2009年10月31日(土) |
午前三時。電話のベルで目が覚める。こんな時間に一体誰だろう。ナンバーを確かめて受話器を上げる。今仕事が終わってこれから帰るところなんだ、と友人は言う。ちょっとこのところ仕事がきつくて疲れてしまったよ、と言う。うんうん、と私は応える。こんな時間に申し訳ない、でも元気かなと思って。うんうん、こっちは何とかやってるよ。ひぃひぃ言いながらも、それでも何とかやってる。そうかぁ、よかったぁ。このところあなたたちが夢に出てくるんだよ、娘さんは笑ってるんだけど、あなたの顔がよく見えなくて、なんだか心配になってしまって。うんうん、ありがとう、大丈夫、何とかやってるから。そうかぁ、それならいいんだぁ。少し酔っているらしい友人は、それでも心配げに訊いてくる。困ってることはないか、悩んでることはないか。だから私は笑って応える。困ってることといえば、お金くらいで、あとは大丈夫だよ。悩んでることかぁ、悩んでることも特にないよ、大丈夫。それよりそっちはどうなの? あぁ、自分は、なんかもう、わけが分からなくなってきてるかなぁ、働いているのか働かされているのかもよく分からない。それでも回っていかなくちゃいけない、それがどうにもバランス取れなくて。でもさぁ、仕事があるだけいいと思うよ、うちの弟なんて、仕事がなくてなくて、今本当に困っているもの。そうだよねぇ、仕事があるだけましだよねぇ。それは分かってるんだけど。そうだよねぇ、そんなこと分かってるんだよねぇ、分かってても、これでいいんだろうかって思うことあるよねぇ。うん、あるんだよぉ、どうしようもないんだよ、もう。ねぇ、久しぶりに会えないかな、時間取れないかな。ちょっと待って、予定表見るから。 運が悪いときは徹底して悪いもので、私の予定と友人の予定がうまく噛みあわない。結局、じゃぁまたいつか、と言って電話は切れた。これから始発まで何処まで歩けるかやってみるのだという。 私は、もう眠れる心境でもなく、なら折角空いた時間だ、と、パックをすることにする。パックなんて殆どしない自分だから、こういうひょんとできた時間がちょうどいい。私は、鏡に向かって顔中にクリームを塗りながら、頭は別の所に向いている。時間は午前四時を少し回ったところ。確か十分放置するんだったよな、と思い出しながら、私は一本の煙草をくゆらす。開けた窓の隙間から流れ出る白い煙。そして改めてさっきの電話を思い返す。何故こんな時間に友人は電話をかけてきたのだろう。普段とても礼儀正しい友人だ。こんな時間にかけてくることはまずない。よほど思い余って電話をしてしまったのだろうと思う。今頃何処を歩いているのだろう。線路沿いの道、まだ闇の中、とぼとぼと歩く友人の背中が見えるようで、私は心がきゅっとなるのを感じる。明日も仕事なのだと言っていた。私はそれを手伝うこともできない。彼が為さねばならない仕事。誰も手伝いなんてできない。 気づけば十分はとうに過ぎており。私は顔を洗いにゆく。これをしたからって何が変わるんだろう、と思うのだが、多分多少は何か、変わってるんだろう。私が鈍くて気づかないだけで。とりあえずパック終了。化粧水をはたきながら、私は廊下を行ったり来たりする。この、ぽっとできた時間、どうやってすごそうか、同時に、友人は無事に始発に乗ることができるだろうか、と。 髪を梳きながら、私は薔薇を振り返る。今日多分、マリリン・モンローの蕾は開くだろう。ちょうど留守にする今日だから残念だが、仕方がない。半分開いている花に鼻を近づけ、私は息を吸い込む。芳醇な香りが胸に流れ込む。この品種を作った人は、何をもってマリリン・モンローと名づけたのだろう。きっとこの香りと花びらの色味なんだろうけれども。それにしても、なんて豊かな香りなんだろう。豊かでありながら、少し切ない。そんな香り。
