samahani
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2002年01月21日(月) |
赤く泣き腫らした目の女性がいたら・・ |
わたしは帰りの飛行機の中で文庫本を読んでいた。帚木蓬生(ハハキギホウセイ:漢字を探すのに苦労する名前だな)の、『閉鎖病棟』。ちょうど、ワシントン・ダレス空港に着く頃に、最後のページ近くなってきて、わたしは声こそ出してはいなかったものの、鼻水ダラダラ、目は真っ赤という状態でしゃくり上げながらページをめくっていた。飛行機は夜遅かったこともあり空いていた。初めは隣に座っていた、アメリカ人の老夫婦は、いつのまにか後ろの空いている席に移動していた。
ちょうど本を読み終わった時に飛行機は滑走路に滑り込み、わたしは涙を拭き、赤い目のまま立ち上がって荷物を上の棚から取りだそうとした。そのとき、さっきの夫人に声をかけられた。「うちのダンナがあなたの荷物を降ろすのを手伝うわ、いいのよ、使って頂戴」 そんな感じだった。素直にありがとうと言って、一緒に荷物を降ろすと、こんどは「あなたのセーターの模様とっても素敵ね、よく似合っているわ」と唐突にわたしのセーターを褒めた。
ありがとうと言いつつ、なぜ突然そんなことを言うのだろうと思ったが、そのおばあちゃんは、わたしの泣き腫らした目を見て、慰めて、元気づけてくれようとしたんだなと気付いた。ありがとう、おばあちゃん。でもわたしは悲しいことがあって泣いていた訳じゃないんです・・口には出さなかったけれど、(きっとそういうつもりだったんだよねと解釈し)わたしはとっても嬉しかった。
2002年01月20日(日) |
サンフランシスコで・・ |
サンフランシスコで乗り継ぎをして、17日の夕方には成田に着いているはずだったのに、乗り遅れてしまうという、とても、とても、しんじられな〜〜い事態に陥りました。ゲートに着いたら誰もいなくて、UAの地上勤務のおにいちゃんに『もうでたよ』と冷たく言われ、そんなバカな・・・と思ったのですが、おバカなのはわたくしめでございました。
もともと出発が遅れていたうえに、国際線の再チェックインゲートが混んでいて、さらにそこで、化粧ポーチの中に入っていた小さなはさみ(鼻毛切り)を見咎められ没収されたので、「おいおい! にーちゃんよぉー! そんなもんでハイジャックできるわけないだろーうよ!!」とあったまにきて抗議していたのです。乗換え時間が50分しかないってこともすっかり忘れて、ボケッとしてたのはわたしです。
ああ。茫然自失とは、このこと。予想だにしなかった出来事に頭の中は真っ白。なのに、パニック状態にに陥りつつ、なぜか妙に冷静。
どうなることかと思ったけれど、病院の予約等、土曜日に変更できて、結局、わたしの日本の滞在日数が一日減るだけで済みました。サンフランシスコのホテル代も航空会社が出してくれたし。
ひとりホテルにいても時間を持て余すので、せっかくだから、ダウンタウンまで行ってみることにしました。路線バスだと1時間も掛かるけれど、タクシーで行くと片道40〜50ドルだと言われて、ここでそんなに使う気になれず、アメリカに来てから初めての路線バスを経験しました。お寿司でも食べて元気を出そうと思ったら、魚の身がやたら分厚い不味い寿司だったので、よけい元気がなくなってしまったけれど。
2002年01月15日(火) |
ナーバスになっています |
突然ですが、明日、日本に帰ります。4日間だけ。年末に帰ったばかりだというのにまた帰るのは手術前の検査を受けるため。一度こちらに戻ってきて、手術のために1月末にまた日本に行きます。1ヶ月の間に3度も行ったり来たり。こんなことになると分かっていたら、年末に帰るのは止めたのに、飛行機の切符を取った後に、手術の日程が決まったと病院から連絡をもらったのです。
ここ1週間ばかり、めちゃくちゃな生活時間で暮らしていました。日本に帰る日が近づくと自然と体が日本時間にシフトして、夜眠れなくて昼間寝ているということは前からあったのですが、今回はそれが昂じて、徹夜しても次の日の午後まで眠くならない、かと思えば夕方5時くらいから次の日の午後までこんこんと寝ている。食欲が全くない、かと思えば夜中3時に突然目覚めてガポガポと山盛り御飯を食べる。下痢する。生活態度が悪すぎると夫に文句を言われて、突然泣き出す。ああ、わたしどうしちゃったんだろう、この魔のループからずっと抜け出せないのではないかしらと、そんな心配をしていました。
自分でも気付かなかったんだけど、手術を受けることに対してナーバスになっていたようです。ネットで探してまでわざわざ見なければいいのに、「開腹写真」を見てしまったせいかもしれません。
