見つめる日々

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2009年08月31日(月) 
雨が降る。窓を開けると一気に風が吹き込む。街路樹の枝葉は斜めになり、ざわざわわと揺れている。
ただそれを見ていた。しばらくの間。あぁ、昨日見た夢とそっくりなのだ、と気がついた。ただそれを、しばらく見つめていた。

駆けつけたはずの馴染みの街角は、いつもと違ってざわめいていた。すべてがスローモーションだった。見なくても多分それは分かっていた。彼女は言葉どおりに飛び降りた後なのだと私の体中が知らせていた。見なくても分かっていたのに。私は見ずにはいられなかった。納得できなかった。
飛び散ったものは白く紅く、アスファルトに散り散りに散っていた。遅かったのだ間に合わなかったのだと自分に言い聞かせる間もなく、それは厳然たる事実だった、現実だった、そこにあるのはただ、死だった。
いつの間にか、雨が降り出していた。私は人垣の消えた街角で、ただ膝を抱えて座っていた。雨は、何の温度もなかった。
―――夢はそこで、終わっていた。

あの日、家に帰ったのは何時だったろう。今もうその記憶は定かではない。でも、こんな光景をあの日、私は帰り道の何処かで見た。夢の中にそれがあった。

私は窓を開けたまま、台所へ向かった。そして黙々と、娘の今日のお弁当を作り始めた。今日私は病院の日。彼女は午前中で帰宅する。そして私が帰宅する頃には彼女は塾にでかけなければならない。その彼女のために、小さなお弁当を作る。うずら卵を肉で丸く覆ってフライパンへ。その最中に電子レンジでブロッコリーを茹で。ついでだから冷凍シュウマイも解凍して。次々若葉色のお弁当箱に詰めてゆく。最後にミニトマトをブロッコリーの間に入れて終わり。
お弁当の出来上がり。
生きてる証拠。生きてるってことの塊。お弁当。

なんだか急に泣きたくなった。朝だというのに泣きたくなった。だから私は金魚の水槽の前に座って、一本煙草を吸ってみた。水の中、すいすい、ゆらゆらと金魚が泳ぐ。小さい金魚、大きい金魚、決してぶつかることなく水の中。鮮やかな緑の水草が水面に浮かぶ。その水草を避けながら、小さい金魚、大きい金魚、ひたすらに泳ぐ。私の影に気づいて、寄ってくる金魚。餌を求めているのだ。口をぱくぱくさせながら、必死に尾ひれを動かしている。ここにもまた、生の塊。

ベランダで薔薇が揺れている。パスカリが二つ花を開かせている。花びらの縁は細かくひだになり、付け根に向かって今度は一本の美しい曲線が描かれ。一つとして同じ形はなく。真っ白の、生まれたばかりの花。ここにもまた、生の塊。

私の周りには死が溢れ、私の周りには生が溢れ、混沌とそれらは存在し。その只中に私は立っている。
生きているからこそ、ここに立っている。ここに、在る。

見上げると空は濃灰色の雲に覆われ、でもその雲は一時としてとどまることはなく、ぐいぐいと動き。
だから私は手を伸ばしてみる。届くはずのない空へ。ただ真っ直ぐに。

部屋の中に戻ると、娘はまだ寝息を立てている。さぁ私は朝の一仕事を始めなければ。顔を洗って髪をとかして、そして唯一一筋口紅を引いて。
夢はもう過ぎ去った。彼女はもうここにはいない。彼女に再会することがあり得るとしたらそれは、私が死んだ先だ。今ここで彼女をいくら想ってみても、もうどうすることもできない。
私は私の周りに溢れる死をひしひしと感じながらも、同時に生に塗れてここに在ることを、しかと噛み締めなければ。

夜は明けた。朝が始まった。私はただそれだけを貪り、次の一瞬を生きる。


2009年08月30日(日) 
曇り空。冷風がびゅうびゅうと吹き付けてくる。台風の影響なのだろうか。といっても私はニュースを見ていない。聞いた話によると、今日にでもこちらにやってくるそうだが。薔薇の樹が心配だ。支え木を添えてはあるが、それでも…。ここは高台、周りに高い建物はこのマンションしかなく、風はいいように吹き荒れる。せっかくついた蕾が壊れてしまわなければいいのだけれど。

白い羽根。
それを見た瞬間、空から白い羽根が舞い降りてきているのかと錯覚した。
何だろう、何だろう、ガラス越し、目を凝らせば。それは幾つものシャボン玉だった。早朝、港の埋立地で一体誰が何処でシャボン玉を。そう思いながらも、その美しい光景に目を奪われる。ふわふわと、ふわふわと舞う白い羽根。光を受けて発光するそのシャボン玉。
ひとしきりするとその羽根の群れは消えてなくなった。けれど、とても美しく、いとおしい光景がそこにあった。昨日の出来事。

仕事を一通り終えた後、掃除を始める。娘もいない土曜の午後、私は思い切って、娘のもう着れなくなった服を引っ張り出す。赤ん坊の頃の産着などはとってある。何故だろう、もし娘に赤ん坊ができたとき、それを差し出してあげたい気持ちがするからだ。娘が赤ん坊の頃、私はピンクより、薄い黄色や水色の服をよく着せていた。それならもし娘の赤ん坊が男でも女でも、どちらでも多分着ることができるだろう。そんな気持ちがしている。まぁそんなものは、勝手な親の感傷なのだろうが。
先日、ママ、もうこれ着れない、と言っていた娘のワンピースをまず引っ張り出す。私はとても気に入っている、ばばが買ってくれた黒と白のストライプのワンピースだ。顔立ちのはっきりした娘に、とてもよく似合っていた。残念だなと思いながら、かといってサイズ直しができる服でもなく。私は畳んでゴミ袋に入れる。さらに次、次、とやっていくと、捨てる服は結構な量出てきた。もしかしたら、もしかしたらととっておいたものばかり。でも、私と娘は二人家族で、いずれ引越しもする。そのときにやるより、今整理しておく方が楽なんだろう。そう思い、名残惜しい気持ちを引きずりながら、服を次々畳んではゴミ袋に入れる。
さて、次は私のもの。私のものは紙ごみがとてつもなく多い。たとえば一片の詩があったとして、それをプリントアウトする。そこに赤を入れる。テキストを直しプリントアウトしなおす。それをホチキスで止めて、さらに赤を入れる。そしてまたプリントアウト。読み直し、そこでも何かひっかかれば赤をいれ・・・と作業を繰り返す。ひとつの原稿ができあがるまでに、だから大量の紙が消費される。それがページ物などになれば、とてつもない量になる。
裏は娘の計算用紙、お絵かきに使ってもらっているため、それらは娘の机に溜まっていくわけだが。出てくる出てくる、娘が書き散らした紙が机の中、机の棚、何処からでも出てくる。途中苦笑しながら私は片付けてゆく。
結局ゴミ袋の半分くらいは軽く埋まってしまった。でもおかげで、娘の机はすっきりきれいになった。帰ってきたらびっくりするだろう。本棚もきれいになった。これで、彼女が使う予定になっているノートパソコンも、脇に置くことができるというもの。

