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2001年12月29日(土) 新宿にて

3日目にして、インターネット・カフェに来ています。

初日、成田に着いたのは4時過ぎで、新宿までたどり着いたのは6時過ぎだったのにその日の夜、映画を観に行った。冷静と情熱のあいだを観たんだけど予想と大きく違っていた。泣かせる映画じゃなかったし、中だるみしてた。たったふたくち飲んだビールと長旅の疲れの所為で、途中で居眠りしてしまった。夕ご飯を食べたらさっさとホテルに帰って早めに寝るべきだった・・。こういう映画はストーリーではなく、好きな俳優を大きなスクリーンで観るために行ったと思えばいいのだ・・きっと。

2日目、下北沢に芝居を観に行った。買い物したばかりの服を網棚に乗せたばかりに小田急線の中に忘れてしまった。結局、見つかったのはよかったのだけど、急行だったので終点の小田原まで荷物が行ってしまった。取りに行くこともできず、年内に戻りの便もないそうで、わたしの買い物した服は小田原で年を越すことになった。久しぶりに観たお芝居「夏の夜の夢」by東京乾電池はおもしろかったけど、他の人の笑いドコロで笑えなかったことに、ふっと小さな疎外感を感じたりした。

3日目、これから新宿西口の電気屋さんを廻って、できたらノートパソコンを買うつもり。


2001年12月24日(月) ひとりぼっちのクリスマスイヴ

けさ4時起きして、スキーに行く夫と子どもを空港まで送っていきました。帰ってきたら6時。これから、わたしひとりの長い一日の始まりです。クリスマスイヴって日本ではクリスマス以上に(ある種の人には)意味のある日なんですけど、ここでは大晦日みたいなもの。郵便局もクリーニング屋さんも開いています。一番盛り上がるのはイヴではなく、やっぱり本当のクリスマスの日なのです。

むかし、あるクリスチャンの家族にクリスマスパーティーに招待され、25日に来てくださいと言われたのですが、日本の感覚が抜けていなかった私たちは「えっ?24日じゃないんですか?ほんとに25日でいいんですね?」なんてとぼけたことを言ってしまいました。サンタさんからのクリスマスプレゼントも25日に貰うのです。あの頃まだ幼稚園だった息子1。学校が始まって、友だちと話をした時に食い違ってはいけないから、間違えないようにしなきゃと私たちも気をつかったものです。

そんなわけで独りぼっちといっても、さほど寂しさを感じていないわたし。空港から帰って、取り敢えず、朝御飯を食べて、ネットして、まだまだ一日は長いからひと眠りと思ったら、うぎゃー、11時になってる。しまった。きょうは色々とすることがあったんだ。もしかしたら、お店が早く閉まるかもしれないから、と急いで出かけました。まず、夫に頼まれていたクリスマスカードを出しに郵便局へ、次に、クリーニングを取りに、それからきょうがdueの本を返しに図書館へ。洗濯やキッチンの片付けもあるけれど後回しです。日頃できないことをしなきゃと、バスタブにたっぷりのお湯を張って、白い入浴剤を入れて、ゆっくりとお風呂に入りました。お湯を使いすぎると、次の人が水風呂になってしまうのです。あんまりゆっくりしてたら2時間近くも経っていました。クリスマスショッピングにも行こうと思っていたけど、電話が掛かってきて少し長話ししていたら行きそびれてしまいました。

あしたはクリスマス、私は日本行きの飛行機の中でクリスマスを過ごします。着いたら26日。わーい、こんなに大勢の人と一緒にクリスマスを過ごすのは初めてだぞーぃ、切符もやっと取れたくらい満席だしぃー・・・なんてね。

