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2002年03月26日(火) やっぱりアメリカは世界の中心なのか・・と思った日

あの出来事があった日、わたしはまだここ(enpitu)で日記を書き始めていなかったのでリアルタイムで伝えられないのが残念である。

9.11のテロの後、1ヵ月も経たない平日のお昼時、夫とわたしはDCの日本食レストランでランチを食べていた。その時、隣にいたライダーのおじいさんが、注文をとりに来た店員に「きつねうどんをひとつください」と日本語で言った。

周りに東洋系の人が居ないと、つい気が緩んで日本に居たら言えないようなことを平気で喋ってしまう。「ここの店って不味いよね」とか、「あのおばさんて、野村沙知代に似てない?」とか。わたしは、隣のおじいさんが日本語を理解するなんて思わなかったので、頭の中で、直前までの夫との会話を反芻してみた。

が、「あの、わたしたち何かよくないことを話していませんでしたか? よく、そういう失敗をするんですよ」と、隣のおじいさんに英語で話し掛けた。「いや、わたしの日本語はほんの少しなので、何を話していたか分かりません。心配しなくても大丈夫です」と、おじいさんは日本語で答えた。

それから、話は自然と起きたばかりのテロのことになった。さすがに最近は小旗を窓に付けてヒラヒラとはためかせて走る車も少なくなったけれど、あの頃はアメリカ人の皆がテロに対する怒りで燃えていたのである。おじいさんも例外ではなく、熱く語りはじめた。

「テロの後NYからDCまでバイクで走ってきたけど、途中の街道の家々が全部、一軒残らず星条旗を掲げていた。いままで70何年、生きてきたけどこんな光景は始めて見たよ」

始めは頷きながら聞いていたけど、途中で彼が「やっぱり日本のみんなだって怒っているでしょう、許せないと思っているでしょう」と言うので、返事に詰まってしまった。アメリカの不幸は世界の不幸、みんなおんなじ気持ち・・なんて思わないでくれ、本当はそう言いたかったけれど言わなかった。

もし日本に同じようなテロによる事件が起こって、日本も国中が怒りを感じたとしても、アメリカも同じように怒れとは、日本人は言わない。これをアメリカの傲慢と一言で、言ってしまうのは忍びないが、彼のことは、まさにアメリカ人らしいアメリカ人だったなあと思っている。


2002年03月11日(月) みんな前へ倣え!

誰しも記憶にあると思うのですが、幼稚園や小学校低学年のころ先生に言われましたよね「まえへならえ!」って。短い列の時は「小さくまえへならえ」でした。

鈴木宗男の証人喚問のことが、多くの日記で取り上げられているのを見て、「前へ倣え」を思い出しました。ちょっと、風が吹けば桶屋がもうかる式の話なんですが・・・。

わたしは国会中継も見ていないので活字でしか知らない訳なんですが、以前も、webのテキスト上では知っているけれど、自分で見たわけではない(と言ってもテレビでなんですが)という似たようなことがありました。工藤静香が妊娠していることが発覚した時の木村拓哉の記者会見です。

Webのテキストでは、みな一様に、木村拓哉カッコ悪い、がっかり、静香に嵌められたというような悪い印象の感想しか伝わってこなかったので、わたしも漠然とそういう印象を持っていました。けれど、ちょうどその時期に日本に帰っていた人が、「木村拓哉はカッコよかった」と言ったのを聞き、ショックを受けました。一部の人の意見を鵜呑みにする恐ろしさを思うと同時に、否定の声をあげる方が大きく取り上げられ、主張しやすいのだと改めて思ったのです。

きょうは9月11日のテロからちょうど半年だと朝のラジオで言っていました。そのテロの後、9月下旬に予定されていた、日本人学校(土曜日の日本語補習校)の運動会が中止になりました。非常時に多くの人が集まるとテロの標的になりやすいとかなんとか、保護者の一部から中止要請があったそうです。でも、集まると言っても、せいぜい700人〜800人です。テロ後も野球の試合など変わらずに行われていたけれど4万人もの人が球場に集っているのです。

わたしは、そういう理由で運動会が中止になったことに納得のいかないものを感じました。
中止にしてほしいと言う声が日本語学校事務局にいくつ届いたのか知りません。500人の生徒(約350の家庭数)のうち10件も反対意見があれば、それは大きな数字なのだろうと思います。けれど、当然、予定通り運動会があるだろうと思っていた人の声は届くことなく無視されてしまったのです。