そんなこんなであっという間に時間は流れ。かといって夜ご飯を一人で食べる気にもならず。思いついて、一錠薬を飲んで横になってみる。
眠れた。珍しい。あたりがもう夜の気配だったからなんだろうか、二時間ほどだけれども、眠ることができた。体の疲れがすっととれる。

そして夜、ひとしきり仕事をし終え、私は音楽をかける。このところ覚えたい歌があってそればかり流していたが、久しぶりにシークレット・ガーデンが聴きたくなった。何曲かかけたところで、今度はCoccoを流してみる。
先日会った昔からの友人と交わした言葉が蘇ってくる。心の中で反芻しながら吸う煙草の煙は、ゆらゆらと夜に溶けてゆく。

今朝、とある人と会話をしていた折、私がメモをとろうとしたら、その人が言った。メモをとらなければ忘れる程度のことなら、忘れたらいい、その程度のことだったんだ、と。私にはメモをとる癖がある。だからそのいつもの癖で、心にひっかかったその人の言葉を書き取ろうとしたのだ。そしてその言葉だった。
あぁ、確かにそうかもしれない。そうですね。本当に。
そう言って、私はメモをとるのをやめた。
けれど。やっぱりこれは癖なんだな。私はその人のその言葉をこそ今度は、記しておきたくなった。果たしてこれを私が読み返すことがあるのかないのか分からないけれども、でも私は一度記すことで、同時に心に刻んでいく癖があるから。
そしてふと思う。素敵な言葉をありがとう。あなたも、あなたも、あなたも。私はすぐに忘れてゆくのかもしれないけれども、でもまた何処かで何かの拍子に思い出すかもしれない。思い出してそのときに改めて、あなたの言葉を噛み締めるのかもしれない。だから、ありがとう。

こうして日記を書いている間にも、空はどんどん暗くなってきている。本当に台風が近づいてきているのだな。今日の午後帰ってくる予定の娘は大丈夫だろうか。いや、じじが一緒についてくるのだから大丈夫に決まっているのだけれども、それでも、ちょっと心配になる。

これを書き終えたら、私は小さな墓を一つ作ろう。せっかくうちに来てくれたのに、早々にあの世に逝ってしまった小さな金魚の為に、小さな墓を作ろう。薔薇の樹の脇がいいだろうか。それともアメリカン・ブルーの隣がいいだろうか。いや、やっぱり薔薇の樹の脇にしよう。そして徐々に徐々に溶けて肥やしになって、再び薔薇の花となって咲いたら、いい。
ごめんね、長く生かしてやれなくて。ありがとう、ほんのちょっとでも一緒にいてくれて。

開け放した窓から風がびゅうびゅうと吹き込む。脇に束ねたカーテンが、それでもわぁわぁと声を上げ踊っている。
私は。
ただそれをじっと、見つめている。


2009年08月29日(土) 
いい天気だ。いい天気過ぎてプランターは元気がない。昨日たっぷり水をやったのに、アメリカン・ブルーなどはもうしおれかけてきている。また今日の夕方にでも水をやらないと。
アメリカン・ブルーの脇のラベンダーは相変わらず貧弱だ。大きくなぁれ、大きくなぁれ、とまじないをかけながら、葉を撫でてやる。

金魚は一匹生き残った大きな金魚と、新たに買い足した小さな金魚二匹が、競争するように水草の周りを泳いでいる。昨日から娘がいないので、娘の代わりに餌をやる。とたんに水面に集まってくる金魚、そのぱくぱくとした口。ちょっとおばかっぽくて私は好きだ。

ハムスターはというと。ミルクはもう、砂浴びの砂だろうとトイレの砂だろうと構わずおしっこをひっかけるものだから、砂替えが大変だ。昨日も全取替え、今朝も全取替え、これじゃぁ砂がいくらあっても足りない。何とかうまい方法はないものかと考え込む。しかし、今のところ方法は浮かばない。
ココアの方は相変わらず静かだ。砂浴びの砂のところでおしっこをすることもなく、餌はひまわりの種が好物らしく、それらを一番最初に食べてしまう。好きなものを最後まで残して、最後の最後に食べようとする私とは違うんだななんて、妙なところで自分と動物を比べてみたりする。確かに、好きなものを一番に食べてやらなければ本当は生き残っていけないのかもしれない。好きなものを最後にとっておくなんて術は、人間だけのものなのだろうか? ちょっと不思議になる。

昨日は久しぶりに石を仕入れに出掛けた。私は、どんなに美しく見える石でも、自分が呼ばれていないと思ったら買わない。どんなにレベルの高い石であっても、自分が呼ばれていると感じられなければ買わない。
昨日結局仕入れたのは、三種の石。青系のクォンタムクワトロシリカとクリソコラ、グリーンファントム。それだけ。
呼ばれないときは買わない。どんなに高価そうな石が出揃っていても買わない。そう決めている。
でないと、言霊ブレスは作れない。ただレベルや値段が高いだけの石では、作れないからだ。呼び合う石をつむぎ合わせてやらないと、石たちは素敵な歌を奏でてはくれない。

そうして駅を三つ分、自転車を飛ばして炎天下、家に戻る。学校から戻る娘を出迎えるためだ。夏休み最後、金曜日から日曜日をじじばばの家で過ごすことになっている。だからこそ、出掛ける前に彼女の顔をしっかり見ておきたい。そう思って。
二人でバスに揺られている最中、その日買ったとある本を娘に見せる。こんな写真があったよ、と。娘は何も不思議に思わないらしく、その本の中の、私が指差した写真を眺めている。私が少し説明する。今この人はこういう病気なんだって。そうなの?そう、そういう病気があるの。ママも一時期そういう症状に苦しんだことがあったよ。そうなの?うん。ママはどうしたの?うーん、薬を飲んだからって治るようなものじゃなかったから、長いことつきあって、今も時々そういう衝動と戦ってるの。そうなの?うん、そう。でもママ、私、この人の声好きだよ。一緒にライブ行ったよね。行ったねぇ。みんな、いろいろ抱えてるもんなんだよね。そうなの?そうだよ、多分ね。ふぅん。
何を伝えたいわけでもない。ただ、そういうものがあるということだけを彼女に知らせたかった。それ以上のことは私は伝える必要はない。彼女が自らその壁にぶつかったとき彼女自身が考え悩み乗越えていくべきこと。私にはそう思えるから。そしてそこで親としてできるのは、ただ彼女を見守り続けること、それだけだと思うから。