飛行機の中で眠れるように、まだまだ今夜は起きているつもりです。でも、6時起きして車を運転して行く予定なのに大丈夫なんでしょうか・・・・・


2001年12月19日(水) もう今年も・・

こんにちは、気分はすっかり年末バージョンなさとこです。

日本に帰ったら何しようとボーっと考えたりしています。久しぶりに世田谷区民プールに行って泳ごうかなあとか、やっぱり「冷静と情熱のあいだ」は外せないよなあとか、だとしたら28日(金)までは東京かなとか、髪を切りたいなあとか、いろいろと。

年末って、昔は、もっと気が急いて気分だけでも慌しかったものなのに、あまり普段と変わらないのは、私がアメリカに居るせいなのか、単に、何にもしないで済まそうといういい加減さが身についてしまったからなのか、どうしてなんでしょう?

少なくとも年賀状書きという習慣からは逃れているわけで、去年までは替わりにクリスマスカードを出していたのだけど、今年はそれも無し。おばあちゃんが亡くなって喪中だし・・・なんて。クリスチャンでもないのにクリスマスカードなんて変じゃない?・・・とか言い訳してみたり。

年末の大掃除っていうのもあったね、私んちは、この前のガレージセールの時に片付けも、大掃除も済ませちゃったからもういいもんね。っていうか毎年そんなことは、特別していないんだった。あはっ

けれど長年の習慣とは恐ろしいもので、やっぱり“大晦日+元旦=年越し”は私にとって特別なものなのです。実家に帰って、コタツでみかんと年越し蕎麦を食べ、紅白歌合戦を見ないと新しい年が来た気がしません。大晦日の日にテレビで世界の新年の様子など見ていると、あぁ、ここは出遅れてる、取り残されてるという悲しい気分になるのです。

アメリカの学校は、1月2日から始まるので、実家に帰ることは泣く泣く断念しました。どうして夏休みはあんなに長いのに、冬休みはさっさと終わるの? ひどいじゃないなんて愚痴っています。


2001年12月18日(火) ああ、怒涛の3日間

この3日間は他のことが何も出来ないくらい、いろいろあって忙しくて疲れたのに、昨日は興奮して眠れないほどだった。

ウチを会場にして、日本人の8家庭合同でガレージセールをしたのだ。打ち合わせと称して集まったのが2回、事前に荷物を運び込む人の対応をしたのが数回、家の中の場所を空けるために荷物を移動させたのが延べ1日、ひとつひとつの品物に値段をつけたのが5時間くらい、前日にみんなで集まってセッティングしたのが約4時間。私が値段をつけていた品物を見て「そんな(まだ必要な)ものまで売りに出すのか」と夫に言われ、ケンカにもなった。はーあぁ、前日までで、こんなに大変な思いをするとは・・という感じだった。

前日の夜遅くまで作業していたのに、当日は早く目が醒めた。朝もバタバタしていて、あっという間に開始時間の10時半に。たくさんお客さんが来たら入りきれないかも、と心配したけれど、ごった返すほどではなく、品物もそこそこ売れていった。アメリカ人が靴のまま上がってきたり(帰るときまで気が付かなかった)、電話を貸してと言われた人に長電話されたり(普通、借りてる電話では必要最小限の用事だけしか話さないと思うんだけど・・)、遊んでいた子どもが荷物を倒したり、小さなハプニングがいくつもあった。午後1時半くらいまでで終わるつもりが、まだ売れ残っているので粘ろうという話になって、結局、夕方の5時半くらいまでみんな残っていた。「おつかれさまー」と言って片付け終わったのは6時半くらい。荷物を運び出したら、あれっ、この部屋ってこんなに広かったっけという気がするくらい、引越しの後みたいに何もないがらんとした部屋が現れた。残ったものは、お祭りが終わった後のような寂しさと、みんなで協力してやり終えた達成感と、心地よい疲れだった。