しばらく連絡のつかなかった友人から連絡が来る。このところ微熱が続いていて、と彼女が言う。大丈夫? うん、なんか上がったり下がったり、安定する時がなくて。そうかぁ、それじゃぁしんどいねぇ。うん、しんどい。でも、展覧会行きたいなぁ。うん、見てほしいなぁ、体調さえよければぜひ見てほしいなぁ。もし今月が無理でも、来月何とかしたいと思ってるんだ。うんうん、ありがとう。待ってるよ。 今彼女には一つの転機が訪れている。再婚という大きな転機が。最初の結婚は、殴られ続ける毎日だった。殴られ追い詰められ、彼女は耐えられなくなって逃げ出した。病院に何度もお世話になった。他にも彼女には傷がある。そうしたたくさんの傷を負いながら、彼女は今を生きている。 再婚するということに対して前向きになろうとすればするほど、かつての結婚のことが思い出され、混乱するのだという。それとこれとは違うのだと自分に言い聞かせても、無意識の部分が葛藤してしまうのだという。無理もない。 きつい時、私が彼女に頼まれて作った言霊ブレスを眺めながら、彼女は石の言葉を聴いているのだという。死んで何になるの? 今死んで何になるの?と石が語りかけてくるのだという。私は敢えて、彼女に、普段彼女が選ばないだろう石を一種類、ブレスに編みこんだ。その石が、特に語りかけてくるのだという。ねぇさん、そのせいかね、この石、どんどんぴかぴかに光ってくるんだよ。もうべかべかっていってもいいほどなんだ。私は電話の向こう、彼女の腕にはめられたブレスを思い浮かべる。強く光り輝くあの石の様がありありと思い浮かぶようだ。それに引き上げられて、浮上することが時々あるよ。そっかぁ、うんうん。私は彼女の言葉を聴いている。最近、ねぇさんとこのあの石もまた気になってるんだ。あぁ、とてもいい子たちだよ、穏やかで、それでいて強くて。写真見てるだけでどきどきするんだよ。あの子たちだけ違って見える。そうかぁ、うんうん。 じゃぁまた連絡するよ、わかった、待ってるね。そう言って私たちは電話を切る。多分大丈夫、彼女とはまた会える。私はそう信じている。
私は疲れ果てて眠った。顔を洗うことさえできぬほど疲れていて、そのまま眠った。眠りの中で何度も、もう亡き友人たちの顔が浮かんでは消えた。走馬灯のようにそれは浮かび上がり、万華鏡のように次々姿を変え。私の中で回っていた。私は思わず呼びかける。もういないはずの友人たちの名を次々呼ぶ。彼らは笑って、逝った当時の若さのまま、私を振り返り、にっこりと笑う。ねぇどうして、あなたたちは逝ってしまったんだ。私は無駄と知りつつそんな問いをぶつける。誰も応えない。誰も応えない。それでも、私はぶつけてしまう。ねぇ、どうして死んでしまった。どうして生きていてくれなかった。どんな形であっても生きていてくれさえいたら、まだ次があったのに。 そうして夢は唐突に消えた。
気づけば五時半。慌てて娘を起こす。今日は早めに家を出なければならない。娘の代わりにミルクとココアに餌をやる。ミルクが身体を伸ばして小屋の入り口に上り、こちらに出てこようとしている。だめだよ、だめだよ、と声をかけながら、私は餌を小屋に入れる。ほら、ごはんだよ、そっちにいきな。そう言っても、ミルクもココアもいっこうに、小屋の出入り口から離れようとしない。仕方なく、ふたりを掌に乗せ、ちょっと構ってやる。支度を終えた娘にバトンタッチし、私はゴミをまとめる。今日はゴミの日。 家を出て始発のバスへ。バス停から見える東の空が、今、朝焼けで燃えている。ママ、すごいね。うん、すごいね。雲がどんどん流れてゆくよ。これなら晴れるかなぁ、今日。どうだろう、わかんない。晴れてくれると助かるんだけど。そうだよねぇ。私たちは二人で東の空をじっと見つめる。 始発のバスに乗って駅へ。そして電車へ。そこで私たちは別れる。じゃぁね、じゃぁね、またね、メールちょうだいね。うんうん、分かった。電話もするよ。うん。それじゃぁね。といったところで電車のドアが閉まる。娘がウィンクをしてくれる。私はウィンクできなくて、にっと笑って手を振る。 さぁ、一日が始まった。感傷に浸っている暇はもうない。このまま走ってゆけ。自分。逝ってしまったみんなの分も、精一杯、走れ。 |
|