夕方、蝉時雨も一段落ついた頃、父とある話をする。
今の私の病院と、先生との関係についてなど。
私が十代の頃、一番最初に自殺未遂した折、助けてくれた稲村先生はもういないが、父にはその関係の知り合いが残っている。だから私から切り出してみた。
「結局おまえはM先生に捨てられたってことかぁ。…おまえはM先生に最後までついていくんだと言ってきかなかったから今まで黙っていたが、そういう状況なら話は別だ。つてを辿ってみよう」。父がそう言ってくれたとき、正直涙が出そうになった。
父がそう言ってくれたことに対して、もそうかもしれないが、それ以上に、私が発した言葉を必死に、今まで見守ってきてくれたのだな、ということをそこで改めて知ったからだ。M先生についていく、私を治してくれる先生はあの人しかいない、と私は確かにかつて言った。でも違った。M先生は去ったし、今私は、この病気は他人が治してくれるようなものではないことをもう知っている。
父母は、最初、医者が治療に協力してほしいと連絡をとったとき、それをばっさり断ち切った。精神科になど足を踏み入れるつもりはないし、自分たちには関係はない、と言い切った。その時私はショックを受けた。私はそれをかなり長いこと引きずってもいた。しかし。
徐々に徐々に、父も母も、自分たちがそれを理解できないというところから私を理解しようとしていることに気づき、そして今、そういう立ち位置から必死に私を見守っていてくれたことを改めて知る。
あぁ親というのはなんて哀しい存在なのだろう。なんて切ない存在なのだろう。でもそれがあるからこそ子供はやってゆけるのだ。きっと。

私の娘に親は私しかいない。
そのことを、私はしかと自分に刻んでおかなければならない。自分がどんな立場にいるのか、を。
それを、痛感する。

夜遅く家に帰り、窓を思い切り開ける。夜気が瞬く間に部屋に滑り込んでくる。煙草を一本くゆらしながら、私はその日あった出来事、交わした言葉たちを思い返す。そして、短いながらも眠りに落ちる。

そうして今朝、朝一番の仕事に草木の世話、金魚の世話、ハムスターの世話を一通り終えて私は、再び一本煙草をくゆらす。煙は開け放した窓から空へ消えてゆく。発光する空に溶けて消えてゆく。
さて、今日はやりたいことがたくさんある。とりあえず何から始めよう。
遠く近く、もう、蝉の声がせわしなく聴こえる。


2009年08月28日(金) 
朝一番でベランダを見やる。小さく咲いた白薔薇と蕾たちを愛でつつ、空を見上げる。今日は一面水色の空。雲は東の方に隠れている。
昨夜は寝苦しかったのか、娘が何度も「暑い暑い」と言いながら寝返りをうつ。それでも起きないところが子供なのだなとうらやましく思いながら、私は隣で小さくなっていた。

昨日、電話をくれた友人は、ハムスターを六匹もたてつづけに育てたことがあるらしく、私が流血したと嘆いたら、軍手をはめるといいよと教えてくれた。そこで早速、娘と買いに行った。娘は嬉々として、軍手をはめながら掃除を始める。私が手伝わなくてもとりあえず何とかなるようだった。
そうして今朝、私も軍手をはめて、出てきたミルクに手を差し出してみる。噛む噛む、これでもかというほど噛む。が、私の手には届かず。やーい、噛んでも大丈夫なんだよーん、なんて心の中で呟きながら、しばらく彼女が噛むままにさせておく。
ココアはというと、全然出てこない。鼻先だけが巣からちょこねんと出てくるだけ。まぁそんなこともあるんだろうと、声だけかけて、私は仕事を始める。
今日から弁当は作らなくていい。その分時間が増えた。なんだかちょっと得した気分だ。

今年の十月から十二月には「あの場所から」の展覧会、そして来年一月と六月に展覧会が予定されている。六月の個展に関してはもう準備は殆ど整った。しかし一月の二人展がまだまだだ。ネガをひっぱりだし、あれやこれや選ぶ作業をここ何日か続けているのだが、選び出すという作業は意外と大変なのだ。欲張ってあれやこれや引っ張り出していると机にプリントの山ができる。そんなの飾りきれるわけでもなし、そこからさらに選び出す作業が待っている。これを何度繰り返して展覧会に至ることか。
次の二人展は、今までの展覧会で零れ落ちた作品にできるだけライトを当ててやりたいとは思っているのだが。

そうしているうちに父から電話。朝早くどうしたのだろうと心配になって出ると、今日は何時に来るんだという内容。なんだ、そんなことか、昨日話したじゃないかと思いながら、できるだけ大きな声で答える。父の耳が遠くなり始めて久しい。そうやって年をとっていくのだな、と、実感する出来事。健康を自慢にしている父でも、そういうところが少しずつ年老いていくのだ。そういうものなんだ。年を重ねるということは。

そういえば、昨日電話をくれた友人は、だいぶここのところ調子が良いのだと話してくれた。カウンセリングも自分には合っているようだと言っていた。
省みれば、去年や一昨年、彼女は入院したり友の家に夜中駆け込んだりと、いろいろ大変だった。それが、今、こうして、笑いながらあれやこれや話すことができるようになっている。哀しいことがあった。辛いことがあった。それでも生き延びたから、今がある。
電話を切った後、再会できる日がとても楽しみだなぁと、彼女の写真を机に並べながら思った。

今日から学校。そしてこの週末はまたじじばばの家に娘が出掛けてゆく。さぁ私はどうやって過ごそうか。この写真の山をとりあえず切り崩すことから始めなければ。

あっちの友、こっちの友、みんな、それぞれ、元気でありますように。
玄関を出るとき、その脇で、アメリカン・ブルーが小さく揺れた。


2009年08月27日(木) 
朝起きると、ミルクがごそごそ何かやっている。見ていると、床に敷いた木屑を、片っ端から掘り起こそうとしている。この前娘がきれいに敷き詰めた木屑はだから、すっかりぐしゃぐしゃ。そうして次に何をするのかと思いきや、砂風呂の中でひっくりかえって、ばたばた。ハムスターもずいぶん忙しいんだなぁと思いながら眺める。でも、ハムスターは夜行性だと聞いたのだが、ミルクの場合、うちに来てから朝方じつによく動いている。こんなものなのかなぁとちょっと不思議になる。