その日は売上金には手を付けず、解散した。今日は、またみんなで電卓を持って集まって売上金の集計作業。なんと、たった75セントの不足、ほぼぴったり、すばらしい! 売上の多かった順に3人が25セントずつ負担することにした。今日の作業時間は約1時間。ガレージセールの話が出てから今日まで、チラシを作ったり、日本食料品店に貼りに行ったり、MLに流したりという時間まで合わせると、いったい全部で何時間、割いたことだろう。平均すると、それぞれ100ドルくらいの売上だったが、時給にすれば10ドルにも満たない。けれど、私は売上金以上に得られたものがあった気がする。

いつも、「私って友だちいないから」と言っていたけど、一緒にひとつのことをするということが、私の気持ちをみんなにぐいと近づけてくれた。「会場にしてくれてありがとね、大変だったでしょう」と言葉や形にしてねぎらってくれたので、大変だったという思いも吹き飛んだ。ガレージセールはうちの中が片付いてお金も得られて一石二鳥なのだけど、私にとっては、それ以上の充実した気持ちになれるイベントだったのだ。


2001年12月14日(金) Christmas Party という名の忘年会

昨日、今年二度目のクリスマスパーティーに出かけた。一度目は日本人だけの会費制パーティーだったので、名目はクリスマスでも、内容は忘年会そのものだった。お寿司、胡麻和え、おでん等というメニューで、ツリーもなければ、クリスマスソングも流れていない。ただひたすら、食べてお喋りするだけ、要は親睦会ってこと。

昨日のは、ポトラック(一品持ち寄り)形式で、色々な国の人たちが各国の料理を持ってくることになっていて、こんどこそクリスマスパーティーらしいのかなと期待して行った。

色々な国の人が居て、珍しい料理を食べられたのはよかったのだけど、クリスマスソングとは似ても似つかぬ喧しい音楽がガンガン掛かっていて、全然話が聞き取れなかった。いつもは、多少分からないことがあっても半分くらいは理解できて、雰囲気でふんふんと返事をすることはできる。けれど、ここまで何を言っているのかさっぱり分からないということは、最近なかったので、ちょっとめげた。(ウルサイ音楽と慣れないお酒の所為にしておこう)

みんなワインを飲んで、次々にいろんな人とお喋りして、音楽に合わせて踊ったりもして、陽気にトーキン、ダンシンって感じ。結局、教会でするクリスマスパーティー以外は、どこでも忘年会と同じなのだと気付いた。


って、いまさら言わなくても、あたりまえか。


2001年12月13日(木) 愛無な減り君

ことしはテロの影響で、ホワイトハウスのクリスマスツリーの一般公開をしていない。私も2年前に、寒い中一時間以上並んで見に行ったことがある。毎年異なるテーマで、各部屋に何本ものツリーが飾り付けられるので、リッチなクリスマス気分を味わうことができる。今年は暖冬で待ち時間も苦にならないのに、少し残念だ。

というわけで、今日は、昔バージニアのガバナー(州知事)が住んでいた古い家のツリーを見に出かけた。(今は資料館のような形で公開されている) ツアーのみんなでランチを食べて、その家に行ったら、そこもホワイトハウスだった。白い家っていう意味だけど。

うちに帰ってきてから、スーパーに買い物に出かけると、そこでずっとクリスマスソングを流していた。いやん、こっちの方がよっぽどクリスマス気分だわ(←チープな人だ)。アイウォナウ〜ィシュアメ〜リクリスマス♪(I wanna wish your Merry Christmas)。ノリのいい曲なので、私もつられて大声で歌ってしまい、周りを見回してしまったのだけど、実は内心「あ、私 けっこう発音いいかも?」なんて悦に入っていたんである。そのフレーズのところしか歌えないのに。

繰り返し流れる英語が、まるで「発音練習してくれ」と言っているかのように聞こえて、つい口に出して言ってしまうというのは、たぶん幼稚園レベルなひとの思考回路だと思う。(笑) まあ、いいけど。

