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2002年02月26日(火) さとこへ

さとこ

A.I.という映画を見ました。極めて精巧で感情を持つロボットの子供が人間のお母さんにある日捨てられてしまうのです。子供はずっとお母さんのことを探しつづけました。子供は捨てられたのは本当の人間の子ではなくロボットだからと知っていました。けれど、どうしても人間になってお母さんに愛されたかったのです。2000年後に、お母さんの髪の毛から、お母さんが、進んだ技術で再生され、とうとう出会うことができました。あまりにお母さんのことを思う気持ちが強くて、胸が痛くなりました。なんだか、なおきやこうすけが小さかった時のことを思い出しました。

さとこが悲しい気持ちはとても分かります。○シ○トンにいるだけで、家族のために貢献しているのだよというのも分かります。自分の満足感がなければ、次への意欲や子供たちにいろいろしてあげようと気持ちにならないのも分かります。ただ、文章を書く中ででも、日本に時々帰る中ででも、楽しい満足できることを見つけてほしいと思っています。あんなに楽しみにしていた手術なのに予想外の傷が残ったり、なかなか回復しなかったりで、元気がでないのもよく分かります。あせらず、気長に回復したらいいと思います。どうか、一日一日少しでも楽しい時間、満足できる活動を見つけてください。できることは何でも協力しようと思います。

体の調子がよくなったら、きっと適当な仕事を見つけることができると思います。あせらないでください。本格的に英語を習えば、きっと日本に帰った時に役にたつと思います。ネットの日記に読んでくれる人が増えてきたのはとても楽しみですね。少しずつたまっていけば、何かのものになるのではと思います。きちんと保存しておいたらよいと思います。とても貴重な日記だし、とても○シ○トンの香りがする日記ですから。

自分自身、あの当時の子供時代のことを思い出すと、父母のありがたみはあまりに当然で感じていませんでした。それでも、大学生になっても、卒業してからも、さとこと結婚するまでは、母に会うのはとても待ち遠しく、楽しいことでした。それまでの、母の思いやりが意識せずとも身に染みていたからだと思います。子供たちも大きくなったら、きっとさとこのことをもっとありがたく思うときがきます。さとこがどうしてごはんを作れなかったのかもっとよく理解できると思います。さとこが子供のことを大切に思っているのはよく分かっているのに、余分なことを言ってプレッシャーをかけたかなと思っています。

それから、昨日は本当にごめんね。せっかく、さとこがやる気を出して夢中になって人のために仕事をしていたのに、水をかけて台無しにしてしまいましたね。私もまだまだ余裕がないのです。自分が背伸びしていることはよく分かっています。それでも、まだ今は、日本には帰りたくありません。さとこと相談しないで、勝手に決めてしまっているのは本当ですね。でも、○○○に居た2年間は、ほとんどトラウマになっています。自分はもう絶対にあんなことはできないし、したくないと強く思っています。ここで一人前になったと思ったら日本に帰って仕事をするのもいいとは思っています。もちろん、さとこにとっても取り返しようのない年月であり、人生であるのですから、何とか楽しく、悔いの残らないようにしてほしいと思っています。

人生の目標は何か、どう生きたいかというのは難しい問題ですね。どうか、足元をみて、少しずついいものを見つけていってください。できる限り協力したいと思います。日本に帰るのがどうしても生きがいなら、日本とアメリカとを往復するような仕事を見つけるのがよいかもしれませんね。本気になって探せば、自分で交通費を負担するなら、行ったり来たりすることをいかせる仕事がきっとあると思います。

私も子供2人も、普段、何を言っていても、さとこがいるだけで、どんなにありがたいかよく分かっています。さとこに元気になってほしいと思っています。手術の時に本当にそう感じました。さとこの元気そうな、幸せそうな顔が見たいとみんな思っています。

それでは。

のぶお



(文中、仮名)




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2002年02月24日(日) アメリカの傲慢

今回のオリンピックはいろいろとケチがついて、特にショート・トラックでの審判のアメリカびいきにはウンザリして、テレビを見る気も失せた(と言っても初めからほとんど見ていないけれど)。それで、思い出したアメリカ人のゴーマンな話をしたい。