白薔薇のパスカリが小さく小さく蕾を開かせる。指先に収まりそうな、小さな小さな花だ。それでも、微風にゆらゆらゆれながら、咲いてくれている。うれしい。他にも蕾があちこちに四つほど。同じ樹に咲く花でも一つ一つ違う。その違いが楽しい。

昨夕、母に電話をする。つながらない。父にも電話をする。つながらない。おかしい。何度も電話してみるものの、どちらにも一向につながらない。
心配を重ねて待っていると、ようやく夜になって母から電話がくる。
「どうしたのー?」
「どうしたのって…今日、治療の日だったでしょ」
「うん、それで?」
「それで、って…あの、一応心配していたんですが」
「あぁ、もういつものことだから。何とかするしかないわよ」
「…そうだよね。はい」
頼もしいことで、母は何かこちらで心配していても、何とかするしかないという立ち位置で自分できちんと事を片付けてしまう。父は何とかするしかないなどと思うこともないのか、目の前にあることは当然片付けるもの、というような姿で、顔色ひとつ変えずに前進していく。こういうところ、何故私は受け継がなかったのかしら、などと、ちょっと思ってみる。迷っていても仕方がない、目の前にあることは避けるか突き進むかどちらかしかないのだから、と、さっさと割り切って行動してゆける力がもう少し備わればいいのにな、とわが身を振り返り思う。
短い話をし、まだ帰ってきたばかりだという母と電話を切る。
こんな遅くまで、どこをほっつき歩いていたのかしらん、と心の中で思ったが、まぁ子供じゃぁないんだから大丈夫でしょう、父もいることだし、と自分を納得させる。

そんな私の横で、娘は延々と漫画を読んでいる。何で同じ漫画を何度も何度も読めるのだろう、といつも不思議になるのだが、それでも彼女は繰り返し繰り返し読む。新しい漫画を私が買おうとしない、というのが理由の一つなのかもしれないが。まぁそれは置いといて。
ふと思い出したように、娘が言う。
「ねぇ、ママ、ママって胸大きかったの?」
「なんで?」
「健ちゃんが言ってた。昔パパも言ってた。ママは胸が大きかったって」
「そうだったっけ? もう忘れた。でもまぁちょっと大きかった」
「私もそうなりたーい」
「えー。胸あると邪魔だよ。おへそ見えないもん」
「え、そうなの?」
「走るときとかも邪魔だしね、いいことあんまりないよ。かわいいブラジャーも選べないし」
「えー、そうなの? それ、やだ」
「じゃぁ、適当な大きさの胸にしとくのがいいよ」
「ふぅーん、じゃぁかごめ(このとき彼女は犬夜叉を読んでいた…)なんかはブラかわいいのじゃないんだ」
「…知らない」
「ママ、いつからブラジャーしたの?生理はいつから?」
「小学校五年生の時」
「ふぅーん、そうなんだ。じゃぁ未海も?」
「未海もそうかもしれないね。ばばは中学生になってから来たって言ってたよ」
「違うんだー。へぇぇぇ」
「ママ、今、生理前だから、しんどい」
「生理前ってしんどくなるの?」
「なるよ。だるーくなるし、頭も痛くなるし、背中も痛くなるし。ママは生理痛、昔から重いんだ」
「そうなんだー・・・ふぅぅぅぅん」
最近、こんな会話を時々交わす。もう同級生の中には数人、生理が来ている子たちがいるらしい。娘ももうそろそろ、そういう知識を持っていてもいい頃だろうと思い、彼女が聞いてきたらできるだけ答えるようにしている。それでも私は不安になる。生理がくるということは、何かしらの危険も伴うということ。私が被害に遭ったように、娘にもそういう危険が増えるということ。それが、何より私に重くのしかかる。
大丈夫、大丈夫、何もなく過ごせることだってあるのだから、と自分で自分を諌める。しかし心配は、どろどろと私の中に巣食ってゆく。
でも。
そういうことにも、ぶつかってゆくしかないんだろうな、とも思う。結局、人生なんて体当たりのようなものなんだろうな、とも。

そうして今日。
ちょっと足をのばしてみようと思い、用事も兼ねて隣の隣の町まで自転車を飛ばす。心地よい陽射しに涼やかな風。自転車を力いっぱい漕いでいても少し汗ばむ程度だ。もう秋なのだなぁと、水色の空を見上げながら思う。

さぁ、明日はもう学校が始まる。
夏休みは今日までだ。
秋に為すべきことは、山積みになっている。
ひとつひとつ、残らずこなしていけたら、いい。


2009年08月26日(水) 
微々たるものだが給料が入る。少し、ほんの少しほっとする。同時に、郵便受けにはマンション更新の通知。現実は厳しい。

窓を開け放して寝ていると、布団が欲しくなるほど涼しくなってきた。まだ8月は終わっていないのに、こんなに涼しくていいのだろうか。首を傾げながら空を見上げる。今日は空の大半を雲が覆っている。風も微風で、薔薇の枝葉は静かに佇んでいる。

勉強しようと思っている物のテキストが届く。ぱらぱらとページをめくってみる。そこには、それまで自分だけでは至らなかったものたちがたくさん横たわっている。私はこのテキストから、どれだけのことを得ることができるんだろう。今からどきどきしている。

高校時代の友人、といっても、途中、断絶していた時期もあった友人なのだが、その友人といろいろ話をする。のびやかな午後。
友人は、再会したその時、ごめんねと言ったのだ。私はその言葉を多分忘れないだろう。そのくらい私にとって、彼女のその言葉は大きかった。
友人があれこれ日常のことを話してくれる。私もそれに相槌をうつ。
断絶していた時期、こんな時間が私たちに在り得るなんて、誰が想像しただろう。本当に、人との関係というのは不思議なものだ。
先日、その友人の娘たちと私たちとで、プリクラを撮りに行った。というのも、私が頼んだのだ。娘とのこの夏の思い出に、写真を撮っておきたいから、と。実は私は、プリクラなどというものは撮ったことがなく、存在は知っていてもそのやり方がわからない。友人の娘さんたちは、プリクラの撮り方も何も全部知ってるから、ぜひぜひお願いしますと頼んだのだ。
とりあえず、何とか撮った。しかし。あれは、恥ずかしいものだなとつくづく感じた。娘と友人の娘さんとはきゃあきゃあ言いながらカメラにポーズを取っていたが、私はとてもじゃないができない。その後も、シールに向かってあれこれ言葉をつけたり飾りをつけたりしていたが、私はとてもあんなことできそうにない。年代の違いなのかな、と、思わず苦笑い。
でも今、そうして何とかできあがったプリクラが、私のスケジュール帖にしっかり挟まっている。私と娘とが並んで写真に納まるなど、他にはない。貴重な小さな小さな写真たちだ。