テレビで I am an American. というセリフを何人もの人が次々に言うコマーシャル(政府広告)を、テロの後くらいから、しょっちゅうやっている。で、私には、これも発音練習に聞こえて、「アイムナメリ(ク)ン、アイムナメリ(ク)ン」と何度も言っていたら、横で聞いていた夫が「アメリカ人になりたいの?」と訊いてきた。んな、あほな。
でも、考えてみたら、これを実際に言う場面なんてない訳で・・。わたしって、無駄な努力をしてるのかしらん。

ちなみに、(ク)は曖昧に発音するので、カともケとも聞こえる。
一発変換しようとしたら、「愛無な減り君」って出てきた。なんだか、愛が無くて滅入っている男の子みたいだね。 


2001年12月11日(火) 置いてきぼり

こちらに来てすぐの頃のこと、子どもの喋る日本語が一気におかしくなったことがある。
あるときお友だちの誕生会に呼ばれて、一緒に行く子のお父さんが会場まで連れていってくれた。

息子1「N君のお父さんって馴れ馴れしいんだよ」
私「フレンドリーってこと?」
息子1「知らない道とか、よく知ってるから」
私「それは、単に、慣れてるって言うんだけど」

私「プレゼントどんなのがあった?」(もらったプレゼントはみんなの前で開けることも多い)
息子1「ビニールで出来たぬいぐるみとか・・怪獣の」
私「ぬ、ぬいぐるみですか、それって・・・」

このまま、どんどん日本語が下手になっていくんだろうかと心配したが、それは一時的なものだった。突然、ぜんぜん言葉が分からないところ(学校)にポンと入れられて、一日中、ワケの分からない話を聞かされてるんだものね。ストレスで、頭がパニックになるのも無理はない。

小学校の先生をしているTちゃんが、「登校拒否は真面目な子や頭のいい子がなるんだよ」と言っていたけど、たしかにそう思う。いままで成績優秀で分からないことなどなかった人や、完璧な人の方がよりストレスを感じるだろう。

けれど子どもは、1年も経てば、英語で普通に話も出来るようになって、「ママ、こんなのも分かんないの?」と言うようになる。

今年の冬、夫と子どもたちはスキーに行く計画を立て、3人分の飛行機のチケットを買ってホテルの予約も済ませてしまった。私は一緒に行ってもレベルが違い過ぎてつまんないから、初めから「行きません宣言」をしている。

子どもって、そうやって大きくなっていくものだとは思ってみても、私って、すでにこの年齢で“置いてきぼり”な人生なのね、しんみり・・・。


2001年12月07日(金) 終戦記念日vs開戦記念日

けさ、なにげにNBCニュースなど点けていたら、JapanだのPearl Harborだのという単語が耳に入ってきた。 へっ?なになに?って耳を傾けて聴いてみると60年とか記念日とか言っている。どうやら今日12月7日は、60年目の記念日らしい。つまり60年前の12月7日に日本軍がパールハーバーに奇襲攻撃を仕掛けたその日を忘れないように、anniversaryとか言って特別番組を放送しているのだ。

ふーん、Anniversaryっていうのはこういうふうな使い方をするワケね・・・ってそうじゃなくって。なんかイヤだよね。パールハーバーを忘れないって連呼されるのは。外出した時も半旗になっているのを見かけて、記念日だからかなと思ったり。そういえば、2週間ほど前から、スーパーの入り口で、パールハーバーのポスターを貼って、退役軍人らしきおじいちゃんが、アメリカの国旗の缶バッチやシール、冷蔵庫用の磁石などを売って募金を集めてた。どうしていま頃パールハーバー?と思っていたけど、こういうわけだったのか。

日本語の新聞と朝のフジテレビでも確認して、ついでに実家にも電話して聞いたけど、日本では何も言ってなかったみたい。今日は何の日だと思うって、父に訊いたら、戦時中の記憶がある人だから、さすがに知っていたけど。

