語り
DiaryINDEX|past|will
友人氷河は、いないのか?と思うのが 世の常、人の常。
います。
きょうこ、という友人です。
感情表現が派手な、若かかりし中学時代。 そんな多感な我々の中、あえてポーカーフェイスをモットーとしつつ、オヤジなだじゃれを呟きつづけることに生き甲斐を見い出し、異彩を放っていた女。
顔は「ダウンタウンの松本人志にそっくり」と定評がある。
それを本人に告げると、ニヤリと笑って、
「誕生日もちかいんや。松本は9/2のB型、あたしは9/1のB型や」
と、自慢している。というか、一体なんの自慢になるのか、きょうこ。
まあ、そういうキャラなので、氷河にされても仕方あるまい。 っていうか、当時から、我々の氷河のキャラ評価は、
「アホ」「怪しい」「マニアック」
という、原則に貫かれていたのである。今振返れば、我ながら、なんという炯眼な中学生だったことだろう。しみじみ。 この原則に乗っ取って、彼女が氷河と称されるゆえんはなにか。
まず1つめに、「宝のもちぐされ」なところ。 彼女は、当時から誉れも高い、絶対音感の持ち主であった。
「すべての音が、ドレミファソラシドに聞こえる耳」。音楽を志す人間が羨望してやまない、その耳。
エレクトーンでは、幼少期から英才教育をうけ、先生の資格を持つゆみ(※友人紫龍)ですら、持ち得てないという、その耳。
その耳を持ちながら、おまえ、何ゆえ演劇部にはいっとんねん。 その疑問は、我々にとってかれこれ、15年程疑問であった。これからも疑問でありつづけるだろう。付け加えていえば、彼女の現在の職業にも、絶対音感は全く必要無さげである。
宝のもちぐされ。我々は、あの美貌を誇りながら、へんてこなダンスを踊り、わけのわからん力み台詞で笑いをとる、キグナス氷河を彷佛させながら、そう、彼女を呼ぶ。
ちなみに、一昨年、その絶対音感を彼女が駆使する姿を、はじめてみる機会が私に訪れた。10数年間、友達でいたが、ほんとにはじめてみた。 それは、携帯のチャクメロを作成する時である。
ソーダが、自分の気に入ったメロディーがないので、きょうこに作ってもらいたいと、彼女を呼びつけた。 わたしの世代だと御存知かもしれないが、懐かしの深夜番組、11PMのテーマ曲。 「しゃばだばしゃばだば・・・・」という、アレ。 ソーダのセンスもたいがいだ。そんなソーダにわたしの笑点を小馬鹿にされるいわれはない。 などと、ケンカしていたら、さっそうときょうこがやってきて、あっというまにメロディを解析、あっというまに打ち込もうとした。 あのわけのわからん、リズムすらとれない、あの11PMのメロディーを。 「おお〜。さすがきょうこ」と、驚嘆の叫びをあげる我々だったが、 ソーダの携帯があまりにも旧式なため(※いまどき単音)、
和音すらいれられず、結局断念した。
きょうこ「つーか、単音だけしかないんやったら、最初からそういわんかい!!」
ソーダ 「ええやんか、その宝のもちぐされの才能、本邦初めて活用してやったんじゃ、ありがたく思え〜〜!」
純子 「ソーダ、己の携帯の機能の限界、シランかっただけやろ、実は・・・・▼¬ω¬▼」
つづく
友人ケッコン式の芸に、いまのところ全力投球になってしまっている自分。そんなわけで、更新ネタを全く創造できていない。 やっちゃいかんと思いつつも、入り口トップに、昔絵を引っ張ってきてしまった。
いちおう、最近、己の中にルールはできていて、
入り口トップは、「シベリアノ貴族」なので、氷河絵で。
中トップは、新作絵を。というもの。
それだけは、守ってみた。
それにしても、一年って早い。こないだ、この絵、描いた記憶があるのに、もう一年前なのか〜、と思う。
そして今回のリバイバル絵は、しなさんのリクエストで、「目眩」の氷河バージョン。しかし、この絵のタイトル、絵が 「あまりに重すぎて目眩」て意味?ってかんじ。▼ーωー▼
もうすぐ桜が咲きますね。
紫龍の闘いぶりというか、本人の生きざまが、いさぎよく散りがちなので、わたしの中では桜のイメージが強いです。
2002年03月06日(水) |
わたしの友達の「瞬」 |
ここ数年、1年に4.5回はケッコン式。
お祝い芸のネタもそろそろ尽きてきてしまった。
しかも、来月は、いままで、我々友人(独身組)の披露宴芸を牽引してきた、みゆきがとうとうヨメにいくので、毛穴がひきしまる。
奴の式で、中途半端な芸でもやろうものなら、
『ダサイ!!あたしにやらせろ』と、花嫁衣装で飛び込んできかねない、アツイ宴会女なのである。
どうしよう。
招待状には、しっかりと「涙と笑いをもたらす芸希望」とモノスゴイ難しい事書いてきやがっている。っていうか、指定細かすぎや、自分。
彼女も中学時代からの友人で、ゆみが紫龍なら、お前は瞬だといわれた人物である。
どう瞬かといえば、争いがキライとか、涙もろいとか、そういう高尚な次元ではなく(※むしろ、好戦的だ)、
肌が白いのでピンクがとても似合うことと、 一緒に登校中、遅刻しそうになって走ると、かならず彼女だけが大幅にこけてしまい、
「あたしにかまわず先にいって!!」
と、悲愴な声をあげるような所が、あげられる。 (星矢初期の、一輝が敵だったころ、本気をだせないでいる、ちょっと足手まといになりがちだった瞬に良くにていた)