今朝、娘の弁当を作りながら、あぁ、来月からは給食が始まるのだな、と思い出す。お弁当を作るのは面倒くさくて、毎日、本当に適当な、今よく見るキャラクター弁当なんていうものとは程遠いそっけない弁当を作り続けてきたけれど、娘は文句一つ言わずきちんと食べて返してくれた。残してきたのはたった一度、ブロッコリーが固くて食べられなかった、と残してきた、そのただ一度きりだ。
こうやって思い返してみると、ありがたいな、と思う。空になって戻ってくるお弁当箱が当たり前だったのではない。ちゃんと食べてくれる人がそこにいたから空っぽになって返ってきてたんだ。そこに思い至って、まだ眠っている娘に、小さくありがとうと言う。

この夏休み、タイピングを覚え始めた娘は時折、私が友人とスカイプなどで話をしていると乱入してくるときがある。タイピングを自分でできるようになったことがとてもうれしいらしい。私と彼女のタイピングは、微妙にその仕様が違っていて、もはや私が教えられることは殆どない。まだゆっくりゆっくりしか打てない彼女だけれども、今に私などより早く、たったかたったか打つようになるのだろう。卒論を、ワープロでしこしこ書いていた私の時代とは違うのだ。

そんな今日は、母のインターフェロン治療最後の日。今頃病院に父と母二人、向かっているはず。この年になって新車を買うなんて、と思ったが、二人にとってそれが楽しみなら、黙って見守っていよう。その車のおかげで、父は母を送迎できるのだし、二人して別荘に遊びに行ったりもできるのだ。二人がそうやって二人の時間を満喫してくれることは、私や弟にとって喜び以外の何物でもない。
半年後の結果は心配だけれども、とりあえず、今月を乗り切れば、インターフェロン治療の副作用の苦しみから、母は一旦解放される。
母がまた、着物を着る楽しみを得たり、日本刺繍を為す楽しみを得たり、庭仕事を地道に為す楽しみを得たりすることが、一日も早くやってきますように。

ふと思い巡らす。
今こうして穏やかに時間を味わっている私がいる一方で、何処かの誰かがきっと泣いている。
そうした陽と陰とが、常に背中合わせにある。
そのことを、忘れないで。忘れないで生きていたい。

今、雲間から陽光が真っ直ぐに降りてくる。並木道の銀杏の緑が、きらきらと揺れている。


2009年08月25日(火) 
朝夕のこの涼しさ。体が軽くなる。
でも、今年の夏の暑さは短かったのかもしれない。この部屋で暮すようになってだいぶ経つけれども、今年は思ったより過ごすのが楽だった。娘の汗疹も軽くて済んだ。

アメリカン・ブルーの脇のラベンダーは、すっかりアメリカン・ブルーに領地を奪われ、もう瀕死の状態。かといって今プランターをひっくり返すわけにもいかず。もうしばらく、涼しくなるまで頑張ってくれ、と、声をかける。
薔薇の中でも白と橙色の樹に蕾が二つ、三つ。白は確かに白なのだが、橙色の方は新しい苗のせいか、微妙に色が毎回違う。今回はどんな色を見せてくれるのだろう。少しどきどきしている。
ホワイト・クリスマスの葉の裏にこびりついた蟲たちを、一生懸命指でしごく。頼むからいなくなってくれ、と祈りながら。

我が家に新しい家族が増えた。
ミルクとココア。娘が命名した。ハムスターだ。
それぞれ、イエロージャンガリアンとサファイアブルージャンガリアンという種類らしい。どちらもメス。娘はもう嬉々として世話をしている。
ミルクの方は、あっという間に環境に馴れてくれたのか、気が向くと巣から出てきては遊んでいる。餌の食べ具合もぺろりだ。
一方、ココアの方はというと。これがもう臆病で臆病で。これでは病気になってしまうのではないかと思うほどに臆病で。餌はどうもそれなりに食べているらしいが、他は全く様子が分からない。
それにしても。ハムスターの寿命というのは短いのだな。知らなかった。たったの一年二年だとは。犬や猫、インコや鶉などしか育てたことのない私には、ペットショップの店員さんからそれを告げられた折にはびっくり仰天だった。

そんなこんなでばたばたした週末だったが、それにあわせたように、私の右顎が腫れ上がった。ばい菌が入ったらしい。痛みもひどいし腫れもひどい。そこだけぽっぽぽっぽと熱をもっているのが分かる。何をするのも億劫で、自分の顔を見るのが本当にいやだった。
抗生物質を呑み、痛み止めを呑み、結局歯を一本抜いて、今に至る。だいぶ腫れはひいたものの、それでも気になる。
顔がこんなにも、気持ちの大半を占めてしまうとは。普段、顔のことなど全くといっていいほど意識したことがなかったが。鏡を見、歪んだ自分の顔を見るたび、まるで自分全体が歪んでいるかのように思えてしまうのだ。つくづくいやになった。鏡などもう見たくない、でも、見てしまうというそのどうしようもない悪循環の中で、顔というものがどれだけ人を表しているのかを、改めて思い知った。
頼むから、早く腫れがすっかり引いてほしいものだ。

病院にいつものように行き、言われるのはいつも、薬の量があなたは多いのだということと、睡眠時間が短いということと、そして煙草。煙草はやめなさい、早く長く寝なさい、薬の量を減らしなさい、云々。もう聞き飽きた。
とある薬のことを持ち出して、これとこれ以外いりませんといったら、どうしてこれとこれの効用を知っているのだといわれる。知っているに決まってるじゃないか、自分が飲んでる薬について調べないわけがない、と心の中で吐き捨てる。この人は患者の何を見ようとしているのだろう。いつも不思議になる。
睡眠時間が前は二時間、三時間だった。それが今は三時間、四時間は必ず眠っている。前者の頃は、せめて三時間四時間は眠れるように、と言い続けていたくせに、後者になったらなったで、五、六時間は寝るのが当たり前だ、とくる。先生、あなた、言ってることがころころ変わってるんですが、と突っ込みたくなったがやめた。ばかばかしい。
煙草は人をいらいらさせるんですよ、早くやめなさい、落ち着かなくさせるものなんですよ、早くやめなさい。先生、分かりましたが、私は今のところ煙草をやめるつもりはありません。酒は呑みませんが、煙草は吸います。申し訳ございませんが。
来週、カウンセリングのとき、思いっきり言いまくってやろうかと思いながら、病院から帰宅する。あぁばかばかしい、病院に行っていらいらしているんじゃ意味がない、とつくづく思う。