2年前の冬、近所で親しくしている家のクリスマス・パーティに家族で呼ばれた。遠くの親戚もみんな来たという感じの内輪のパーティで、わたし達が呼ばれたことが不思議でもあり、ありがたくも思った。あまり話す人もなく手持ち無沙汰な夫とわたしに、ホスト役のパパさんが旅行のアルバムを見せたり、話し掛けたりしてくれた。

その会話のなかで、どういう経緯だったか、「メートル法」の話になり、パパさんが「戦後の占領下にアメリカも日本に対して強く出なかったから、メートル法を使うことを許したという経緯があるんだよね」と言ったのだ。まるで、日本もヤード・ポンド法を使うべきなのに、アメリカの寛容さで免れたとでも言わんばかり。わたし達は口をあんぐり、返すべき言葉を失った。

言うまでもなく、メートル法が世界標準と定められて、日本も尺貫法を使っていたのをメートル法に改めたのだ(1959年)。それを取り入れられないのは、アメリカの方なのである。

パパさんは弁護士だ。いくらアメリカの弁護士が日本の20倍もいると言ったって、弁護士と言えば、きちんとした教育を受けた人だろう。そういう人の認識がこのレベルなんだ、アメリカ人って(一般化したくはないが)なんて自国中心にしか物を考えない傲慢な人たちなんだろうと驚いた。

(以前アメリカの教育制度の・・弊害?にも書いたけれど、)結局、アメリカ人って頭悪いからそんなこと(メートル法の採用)をすれば、きっと国中で混乱して収拾がつかなくなるから出来ないんだよ、と、その場では何も言い返せなかった夫とわたしは、家に戻って好きなことを言い合って、発散したのであった。


・・・子どもたちは、学校ではメートル法(温度は摂氏)で、算数や理科の授業を受けているんだけれどね


2002年02月21日(木) 言葉の裏の意味

今日は久しぶりにメトロに乗ってダウンタウンまで出かけた。コートも要らないくらい暖かくて、青い空に白い雲が映えていた。駅までの道のりを急ぎ足で歩いていたら、車で通りかかった、近所のおじさん(推定60歳)に声をかけられた。

「こんな天気のいい日には、あなたはきっと散歩がてら駅まで歩きたいって思っているだろうね」 まあ、いつものことながら、相手が何を言っているのか、大部分を「推測」で理解しているわたしであるから、きょとんとして、これってなんだろう、挨拶かな?と思いつつ、 「ええ、まあ・・」 と答えると、今度は 「あなたさえよければ、わたしは駅まであなたが乗っていくのもやぶさかではない」(あくまでも雰囲気)とおじさんは言った。

ここでやっと、なぁんだ「駅まで乗せていってあげるよ」と言っていたんだと気が付いて、ありがたく送っていただいた。

出先でこの話をすると、「そのおじさんは、あなたが断りやすいように気をつかってそういう言い方をしたんだね」と言われた。なるほど、そうだったのか。わたしは、アメリカ人って、もっとストレートなモノ言いをするものだと思っていたから意外だった。


京都辺りだと、来客にお茶漬けを出すと、それは帰れの合図で、いくら「ゆっくりしていってください」と言われていても、察して帰らねばならないと聞いたことがある。よく言う「こんど遊びに来てね」の言葉も社交辞令かどうか見極めないと、「あら、本当に来たのね」などと言われてしまう。(←経験あり)

京都に近い大阪に住んでいた頃、息子1が生まれたので、近所の班の人たちが500円ずつ集めて6000円をお祝いとして持ってきてくれたことがある。その時の班長さんが「少しだから、お返しなんて考えなくてもいいよ」と言うので、その言葉を、額面どおりに素直に受け取ったわたしは、後になって、何のお返しもないと影で噂されていると聞いて、本当にビックリして、とても悲しくなった。わざわざ、思ってもいないことを言って、若い奥さんを混乱に陥れるようなことをしたのはなぜなんだろう。わざわざそう言わなければ、わたしもちゃんと考えたのに。

そのくらいの言葉の裏も読めないわたしは、素直な性格って言うよりも、バカとか無知とかなの?