夫は、嫌なら止めてもいいんだよと言うのですが、わたしが手術を希望して、信頼できる病院(お医者さん)をみつけて、自分で決めたことなのです。止めたい訳ではないのです。ただ、気持ちがちょっと不安定なだけ。
2002年01月10日(木) |
村上春樹とヘアカット |
年末、日本に帰ったときに、ある人に「やがて哀しき外国語」という村上春樹の著書をもらった。その中に、村上春樹が男の子(少年ではない)で居続けるために拘っていることが3つあって、それは「運動靴を履いている、床屋で髪を切る、言い訳をしないということだ」というのがあった。
わたしは、背中の真ん中くらいまでのストレートのロングヘアだった。過去形なのは、この前日本に帰ったときに15センチくらい切ったからだ。長い髪の方が、実は 手入れが楽で、少しくらい伸びたことを気にしないで済む。日本と較べるとアメリカの美容院は手先が不器用で、こちらも上手く好みを伝えられないという思いがあったので、わたしは今まで一度もここで美容院に行ったことがないのだ。
村上春樹は、プリンストンに2年半住んでいる間、上手い床屋がなくてヘアカットにはとても苦労したという話を書いているが、それはよく分かる。夫と息子たちがいつも行っている床屋も、いくつか試して、このあたりでは一番上手いところなのだろうれど、行く度にヘアスタイルが変わる。いつぞやは、息子1の頭がゴルゴ13みたいになっていて、悪いけど、思いっきり笑ってしまった。
けれど、村上春樹がヘアスタイルにとてもこだわる人で、気に入らないカットだった時には1週間も外出しなかったとかいう話を読むと、でも、それって男の子(少年)のmindから大きくかけ離れているのではないかしらと思えた。(なんだかなぁ、そこまで拘らなくてもと思うのは、村上春樹の作品が好きではないからなのか)
それにね、関係ないけど、村上春樹ってどういう顔しているのでしょうか。村上龍と角川春樹の顔がちらつくばかりで、ちっとも思い出せない。気になったからgoogleイメージ検索で探してみたけど、ありません。
ところで、わたしが髪を切ったのは、新宿ワシントンホテルの1階にあるQBというところだった。アメリカ方式というふれ込みの、10分でカット、料金千円のお店。長い髪をピンで留めながら分割して切っていくのでとても無理だろうと思ったけれど、時計を見るときっかり10分、払ったのも千円ぽっきり。なんだかすごく得した気分だ。カットに5千円とか8千円とか払っていたのは何だったんだろう。
アメリカでは確かに10分で終わって10ドルだけど、チップも入れると11ドル払うし円換算するともっと高い。そして頭も服も毛だらけになるので、終わったらまっすぐ家に帰って、着替えとシャワーをしないといけないといういい加減さ。日本では短い髪の人は掃除機みたいなもので吸い出す仕上げもしていたから、そんな気持ちの悪い思いもしないはず。
けれど、わたしもやっぱり気になるから お風呂上りに後姿を大きな鏡に映してみた。そしたら、心持ち右の方が長いような・・・。わたしのお尻も右の方が若干垂れているので、なんだぁ、おそろいじゃん、揃えてくれたんだって嬉しくなった。(違)
2002年01月03日(木) |
不慣れな風邪引きは辛い・・ |
いよいよ本格的に風邪をひいてしまったようだ。涙がボロボロ、鼻水ぐちょぐちょ、熱っぽい。大箱のクリネックスを使い切ってしまいそうな勢いだ。 あなたのために流した涙の量には、かなわないけど・・・などとおバカなことも言ってみる。鼻の下が真っ赤か・・・美人が台無し・・・(←嘘)。日記なんて書いてないで、早く薬飲んで寝てなさいと自分でも思うのだけれど、悲しいかな、めったに風邪なんか引かないので風邪薬の買い置きがないのだった。
昨日、薬箱の中をゴソゴソ探して出てきたのは、引越しする時に日本から持って来たと思われる使用期限98年2月と書かれた薬の瓶。「ああ、それでいいよ、わたしならそれで充分。たまにしか薬を飲まない人には何でも効くから」などと言ったものの、やっぱり甘かったようだ。
昼間の暖かいうちにCVS(薬の大手チェーン店)に行って風邪薬を買っておけばよかったのだけれど、そこが英語下手な人の辛いところ。熱っぽい頭で、風邪薬を探したり、薬剤師さんに症状を説明したりする気にはとてもなれない。かかりつけの病院もないし、行ったところで、結局、診察の後でCVSに寄って市販の薬を買うことになるのは知っている。薬の名前さえ分かれば、初めからCVSに行った方が時間もお金も体力も無駄にならない。アメリカで特に内科などのお医者さんって何故必要なの?と前から不思議に思っているのだけれど。
仕事の帰りに薬を買ってきてあげると夫が言うので、「中華のテイクアウトも買ってきて」とお願いしたら、「もうこの時間(夜10時前)は、やってないよ」とのこと。どうして薬屋でさえ24時間営業してるのに、食べ物屋はみんな早く閉まってしまうのだろう。おにぎりやお弁当を売ってるコンビニもないし・・。ほんとに使えない健全な町なのだ、DCとその近郊って。
