私的正論。

2002年12月16日(月) ナンシー関のこと。

頭がガンガンするが思い立った時に書いておく。
日本人とナンシー関との関わりには三パターンほどあって、

「ナンシー関好き! リスペクト」
「ナンシー関? 記憶スケッチの人でしょ、好き」
「ナンシー関ー? あの太った人?(あるいは誰か知らない)」

こんな感じじゃないかと思うんだが。

今日はナンシーのどこが偉大だったかを書き残しておきたい。
そう強く思った。


「ナンシーいいよね」

そう言える人の胸には、たぶん「甘え」ってもんがない。
ナンシーはリトマス試験紙みたいな人だった。
ナンシーはプロ意識と客観性の固まりのような人だった。

彼女が誰かのことを書く時、そこには「自分」がない。
中途半端なカワイイやビジンは、かっこいい芸能人、
つまり、キムタクだの窪塚だのを語る時、ついつい、

「そうは言っても、もし目の前に居たらキャーて言っちゃう」

みてェな視点をどうしても捨て切ることができない。
頭でっかちそうなコラムニストですら、その傾向がある。
どっか「ファンとして見るオンナノコなあたし」を捨て切れない。

けどナンシーは違った。
彼女自身が語る「規格外のカラダ」をもって、ナンシーは常に対岸に居た。

対岸で仏のようにけわしく仏のように慈しみの心を持って。
すべての「踊りを踊る人々」を見ていた。
バカにするでもなく笑うでもなく、ただ見ていた。

見届けることを己の務めとした。


「ナンシーだったらこの局面をどう語るだろう」

そんなセリフがどれほどこの一年に語られたかを考える。
けどナンシーは、もう居ない。
そしてナンシーによって残されたのは、そんなセンチメンタリズムじゃないはずだ。
むしろ、

「ナンシー的な見方」

こそが、ありとあらゆるものを眺める時、最も役に立つということに。
気付かなくてはならない。



俺たちの目が曇るのは、てめえを勘定に入れるからだ。

オンナノコの居る店に飲みに行って独身ですと言わないのは、てめえを勘定に入れ無ェため。

それに限らず、てめえを勘定に入れた時点でいろんなもんが狂う。



ナンシーは偉大だった。
その「対岸性」において。

それは彼女が太っていたから?

そうじゃあない。

太っていることを容認できるほど「楽しい世界」を。
彼女が自分の中で自分の力でクリエイトたらしめていたからだ。


痩せてなきゃ楽しめない世界は寒そうだ。

ナンシーの居る茶の間は暖かそうだった。




安らかに。

テレビを含めた現場の人間には、ナンシーが「わからない」人も居たろうが。

身内びいきの視点の一切を蹴って業界を書くことを。
ライターは、やめてはいけない。


ライターはテレビのこっち側に居る。

テレビのこっち側に居て。

けわしく、やさしく。

庶民の肌をざわつかせるものを庶民のかわりに暴け。
そして書け。






さて今年もありがとう。

風邪ひくなよ。

来年もがんばろう。


「ちからいっぱいいきて、みちたりてしのうよ」と。

ハーロックのエンディングも歌っていたさ。


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桜木



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