日本人学校の校長先生は、何かあったときに責任をとる必要があるのでしょうか。1%にも満たない有事の可能性の責任をとるために、中止にしておけば事なきを得るというやり方で、学校は、教室での勉強より貴重な経験をする機会を奪ってしまってもいいのでしょうか。

子どもたちが通っている現地校では、遠足でも、性教育などの特別授業でも、親の判断で、そのつど参加・不参加を決めることができます。(学校の名簿に名前を載せるかどうかも選択できます)現地校には運動会というものはありませんが、もしあるとしたら、それも参加させたくない親は行かないという選択をすることができるのです。

前へ倣えで、みんなおんなじ。責任は、学校(校長)がとるというやり方はどう考えても変です。ひとりひとり異なった考え方をしていることを認めるやり方、運動会が危険だと思う人は欠席することを、おかしいと言わない雰囲気が、日本人学校にはありません。日本人学校は、アメリカにあって頑ななまでに悪しき日本の風習をもって運営されている場所なのです。





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2002年03月08日(金) 暗闇のかくれんぼ

きょう、息子2の通っている小学校で「Family Fun Night」という催しがあった。これは「家族のお楽しみな夜」と謳っていても、なにも学校が家族サービスをしてくれるわけではなく、目的は fund raising(寄付金集め)である。ピザを食べながらビンゴゲームをしたり、オークションをしたりする。なぜか年々縮小の傾向にあり、今年は盛り上がりに欠けたので、早めに帰る人が多かった。

息子も突然いなくなってしまったが、ひとりで帰ったのだろうと思い、わたしも帰途についた。校舎を出て真っ暗な校庭の横を通ると、子どもたちが走り回っているのが見えた。すると突然、闇の中から小さな声がした。

「Hey! ママ、ここだよ」

(なにがHeyなんだか・・) 見ると、息子2が地面に這いつくばって、じっとしている。かくれんぼをしていたのだ。何もない校庭では、走り回るか、伏せてじっとするしか、方法はない。夜の校庭に子どもたちが集まってくることなどめったになく、暗闇のかくれんぼなんて、子どもたちにとってはエキサイティングなことに違いない。なんだか、すっごく楽しそうだ。

我が家は、校庭に隣接するコミュニティーの中にあるので、危険は少ない。わたしはそのまま帰ることにした。

帰り道、ふと「管理責任」という言葉が頭に浮かんだ。ここで、事故や誘拐があった場合、誰の責任になるのだろう。やっぱり親なんだろうな。

世田谷に住んでいた時、ウチの隣にあった幼稚園が廃園になった。しばらくして、園舎は取り壊され、子どもたちが遊ぶのにちょうどいい空き地ができたが、そこは高いフェンスで囲まれ施錠されてしまった。目の前の絶好の遊び場が段々と草ぼうぼうになってくるのを見るにつけ、文句のひとつも言いたくなった。

「何かあったら、その土地の持ち主が管理責任を問われるんだからね、仕方がないよ」 夫はそう言ったが、その「管理責任」とやら、いま考えてもやっぱり理不尽だと思う。空き地を目の前にして子どもたちは道路で遊んでいた。遠くに小さな公園もあったけれど、幼稚園や低学年の子どもには往復の道路だって危険なのだ。

暗闇のかくれんぼを見ていたら、管理責任という言葉と、狭い日本で、遊び場もなくて、締め出されてしまった息子たちのことを思い出した。


2002年03月07日(木) 帰属するもの

3月は移動の季節だ。アメリカの事情に合わせて6月〜8月に日本から来る人が多いのも事実だけれど、この春はなぜか日本に帰る人のラッシュである。さみしい。

わたしたちは、98年7月にアメリカに来て、もうすぐ4年。その年の8月1日に、いまの家に入れるまで、半月以上仮住まいをしなければならなかった。その頃、出したメールには、こんなふうに書かれている。

(前略)
 ところで「自分の家がない」ということが、どんなに心細く、精神的に
 不安定になることか想像できますか?
 新しい家が決まっても、入ることができるまで、2週間以上待たなけ
 ればいけなかったので、ずっと仮住まいをしていました。
 早く新しい生活をスタートさせたくても、持って来た荷物も開けない、
 足りないものを買い揃えることもできないという状況はかなり辛かっ
 たです。
 夫には仕事もあるし、子どもには学校(サマースクール)もある。
 なのに、わたしには何もない。(日本でのいろいろな活動も切り捨て
 てきた) わたしはホームシックになり、夜も眠れなくなりました。
 時差ぼけもあるけど(笑)