小学校の連絡網が回ってくる。登校日には、必ず体温を計り連絡帳に記入のこと。インフルエンザの件でそうなったらしい。
そういえば、うちの娘も私も、風邪らしい風邪をひかず、長いこと過ごしている。娘を振り返りながら、元気有り余る子で本当に助かる、と、感謝する。そうでもなければ、片親業などやっていられない。

それにしても。
空はすっかり秋の気配だ。うろこ雲が広がる。そうして母のインターフェロンの治療も今週が最後だ。あとは。
あとは半年後の結果を待つばかり。
哀しい結果が出ませんように、と、今日もまた、私は空に祈る。


2009年08月20日(木) 
   「桃」


桃の皮を剥く
指でそっと摘んで

剥いて剥いて剥いて
楕円形の桃は裸になって現れる

皿の上

娘が汁を滴らせながら
頬張って、頬張って

その時

一滴
彼女の白いスカートに落ちた
薄桃色の汁
広がる
薄桃色の染み

気づかずに頬張り続けている娘の
スカートのその小さな小さな染みに
私は気をとられ、

気づけば空っぽの皿
桃 空っぽ
残ったのはその 微かな染み だけ


2009年08月19日(水) 
時々廊下の暗いところや玄関に蛇が出る。
蜘蛛だったりもする。
それが幻覚だということを、私はよく知っている。
知っているが、見た瞬間はどきりとする。どきりとして、直後、げんなりする。
またか、と思う。
洗濯物をしながら、そこにいる蛇や蜘蛛の気配を窺う。
早くいなくなってくれないものかと思いながら、同時に、これがずっとここにあったらどうしようと想像したりもする。

娘と映画を観に行っていつも感心させられるのは彼女の集中力だ。
じっと見ている。見つめている。退屈という言葉はそこには存在しないらしい。どんな場面であっても彼女はじっと見つめ、観察している。そして映画の後、矢継ぎ早にあれこれ感想を言ってくる。
私はといえば、面白くない映画だったりすると寝てしまう。昨日はたまたま体調がよく、ついでに映画はつまらなかったがそこに映る景色が美しかったので起きていられたが。
観た後、「うーん、これはどうなの」「みうは一箇所感動したよ」「どこよどこよ」「秘密」「秘密ってことはないでしょう、教えてよ」「だめー!」などと笑い転げる。

骨折が治ってから、彼女は走らなくなった。これまでリレーの選手でやってきたのに、今年もリレーの選手の選ばれていたのに、全くといっていいほど全力で走らなくなった。理由をきいても彼女にも答えがないらしい。でも走らない。走れない。
せめて自転車には馴れさせてやりたいと思い、機会をみつけては彼女と走る。しかし、前のような走り方はできない。しない。
昨日の夕刻、彼女と一緒に港町を走っていたが、ちょくちょく後ろを振り返らないと不安なくらい、彼女はゆっくりふらふらとしかまだ走れない。自転車は多少スピードをつけないと余計走りづらいということを忘れてしまったのだろうか。
骨折の痕は、こんなところにも残っている。

私は考えてみれば、盲腸もしたことなければ骨折もしたことがない。PTSDという病の他に、大病などというものは患ったことがない。
だからかもしれない、彼女の、骨折によって蒙ったものの大きさがいまひとつ分からない。それが悔しい。
あれほど乗り回していた自転車、あれほど走り回っていた足、それらが失われること。
それはどれほどに大きいことだろう。
失われたものは、時にとても大きく見える。彼女がその大きさに唇を噛んだりすることがなければいいと思う。できることならば。

アメリカン・ブルーがすくすく育つ横で、ラベンダーがちんまり枝を伸ばしている。まるで、アメリカン・ブルーに虐げられているかのような格好で、枝を伸ばす。あまりにそれが哀れで、私は毎日枝葉を撫でてみるのだが、彼はまだ、自分の居場所を得られないでいるようだ。
薔薇たちは新芽を次々出している。蕾もまた新たにつき始めた。まだ新苗だから大きな花は咲かないが、それでも咲こうとしてくれる小さな蕾に私はうっとりする。

今日は母のインターフェロンの日。
今日を含めあと二回でインターフェロンの治療は終わる。そして半年後、ウィルスが再生していなければ。治療は有効だったことになる。しかし。
もし再生したら? どうなる? 父はそのとき?
ひたすら母に付き添うあの企業戦士だった今の父の姿に、私はなんとも切ない思いを噛み締める。日に日に痩せていく父の、その姿など、一体誰に想像ができただろう。
母よりも多分、父の方が参っている。精神的にも多分、父より母の方がタフだ。死を迎えるのがもし母の方が早かったとしたら、父はそのとき一体どうなってしまうだろう。
もし父より母が後に残ったとしても、それは多分大丈夫だろう。しかし。
父は。
今頃車で二人は病院に向かっているはず。
曇り空を見上げながら、私は二人を想う。


2009年08月18日(火) 
朝五時に起きる。それはいつもの習慣。そこにこの夏休みは弁当作りが加わっている。
今時は非常に便利にできていて、冷凍食品が実に豊富だ。そのおかげで、私は手抜き弁当をしゃかしゃか作ることができている。
最近、岩のりのおにぎりのおいしさに目覚めたらしい娘は、今朝など、「鮭のおにぎりよりこっちの方がおいしい」などとのたまっていた。ついこの間までは、鮭のおにぎりが一番なんて言っていたくせに。そして最後の最後は、塩にぎりが食べたいなんて言い出すのだ。

塩も、藻塩のものが一番おいしいらしい。新潟に出掛けた折、その土地でふと見つけた塩。味見させてもらったらかなり濃い味の、粒の大きい塩だったが、「おにぎりに合うんですよ」とおばあちゃんがにっこり笑って紹介してくれた。それが印象的で思わず買ってきてしまった塩だった。
確かにおにぎりに使うとおいしい。塩の粒がしゃりんとしていて、舌にぴりっとくる塩味が絶品だ。
酒飲みの人にも人気があるらしい。

酒飲みといえば、私の友達には酒飲みが多い。ついでに、我が家に酒を置いていく人も多い。おかげで、私自身は晩酌などしないというのに、酒瓶が台所に何本か並んでいる。時々様子をうかがいにやってくる父は怪しんで「おまえが飲んでるんじゃないのか?!」とにらむような目つきで私を見やる。父よ、残念ながら娘は、一人酒はしないのだ。疑いの眼を向けないでおくれ。