いまでもわたしは言葉の裏を読むなんて作業は苦手だ。わたし自身もストレートなモノ言いをしていると思う。

(だからなに?って言われてもちょっと困るけど)


2002年02月19日(火) 差別

わたしが週4日の英語学校に通っていた時、何人かの先生のうち、いちばん上手に教えてくれるのは、スタンという黒人の男の先生だった。一方、小学校では簡単な英語も読めないような黒人の子が何人かいて、特別授業を受けていたが、わたしは、それを理由に差別する気持ちなど持っていないつもりだった。

わたしの住んでいる地域は黒人の割合が少ないので、小学校でも全体の一割程度なのだが、隣のプリンスジョージ・カウンティー(郡)になると、クラスの9割くらいが黒人なのだそうだ。PGカウンティーでは、家賃が安いのはいいけれど、発砲事件や殺人事件の起こる割合が高い。アメリカでは、安全はお金で買うものと思われているので、そういうところに好んで住む日本人はあまりいない。日本人のWさん一家がそこに住んでいたのは、ダンナさんの研究所が近くにあったからである。

クラスの9割も黒人っていったいどんな感じなんだろうと、わたしは興味を持って、Wさんに訊いた。「それだけ黒人が多いと差別意識なんて持たないよね?」 「うん、まあね」なんていう答えを予想していたわたしは、Wさんが「黒人にもいい人もいるし、悪い人もいるよね・・」と言うのを聞いて、目から鱗が落ちた。

彼女はすごくあたりまえのことを言っているように聞こえるかもしれないが、わたしの言いたいことはこうだ。わたしが「差別意識を持たない」という言葉で意識しているということが、既に差別の一種なのだ。Wさんは周りの人たちを評価するときに、黒人だから○○(なんとかかんとか)という意識を持っていない。だから、周りにいるのが何人(ナニジン)でもいい人もいれば悪い人もいるという、ごく当たり前の評価しか持たない。

やっぱり、実際にその場所にいる人は違うなあと、深く印象に残った出来事であった。


2002年02月14日(木) わたしはバレンタインデーなんて大嫌いだ

きょうはバレンタインデーだった。5年生の息子2は、学校から袋いっぱいのチョコレートやカードを持って帰ってきた。 とは言っても1つの本命チョコも義理チョコさえもない。言うならば「イベントチョコ」。バレンタイン・パーティーは学校行事なのだ。男の子も女の子もクラス全員分のチョコやカードを用意してお互いに交換し、あとは、クラスの中でお菓子を食べたり、ゲームしたり・・。

ああ、なんて平和なんだろう。アメリカに住んでいてよかったと思える数少ない一日だ。思えばむかし、わたしはバレンタインデーがだいっきらいだった。小学校では「学校内でのチョコ渡し禁止令」が出ていたので、息子1には、女の子がわざわざウチまでチョコを持ってきてくれていた。愛想のない息子1のことだから、1つか、いいとこ2つだったけれど、我がことのように嬉しかった。

ところが息子2が幼稚園に通うようになって、状況は一変した。幼稚園には禁止令はなく、本命(?)チョコがたくさん飛び交っているのに、息子2はひとつももらえないのだ。「しぃくんはいいよなぁー、いっぱいチョコもらえて・・」と本当に羨ましそうに言って、溜息をつきながら小さな胸を痛めている息子2を見ていると、わたしも切なくなって(違う意味で)小さな胸を痛めていたのだ。彼の痛みの何十倍も。

バレンタインデーなんて嫌いだー! なんて罪つくりなんだー! 幼稚園なんて登園拒否になってやるーッ! といくら私がムキになってみても何も好転しない。なのに、息子2がチョコをもらえない理由などという考えても仕方のないことを、わたしは、頭の中に延々と巡らせつづけた。

オンナだから、いままで考えたこともなかった「バレンタインデーにひとつもチョコをもらえなかった男のヒトの気持ち」が、男の子を持って身に染みて分かった。あんまり落ち込んだので夫に言うと、ずうっと非モテ系だった夫は、ケロッとして「そんなもんだよ、世の中って。落ち込むほどのことじゃないと思うけど」とか言っていた。