 自分が属するもの(自分の根っこ、identity)が、どんなに大切なことな
 のか実感し再確認しました。
 帰っていく家があり、しなければならない仕事があるって、日頃ありが
 たさを実感したことなどないと思うけれど、本当に必要不可欠なことな
 のですね。
(後略)

2年の予定で来たのに、4年いることになって、この夏もまだ帰れそうにない。いつ、(日本の)どこに、帰ることになるのか、分からない。根っこのない根無し草な気分のままでいるのはその所為でもある。(年齢や、英語力の問題や、子どものことや、DCの特殊性など他の要因もあるけれど)


2002年03月05日(火) Wine Tasting Party

お酒飲みじゃないわたしには、酒好きな人の気持ちはちょっと理解しかねる。わたしも、コミュニケーションツールとしてのお酒なら理解できるし、飲めなくても場の雰囲気は好きなんだけど、ほんとの酒飲みな人はひとりで飲むのが好きらしい。それがわたしにはよく分からない。

夕食後、わたしがパソコンに向かっている間、静かだなーと思うと、たいてい、夫はひとりキッチンでワインを飲んでいる。それも、マグカップで。わたしがキッチンに降りてきた時に、お茶でも飲んでいると思わせたいらしい。すぐバレルのに。 思わぬ時に、洗濯機の裏側や玄関脇のクローゼットの中から、ワインの空き瓶が発見されるのも、ちょっと笑える。そんな涙ぐましい努力をしてまで、お酒を飲みたいかね、ダンナ。・・っていうか、何もそこまで嫌わなくてもいいのに、わたし。(ひとり突っ込み)

そんな夫に、「ワイン・テイスティング・パーティーに誘われたけど一緒に行く?」「外に出た方が、さとこの元気が出ると思って・・」と言われても、それは(楽しいのは)あなたでしょーと突っ込まずにはいられなかった。

土曜の夜、7時に始まるというので、適当な赤ワインを買い、1時間かけて高速を走っていった。 

パーティーの手順はこんな感じだ。
1.玄関を入ると、ステッカーがあるので、サインペンで自分の名前を書いて胸に貼る。
2.ひとりずつ、コメント・カードと鉛筆を持つ。
3.ワインのボトルに持ってきた人の名前を書き、ワイン用の紙袋に入れ番号をふる。(誰が持ってきたワインか分からないようにするため)
4.赤と白は区別して白は冷蔵庫に入れておく。
5.プラスチックの小さなグラス(使い捨て)に、人数分のワインを注ぐ。(白の1番から)
6.ホスト役(主催者)が、「白の1番」と言いながら、トレイに乗せたワインを皆に配って回る。
7.ひとりずつ、コメント・カードに番号(白・1)と点数や感想などを書き込む。
8.5〜7を繰り返し、白ワインが全部終わったら、次は赤ワイン。
9.カードを集計し、一番人気のあった赤、白それぞれのワインを持ってきた人に賞品をだす。 
10.一番おもしろいコメントを書いた人にも、プレゼントがある。

わたしは、よそのお宅を見られるのもいいかなくらいの気持ちで行ったのだが、少しずつワインの試飲ができるのが思いのほか楽しかった。集まったのは40人で、ワインは、白ワイン16本、赤ワイン19本。40人分のワインを注ぎ、配って回るのは、重労働で時間もかかる。このペースで全部のワインを配ったらいったい何時までかかるのだろうと思いながら、チーズやサンドイッチをつまみ、お喋りしていた。わたしは、白の5あたりで、既にヘロヘロになっていたが、ちょうどよい頃に次のワインが来るので、結局、最後までいて全部のワインを飲んでしまった。

白ワインの方が味の差が出やすい。おいしいワインはとびきりおいしい。私でも、味の違いがよくわかる。飲み較べをしたことなどなかったので、おもしろい発見だった。私が一番に選んだワインが、人気投票で一位に選ばれると思わず「やったー」とガッツポーズをしたくらい嬉しかった。赤ワインになったら、変わりばえしないので、もう味の違いが分からなくなったのかと思ったけれど、6本目くらいから味が微妙に違うのも分かってきた。赤ワインは微妙に違うなあと思っただけで、とびきりおいしいと思えるものはなかった。

40人が一口ずつ飲んでも、ボトルにはまだ約半分の量のワインが残っていた。キッチンに残った大量のワインの瓶。うーん、お酒飲みにはコタエられないのかもしれない。 (それとも残り物のワインなんて美味しくないの?)





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