「呼び捨てで呼び合えば、もう突然に仲良し」そんな暗黙の空気。 まだ何も知らないお互い同士なのに。
そういうこともあるとは思うけど、 初対面であった知らない人同士が、どうしてそんな突然親しそうに話せる? 別に呼ばれるのは構わないんです。まったく。 「失礼だなぁ」とか 「いきなり親しそうに呼ばれても」とかって軽薄してるんじゃない。 腹が立つとか、そういうのじゃないんです。 ただ、私はその親しさが信じられないだけ。 だから、本当に親しく思ってくれているのか、わからない。 ただそれだけ。
その人達が悪いとは思わない。 むしろ、自分から声をかけれることはとてもすごいことだと思う。 けれど、私はもっと話さないと、わからないから。 どんな人か少しづつわかっていって親しくなる性格だから。
さて、ゴールデンウィークに帰ってきた私は、 5月5日にまた東京に行き、 そして今また実家にいるわけです。(七日の夜に帰ってきました。)
なぜかと言うと、明日は先生のオペラがあるんですよ〜。 というわけで、聴きに帰ってきたわけであります。 で、明日はオペラを聴いて、その足でまた東京へ。
交通費もかかるところですが、 でも先生のオペラを見ないなんてことはしません。 なんていったって、恩師ですから。 3月に卒業した同じ部活友達もみんな行くそうなので、 久しぶりの再会です。 ・・・っていっても、まだ一ヶ月とちょっとしか経ってないですけどね(笑 毎日一緒にいた分、離れてた時間は長く感じるものなんですね。 先生の舞台、それから会うのもとても楽しみです。
どんな顔で、どんなテンションで会おうか。 話したいことがいっぱいあります。 きっと、嬉しさのあまりハイテンションになるんだろうな〜。 友達とはお昼も一緒に食べてから行きます。 あーっ楽しみだーっ
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