そのコケ方は、かなり盛大だった。
一番イメージとして近いのは、野球選手がランニングホームランで、ホームに滑り込むような体勢。 その場に居合わせた、おなじく遅刻まぎわで走っている名も知らぬ男子生徒たちに「わはははははは」とあざわられ、横を駆け抜けられている、地面に突っ伏している彼女(※しかし、へこたれていない。毎回の事だからである)。
そんな、哀れなコケ方で、地面に倒れている友人を見捨てていけば、わたしらは、 名前だけの友情の奴だと思われかねん・・・・
ゆみとわたしは、遅刻を覚悟で、 彼女のおとした荷物を拾い、 彼女の腕を引っ張りつつ、 黙々と走るのだった。 まるで聖闘士星矢のキャラのようだわ、と思う事で、その試練を乗り越えているわたしだった。
回想が長くなった。 話を戻すが、そんな彼女はきっとピンクのウエディングドレスが似合うであろう。 そして、その前で、わたしは、彼女がちゃんと、笑って泣くような芸をせねばならないのだ・・・・・ 彼女は聖闘士星矢にはまったくはまらなかったが、 同時期に大人気だった、シティハンターの冴羽さんの大ファンだった。
アニメネタはやっぱり必須だろう、うちらの中で、ということで、まずはトークの出だしを、
『ズキューン!!(※銃声)俺の名前は冴羽リョウ』
で始めるか、という意見も出たが、
この中の誰が神谷明そっくりの声音を出せるんじゃい、ということで、却下となった。
そういうカンジで、「会議は踊る」状態の我々。
毎日、頭を痛めている(※しかも芸のことばかりで)。
2002年03月03日(日) |
テレビあんまりみないけど |
予告。本日も、氷河紫龍バナでなくてすいません。 しかも、カタイです。 家にいてもあまりテレビをみないわたし。 テレビをみると疲れるのです(老人か)。
でも、今日は 「たまにはこたつに寝そべって、ゆっくりテレビみてみるかデー」にした。(先日の友人たちとのチャットで気になるCMが出来たので)
そして見てたのはNHK(ってCM見れないやん)。
わたしはNHKが大好き。 台風接近の時など、とってもありがたい。
和歌山は、台風の進路。本州へは、だいたい和歌山から台風は 「おじゃまします」とやってくる。 九州や、四国に上陸すると、被害が大きい事がおおいので、台風よ、もし日本に上陸するなら、和歌山からこい!!と思うのだが、 それでもやっぱり不安。
そのような中、NHKが深夜、クラシックを流しつつ、天気図そのまんま放置して、放映しつづけてるのとかを見ると、 「ああ、見張ってくれてるわ、NHKが」 と、台風上陸の不安が吹き飛ぶのである。
あと、世界遺産関係や動物の生態関係、宇宙関係のスペシャルが好き。 シルクロードものとかが特に好き。くぎづけ。 そういうわけで、今日は、「天空のシルクロード」というタイトルで、チベットの奥に栄えた都市の壁画の特集をみてしまったのだった。
敦煌だけでなく、こんなとこ(※ヒマラヤのふもと、地上4000メートルの高地)にまで・・・・!!! 仏教美術の裾野とはなんと広大無辺に広がっているのだろうか、と、目頭が熱くなってしまった、純子INこたつであった。 なにが感動って、名も知らない、無欲で敬虔な信仰者たちが、1000年以上も残る芸術を、なんの見返りも求めず救いだけ求めて、壁に残し、それが見れることが感動。 どんな思いで描いたのかと思うと、気が遠くなりそうだ。 東山魁夷画伯の言葉で、
「描く事は祈り」 という言葉があるが、まさにそうなんだと思う。 血が熱くなるのです。
そこは、シルクロードの要衝の地。 さまざまな文化、宗教、身分の人々が行き交った地であったそう。 描かれていた壁画には、それがよく現れていた。
敦煌の仏教壁画とおなじ、飛天。 古代ペルシャのイスラム文化の影響を受けた、紋様美術。 中国王朝の権威の象徴、龍(うふ)。 そして、チベット古来の神々の絵。
めまいがするほど、多種多様であった。 神仏だけでなく、動物も、人物も。そのなかには金髪碧眼も、黒い肌、黒い髪も、黄色い肌も。 仏教の懐の深さをまざまざと感じる。
現在の世界の紛争解決を、教育の時点から考えると、世界の宗教学習が必須になってくるといわれている(ニューヨークのテロ以降)。 そのうち、3大宗教を結ぶ役割を期待されているのは、仏教といわれている。 納得してしまった。
番組は、この都市を首都にしていた、王国の衰亡についても触れてくれている。 金を豊富に産出するこの国は裕福で、壁画にも惜しみなく金を使っていた。 こんな使われ方をするなら、金も本望だろうな。芸術品として愛でられて時をこえるのだ(後世には、目立つものは、泥棒の手で壁画から剥がし盗られていたようだが)。 どこかの富豪の金庫の中で、延べ棒なんかにされて、積まれてしまうよりもよっぽど幸せな金だね、と思った。 しかし繁栄したこの国にも滅びの時がやってくる。 砂が吹き込んだ石窟の風化した跡、灌水の跡、そして赤と青と金が目に眩しい、仏教壁画だけが、その繁栄があったことを伝えていた。 人の祈りのこもった芸術だけは滅びないのだなあ、と、東山魁夷画伯の言葉をしみじみ噛み締めた。
そんなこんなで、欽ちゃんばしりをがんばっているという松雪さんは、今日もみれずじまい。すんごい気になっているのにい〜〜(;´Д`)。
|