9月11日のテロ事件のことも、「私たちはこの日を忘れない」って、今でもずーっとテレビで繰り返し流されている。「9月11日」とか「あなた(消防士)たちは、私たちの誇りだ」とか書かれたTシャツがお店で売られていたり。

でも、何なんだろう、戦争が始まった日を忘れないということの意味は。日本が終戦記念日を特別な日として覚えておくのは、「これからは私たちは平和な国家を目指していく」という意味だと思うけど。アメリカは、奇襲攻撃された日を忘れず、いつでも備えあれば憂いなしでいなさいとでも啓蒙してるのかしらね。


2001年12月06日(木) 野村沙知代が逮捕されたって・・

朝、テレビを点けたら野村沙知代逮捕のニュースをしていた。
えっ?こんなのがトップニュースなの?なんで?これじゃ、いきなりワイドショーじゃないと唖然とした。ここでは、朝9時から10時の1時間しか日本語のテレビを見ることができない。そのたった1時間の枠のいちばん初めに入れるような事件なのか? 私には全然興味のない話だけど・・

野村沙知代という人は見ていて楽しい人ではない、むしろ反発を覚える。テレビを消せばいいだけの話なのだけれど、日本語でテレビを見ることを、ささやかな楽しみにしている私は思ったのだ、ほんとに他のニュースはないのかと。

次の日の朝、新聞を見てまたビックリした。一面にそのニュースが載っていたから。ほー、そんなにビッグニュースだったのか。

軽い衝撃を覚えた。たった3年半で日本との距離が随分と広がってしまったみたいだ。8年前ボストンに2年間住んでいた時は、インターネットもなく、日本の情報も入ってこなくて、帰国した時に浦島太郎状態になっていたけど、今回はしょっちゅう帰国しているし、インターネットも日本語の新聞もある。私は、日本のことを身近に感じ、そう遠くないところにいる気がしていたのに・・。

しばらくワイドショー番組から遠ざかっていて、久しぶりに見ると、その毒々しさに目を背けたくなることがある。野村沙知代のニュースもそのレベルでしか考えられないけどね、私には。

ぜーんぜんかんけいないやん ていうか どーでもいいやん とおもってしまうところにもうすでにおおきなみぞができているのね・・ ちょっとさみしい


2001年12月05日(水) 国旗と誇りと

私が自分のことを日本人だなあと思うのは、炊きたての白いご飯と温かい味噌汁を口にして「あぁ、おいしい、なんて幸せ」と感じるときである。好物の紀州の梅干があれば言うことはない。

けれど、最近、私は自分を日本人だなあと感じる新たな現象にしばしば出くわすようになった。アメリカの国旗やステッカーをつけた車を、路上で何台も見かけるときだ。多くのアメリカ人は、9月11日を境に、急に愛国者になってしまった。車に小さなアメリカの国旗をつけて、ヒラヒラとはためかせて走るのが、まるで流行りであるかのようだ。そんな時、ミーハーの私が思うのはその流行りを、私も真似したいということ。でもここで私は、旗ゆえにハタと困る(なんちて)。アメリカの国旗じゃイヤだから、やっぱり日本の国旗をつけて走りたい。でもこれってやっぱしマズイよね。アメリカ人にも白い目で見られ、日本人にも変な人って思われるに違いない。けれど、アメリカの旗をヒラヒラさせて走る気はしない。こんな時、私はやっぱり日本人なのだなあと思う。

アメリカでは、9月11日以前から、いろいろな場所で国旗が掲げられ大切にされている。カウンティー内の公立学校では、毎朝、子どもたちは、授業の始まる前に、国旗に向かい胸に手を当て「pledge」(誓い)をする。プレッジは「私はアメリカの国旗に向かい忠誠を誓う・・」で始まる。また、野球や他のスポーツでも、試合の前に観客は同じようなことをする。帽子を取って起立し、胸に手を当て、国旗に向かって、国歌を聴く。そうやってアメリカ人は、ことあるごとに自分がアメリカ人であることを再認識する作業をしている。
私は、そういう光景を見て、ちょっぴり羨ましいなあと思う。彼らが、「自分がアメリカ人であることを誇りに思う」という意思表示をしているように感じられるからだ。