先日プールに行った折、改めて気がついた。娘の右足の太もも裏には、まだギプスの痕が残っているということに。あぁ、こんな痕が残るほどギプスをしていたのだなぁと、しみじみ思った。そういえば、君がギプスをしていた折は、毎日毎日学校と塾との送り迎えで、本当に大変だった。
しかし、過ぎてみればそれもまた、いい思い出だ。そんなものなのだろう。

最近、娘がコンピューターで入力ができるようになった。そこで始めたのがラクーとかいうSNSで、畑を耕したり犬を育てたりできるところだ。娘が短いながらもそこで日記を書くというので私も参加してみることにした。彼女の日記にコメントを書いたり、私は私で彼女に向けた手紙を日記代わりに書いたりしている。普段言葉でやりとりするのを忘れていた事柄などが、そこに現れる。ちょうどいい伝言板のような感じだ。昨日は、畑で育てたにんじんを刈り取ってくれと娘に言われたのに忘れてしまい、娘も娘で私が育てたきゅうりを刈り取るのを忘れてしまいと、両方で頼まれたことを失念して、後で二人で笑った。

そんな娘が、時折手紙をくれる。その手紙に必ず、書いてあることがある。
「ママ、もっと笑って」
私はそんなに笑っていないのか?と、改めて自分を省みると、確かに、仕事以外ではあまり表情を崩さない自分に気がついた。仕事をしているときは、あれやこれやと表情を変えたりする必要があったりして、意識して笑顔でいるよう努めているが、いざ家でぼーっとしていると、笑顔なんて何処へやら、となってしまう。これでは娘から見たら、ママはいつも笑わないととられても仕方がないのかもしれない。
まだ英語でスマイルと書けない娘は、ローマ字で「sumairu」と書いてくる。最初それが何だか分からず、二度読み返して、あぁそういうことかと気がついた。娘に、「鈍い!」と怒られた。

お笑い番組を見て、すぐに反応してその場で笑える娘と、何がなんだかさっぱり分からないと遠い目をしている母と、よくもまぁこれで親子と思うが、しかし、何処かでこの構図、見たことあるなと思い返して気がついた。自分の家と同じだ、と。
父も母も、テレビをそもそも見なかったが、見たからといって笑うことは一切なかった。テレビを見て当時我が家で笑っていたのは弟だけだった。私は父母と弟の間で、どっちにいっていいのか途方に暮れていたものだった。結局、笑いというものが理解できないまま大人になり、この始末。
お笑い芸人になった方がいいんじゃないだろうかというような娘を持つ母としては、なんとも情けないが、まぁこれが私ということで。娘よ、赦せ。

そんなこんなで、我が家の夏休みも後半戦を迎えた。
あと少し。あと少ししたらまた退屈な学校生活が始まる。まぁ夏休みだって塾通いやら何やらで娘はいつもと変わらぬ生活といえばそうなのだが、それでも、二人でいる時間はいつもより長い。今日は何をしよう。
そういえば、昨日、本を四冊買った。
「チョコレート工場の秘密」「ホッツェンプロッツ(?)あらわる」「りかちゃん」「西の魔女が死んだ」。その四冊をこの後半戦で読んでごらん、ということで、娘に渡した。さて、何処まで読みきるだろうか。短くてもいいから読書感想文を書いてごらんと言ったが、どんなものが私の手元に届くのだろう。
今から楽しみでならない。


2009年08月14日(金) 
母の髪がますます薄くなっていく。
頬はこけ、脇腹の痛みにいつも身体を曲げている。
それでも、あと少しでこの治療が終わりになる、そのことが、彼女を支えている。
父はそんな母を見つめながら、毎日を過ごしている。
「半年後、ウィルスが見つからなければ・・・そうすればこの治療もかいがあったというものなのだが・・・」ぼそりとそう呟く。
私は、うんうん、と、うなずくしかできない。

多分娘と唯一といっていいような、夏の思い出の数日間。
それはまさしく言葉どおり、あっという間に過ぎてゆく。

久しぶりにカメラを構え、写真を撮る真夜中。
私は彼女の胸と腹の形がとても好きだ。
淡々と過ぎてゆくその時間。
あっという間に明け方になる。
カット数は二百を越えている。
撮ったはいいが、この後の処理が大変だ、と、ベッドに横になってから気づく。
それでも、久しぶりに撮ることができたことの至福が、私を満たす。

ホワイトクリスマスとマリリン・モンローがひとつずつ、つぼみをつけた。
ぷっくりと膨らんで、徐々に膨らんで、いつ開くのかと私をどきどきさせる。
玄関側のアメリカン・ブルーは、今日も小さな真っ青の花を咲かせてくれる。
夏の空に、とても似合いだ。

何年経っても、その業界の人にとって私は、版芸のにのみやなのだな、と
痛感させられる出来事があった。
私にとってはもはや過去のこと、戻りようのない過去のことなのに。
そして、
もう関係などない、過去のものなのに。

そうやって、一日一日が過ぎてゆく。
今日ももう日が暮れようとしている。その瞬間、一筋の光がさぁっとあたりを照らしだす。
曇った空の模様がくっきりと浮かび上がり、白いビル群は発光し。
一瞬の出来事。


2009年08月11日(火) 
   「啼」


鯨が啼いた

噴出した血飛沫で
夢は真っ紅

雲雀が啼いた

劈くその声で
夢は真っ二つ

葦が啼いた

囁くその葉音で
夢は木っ端微塵

そうして私は
脚の折れた椅子に
腰掛ける
途端に夢は、あっけなく終わり、

今、誰が見てた?

誰も見ていない
すべては夢だもの
誰も何も見ていない
だから何もなかった
誰も何も聴いていない
だから何もなかった

時の音だけが
唯一の 証人だった
言葉を持たぬその音だけが
唯一の証人だった

だから何もなかった
何も起きなかった
法廷に立つことのできない証人など
いないに等しくて、

世界はそうして
廻り続けてる


2009年08月09日(日) 
   「コガネムシ」


コガネムシ 今朝もまた一匹
廊下にころり

私はサンダルで踏み潰す

そこに何の感情ももはやなく

私はサンダルで踏み潰す

育てている薔薇の
根を食べたのはだぁれ
私の育てる薔薇の
根を食べるのはだぁれ

おまえでしょ

だから私は踏み潰す
靴底でくしゃりと乾いた音がする
それも一瞬
一瞬の後にはもう
潰れたコガネムシの死骸
生きた欠片はもう
風が何処かへ散らした

残るのは
私の靴底に
小さな痕
コガネムシの体液
ほんの一粒

私はその痕のついたサンダルで
歩き出す
昨日も今朝も多分
明日も

コガネムシ 今朝もまた一匹
廊下にころり

踏み潰すのに何の躊躇いもなく
もはや
これっぽっちの躊躇もなく

私は踏み潰す、その足で
私は今日もまた 歩いている


2009年08月08日(土) 
娘は最近、太ももの太さに悩んでいるそうだ。
母から電話がある。
そのことは、私もたびたび言われていた。どうして私の太ももはこんなに太いの、と。
だからそのたび、彼女に言った。
それは、ママに似たからだよ、ママもずっと太もも太かった、と。
すると彼女は言うのだ、ママは今太もも細いじゃん、太くないじゃん、と。
私は心の中で言う、太かったんだよ、今だって十分太いけど、と。