こんな時、不慣れな風邪引きさんは、ちょっと辛いなあと思うのだった。
新年早々風邪を引いてしまったらしい。鼻が詰まる程度なのだが、やたらと眠い。まあ、わたしは普段からよく寝る人なので、風邪なのか、時差ぼけなのか、ただのズルなのかよく分からないでもない。
けさ、夫は6時くらいから起きてひとりでなにやらゴソゴソしていたようだ。国内を移動したあなたが時差ぼけみたいになっててどーすると思うけれど、人に迷惑をかけているワケではない。わたしは、よほど眠かったらしく、ゴトゴトしていたのも気づかなかった。
元旦の朝、10時半くらいに夫の声で起こされた。「餅ってどこにあったっけ?」 それから、階下で包丁を使う音が聞こえてきたが、まだ眠かったのでウトウトしていた。夫は、里芋とえのきと紅白のかまぼこを使って、ちゃんとかつおのだしを取ったお雑煮を作ってくれていた。ううっ、泣けてくる。雑煮以外何もないけど、こんなに正月らしいものに期せずして出会えるなんて・・。
「いただきます」の代わりに、きょうは「おめでとう」って言うんだよと言うと、子どもたちは、きょとんとして「あれ?今日って元旦?」なんて言っている。そんなもんだ、アメリカの正月なんて。子どもたちは、お年玉のこともすっかり忘れているようなので、こちらもあげず仕舞い。いや、本当はこんなお正月じゃいけないと思っているのだ。もし、まだ来年もここに居ることになったら、学校を休ませてでも1月3日くらいまで日本に帰って、来年こそはお正月らしいことをたっぷり堪能することにしよう。
今日は普通の休日と変わらず、電気屋も写真屋も開いていて、夫は買い物等の野暮用にひとりで出かけていった。お昼は野菜たっぷりの煮込みラーメン、夜はすき焼きという簡単、手抜きメニュー。わたしは、朝寝の他に昼寝も夕寝もしてほんとの寝正月、子どもたちはゲーム三昧、夫は普段と変わらない休日だった。ほんとに疲れているみたいだねと夫は気遣ってくれたが、さすがに申し訳なく思い、風邪薬を飲むことにした。ついでに紅白かまぼこの残りものを肴に赤ワインを飲みつつ、この日記を書いている。一年の始まりがこんな一日でよかったのだろうか>わたし。
明日から学校も会社も始まる。
2002年01月01日(火) |
あけましておめでとうございます |
日本は午後2時、遅く起きて、お節とお屠蘇でおめでとうと言って、遅めのお昼御飯を食べ終えたころ、こちらも新年を迎えました。テレビで夫とふたり、NYタイムズスクエアのカウントダウンを見てました。おめでとうの言葉を言うのも忘れていたような・・・「おめでとう」。
わたしは、田舎に育ったせいか、節目の日は、きちんと今まで通りにお祝いしたいと思う気持ちが人一倍強い。けれど何にもなさそうな元旦である。朝になったらみんなでおめでとうを言って、子どもたちにお年玉をあげるくらいだ。
大晦日は特別なことをすることもなかったけれど、お昼に、ランチ兼、買い物に行った日本食料品店で紅白歌合戦を放映していたので、森昌子から天童よしみまで見ることが出来た。混んでいて、かの地で年越しする人も沢山いるんだよねと当たり前のことをふと思う。
大きめのお弁当箱くらいの、3段重ねおせちセットが165ドルで売られていた。のし餅付き。4人家族には一食分にも足りないくらいの量だ。高いと思うけど、買っていく人も多かった。
日本から買ってきた玄関用のしめ縄を夫に見せたら拒否された。家の中ならいいけど、それを玄関に飾るのはやめてくれって。クリスマスにリースを飾るのはよくて、お正月にしめ縄を飾るのはダメなのか・・。夫は近所の人から反感をかうからと言っていた。わたしには納得できなかったけど夫の言うとおりにした。
年末から、きのうまでいろいろあった。 空港まで迎えに来てくれた夫と会えなくて、お互いに2時間も空港で待ちぼうけしてしまった。ふたりとも携帯電話という便利なものを持っていないからだ。私が諦めて、タクシーで帰ってきた10分後くらいに夫も帰ってきた。がっくし・・である。 久しぶりに見た息子2が別人のような顔をしていた。スキーで怪我をしたからだ。顔からアイスバーンに突っ込んだり、バランスを崩して加速しながら坂を転げ落ちて樹にぶつかってやっと止まったり(レスキュー隊を呼んでくれた人がいて「立てるかい?」と訊かれたらしい)、負傷する事故が3回もあったそうだ。スキーウエアが大きく裂けていて使いものにならなくなっていた。
そんなこんなの中、みんな一応元気で、大きな事故や事件もなく、新しい年を迎えられたことは、やはり感謝するべきことなのだと思う。
あけましておめでとう
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