私は決して右翼な人ではないが、どうして日本では国旗がこんなふうに大切にされることがないのか、と考える時、ちょっと寂しい気持ちになる。国旗がないがしろにされ疎まれることが、私たち日本人にもあってしかるべき「自分たちが日本人であることを誇りに思う気持ち」を否定しているように感じられるのだ。日の丸は戦争という悲劇の歴史を背負わされてしまったけれど、本来、国旗は全く違う意味で存在していて、そしてそれは今でもそうあるべきものだと思う。

そうならざるを得なかったことが残念だ。


2001年12月01日(土) アメリカ、どろぼー事情

まだときどき夏の暑さがぶり返す秋の初めのことだった。住宅街の中にある小さなスーパーで、駐車場に車をとめて5分くらいのつもりで買い物をしてきたら、運転席と助手席にお揃いで置いてあった座布団のひとつがなくなっていた。ロックはしてあったけれど、暑かったから窓を全開にしていたので簡単に盗むことができたのだ。一枚千円で日本から買ってきたものだから、めずらしかったのかもしれない。(こちらでは車にカバーを掛けたり、クッションを置いたりすることはあまりない) でも、誰が使ったか分からない、お尻の下に敷かれている物、新品ならまだしも1年以上も使ったクッションなんて欲しいと思う人がいるんだろうか。ああここはアメリカなのねと妙に納得してしまったできごとだった。

来てすぐの頃は、車の中の見えるところに、物を置いたままにしておいてはいけない等の安全のルールをきちんと守っていたのに、油断していたなと思う。ひとつだけしか盗られなかったのは、どろぼーさんの良心の呵責だったのだろうか、必要なだけ盗む主義でもあったのだろうか。

先日プールに行った時、シャワーのところに洗顔石鹸を忘れてきた。一週間後、またプールに行ったのだが、「そんなもの出てくるわけないじゃない」という夫の言葉に 「あるかもしれない」 と応えたのは、私だったらそんな誰が使ったか分からないようなものを使いたくないという気持ちがあったからだと思う。日本語で「素肌さらさら・すっきり」とか書かれていたチューブ入りの洗顔石鹸、いま頃だれかの家でちゃんと使われているのだろうか。

日本にも泥棒はいるけれど、使いかけの、他人にとってはゴミみたいなものを盗る人はあまりいないだろう。しかし、それはアメリカのほうが貧しいからという理由ではなくて、アメリカでは古いものでもまだ価値があるという考えによるのではないかと私は思う。庭先で不要品を売るガレージ・セールを覗くと、「えっ、こんな物みんなまとめてゴミじゃない」と思うようなものでも、けっこうな値段がつけられて売られている。

もう一つ考えられる理由は、学校で、他人のものと自分のものを区別する教育がきちんと成されていないからではないかと思う。子どもが、学校で拾ったと言ってコインを持って帰ってきたので、どうして先生に渡さなかったのかと問うと、「先生も机の上にある瓶に入れるだけで、誰が落としたのって訊かないんだよ」と言う。じゃあしょうがないねと私も言いたくなる。(実際は、先生はそこにお金をプールしておいて、ランチを忘れた子どもにそのお金で買ってあげたりするようだ) お金が落ちていることはよくあるけれど、みんな拾っても自分のものにしてしまうよと子どもは言う。ふむ。私は「日本では、それは止めなさいね」としか言えなかった。

アバウトで、他人のものでも、自分のものでも、古いものでも適当に使っているように見えるこの国の人たち。盗られたくなかったら自衛するしかない。(当たり前だけど) けれど、それもおおらかでいいじゃない?と思えるようになったのは、単に、まだ大物は盗まれたことがないというに過ぎないからである。


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