・・・ふぅ〜ん、そうなんですか・・・

夫がチョコを4個も貰って帰ってくると、義理チョコの存在を知らなかった子どもたちが「ええっー! パパ すご〜ぃ」と夫を尊敬のまなざしで見つめていたのも、今は遠い昔。きょう、夫は手ブラで帰ってきた。「やっぱり、もらえないの?」と一応訊いてみたところ、「アメリカじゃ男が女にプレゼントするんでしょ(もらえなくて当然)」と、のたまった。

ふ〜ん。じゃあなんで、わたしへのプレゼントがないワケ?


2002年02月08日(金) 子宮筋腫で入院6日間

子宮筋腫の手術のため11日間日本に滞在して、今日DCに戻ってきました。随分長く居た気がするけれど、お腹を切ったのに、たった11日で12時間半も飛行機に乗って帰ってくるなんてすごいと、いま頃になって思えてきました。

1月29日:成田着。
1月30日:入院、手術。麻酔が切れる時、こんなに痛いなら手術なんてするんじゃなかったと思った。
1月31日:初めてコンソメスープとヨーグルトドリンクの夕食。こんなものでも嬉しい。子宮から血を抜くための管がお腹に付いている。胸苦しくて吐き気もする。
2月1日:プリン・卵豆腐・蒸かし芋など固形物も。点滴の管が外れて腕が腫れる。腹筋を使うことはすべてダメ、笑えない、くしゃみできない、ベッドから体を起こすのも一苦労。
2月2日:朝御飯のちくわがおいしい。お昼はうどん。楽しみは食事の時間だけだ。体が不自由なだけで、頭はぼーっとしている訳ではないのでテレビを見たり新聞を読んだりして過ごす。日頃テレビを見て楽しむことがないのでやっぱり日本はいいわとつくづく思う。じっとしていれば平気だが、体を動かすたびに「痛い」という言葉を発する。お腹の管を抜き、全面にシールのようなものを貼ってシャワーを浴びる。こんなにこわごわシャワーをしたのは初めてだ。でもまだ、あさって退院だなんて信じられない。
2月3日:お昼に出前のお寿司が出た。病人って感じじゃないな。日曜日なので看護婦さんもひとり。閑散としている。同じ日に手術した人たちと看護婦さんの4人でお茶して2時間くらいお喋りした。日に日に良くなっているのが感じられる。
2月4日:他の2人は朝早く退院していった。私は病院の近くのホテルに泊まるのでチェックインの時間まで病院の中で雑誌を読んで過ごす。
2月5日:今日は成田のホテルに泊まって、明日、飛行機に乗ってDCまで帰る予定だったが、夫の不用意な一言に腹が立ち、無理して帰る必要はないと判断して(実際まだお腹が張ったりする)成田にあと2泊してから帰ることにした。本八幡で「アメリ」を観る。
2月6日:また映画を観に出かけた。「オーシャンズ11」 やっぱりアメリカはスケールの大きな国だなあ(感想)
2月7日:午前、テレビのワイドショーを見て昼寝する、午後、成田空港にランチをしに行って本屋などをぶらつく。飛行機の発着、非日常な人々の作る雑踏、ここから繋がっている世界への想い、空港の雰囲気が好きだ。夕食の後、ジャスコに日本食を買いに行く。子どもたちへのお土産にパンなど軽いものを。
2月8日:日本での最後の食事はやっぱり吉野家の豚汁朝定食が食べたかったんだよ、ほんとはね。もともと食べることに凝る性格ではないけれど、短い日本の滞在中は思いっきり好きなものだけ食べていても許されるでしょ、そのために帰るんだし。わたしの中で食がこんなに重要な位置を占めているなんて思わなかった。

ところで今日はもう、術後9日とは思えないほど普通に生活しています。笑ったりくしゃみしたりしてもほとんど痛みはありません。でも、手術してよかったなと本当に思えるのは3ヵ月後くらいなんでしょうね。


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