私もかつて悩んだ。さんざん悩んだ。思春期の頃。
どうして私はこんなに太いのだろう、どうして母はこんなにもスタイルがいいのに、私はこんなにも歪なんだろう、と。これでもかというほど悩んだ。悩んで涙したこともあった。そのくらい、真剣に悩んでいた。
そんなとき、母が、言ったのだ。
あんたは誰に似たんだろうね、まったく。私とは似ても似つかない、と。
その言葉が引き金になって、あまりにショックで、私は拒食症に陥った。一切食べないことで、どうにか自分の身体を矯正しようとした。実際それは叶った。とてつもなく細くなった。そして気づいたら、何も食べれなくなっていた。
そのあとやってきたのが、過食嘔吐の波だ。
真夜中、誰もいなくなった食堂で、私は大きなテーブルが埋まるほど食べ物を並べ、それを次から次へと口に押し込んだ。味なんてあったのかどうか、定かではない。でも、とにかく押し込んだ。そして。
トイレで吐いた。勢いよく。全てを吐く。吐いて吐いて、吐いて吐いて。
そうしないと気がすまなかった。
一日一回、が、やがて四六時中そうしたくなり。

気づけば、生理は止まり、歯はぼろぼろになり、体中、めちゃくちゃになっていた。
助けて、といいたくなったときにはもう遅かった。
助けてと言えない自分がいた。何に助けを求めればこの事態を収拾できるのか、もはや分からなかった。針金のように細くなった私の姿を見るに見かねた友人が、私を病院に連れて行った。そこで、視床下部等の異常を告げられる。不妊治療まで受けた。
でもその治療にはお金がかかった。私は夜のバイトを始めた。
生活が、どんどん崩れていった。
結局。
治療も途中で投げ出して、私は、全てを諦めた。

私はどうやっても母の気に入る子にはなれないのだ、と、そのことを痛感した。
この歪な、醜い身体は、もうどうしようもないのだ、と。
もう涙も出なかった。

いつも白い便器に嘔吐するとき、そこに母の顔が浮かんだ。
私は母に向かって嘔吐している、そのことが、とてつもない罪悪感となって私を襲っていた。
もう、それにも疲れ果てた。

家を出て、飛び出すように家を出て、過食嘔吐などは収まっていった。
PTSDを患って、再びその発作はやってくることになったのだが、それでも、
家を出ることで、私の発作は一時期おさまった。
それほど、私にとって大きかった。
家の存在が。父母という親の存在が。その親に否定されるばかりの娘という自分が。
とてつもなく、重かった。

話がずれてしまった。
今、娘は太ももが太いと悩んでいるらしい。私から見たら彼女の足は真っ直ぐで、うらやましいくらいなのだが。それでも彼女は悩んでいるらしい。

今夜、こっそり耳打ちしてやろう。
ママも太かったんだよ、あなたの二倍くらい太ももが太かったの、
でも、大人になれば、少し細くなるよ、今あなたが細いと言ってるママの足くらいには細くなるよ、だってあなたはママの娘なんだから。ママの血をひいてるんだから。ママの娘なんだから。

って。


2009年08月07日(金) 
   「金魚」


夏の或る日
金魚が水面に浮かぶ
水中で泳いでいたときよりも
黒い斑点がぼやけて見えるのは
気のせいなんだろうか

ビニールをかぶせた手で
掬い上げる
その瞬間
私の手に
死が

へばりついた

土に還すために
土に埋める
その作業を終えて
私は手を洗う、でも

洗っても洗っても
洗っても洗っても
洗い落とせない
死が私の手に
へばりついている

錯覚だと分かっている
それは錯覚だ、と分かっている
けれど

ここに在るんだ、死が
私の手に纏わりついて
離れないんだ、死が
どうしても、どうしても

長く生きてくれすぎて
名前さえ忘れた金魚の
亡霊が私の頭をよぎる
すやすや眠る娘の横で
私は亡霊を抱えたまま
じっと身体を丸める
死がこれ以上拡がらないように
死がこれ以上散り散りにならないように

せめて私の手の中で
じっとしているように


2009年08月06日(木) 
薔薇の、マリリン・モンローを思いっきり切り詰めて二週間。
新芽がわらわらと現れだした。今、萌黄色の葉がさわさわと風に揺れている。
思い切って切り詰めてみてよかったのだな、とほっとする。

薔薇だけじゃない、人にもそれはいえる。
時に、思い切って削ぎ落とすことが必要なことがある。
これでもかというほど削ぎ落とした先に、花開くものがあったりする。

削ぎ落とすときは痛い。痛くないわけがない。本当なら削ぎ落としたくなんてないものばかりだったりするのだから、たいていの場合。しかし。
それを痛みとともに引き剥がし、削ぎ落として、ようやく、見えてくるものがあるのだ。
不思議と。



最近、悪夢とまではいかない、中途半端な夢を見る。
昨日は、過去深く交わった人が夢に何度も出てきた。苦い味が口いっぱいにひろがり、それで目が覚めた。真夜中。
懐かしいとか、本来なら、そういう言葉で表現されるべき対象の人なのかもしれない。
でも、今の私には、苦い。
どんな過去の人も、今は苦い。
過去だから。もう変えようがないから。
懐かしめるほど、私はまだ年をとっていなくて、そのときの、途切れてしまうしかなかった縁の苦い味ばかりが思い出されるから。
忘れることは、できない。
だから、思い出したくない。
今は。

いろいろな人との縁があった。
一方的に断ち切られた縁のいくつかも、まだこの私の手の中に残っている。
私はこれを何処まで持ち続けていくのだろう。
分からない。
でも。
一方的に消えた命たちの、あの散り散りに飛び散った血飛沫の、有様を私は覚えていて、だから、私は私から緒を手放すことができない。
もしかしたら、一生抱いていくのかもしれない。それは重いのか?
いや、重くはない。
ただ切ないだけで。
でも、そのせつなさくらいなら、私はもう、耐えられるくらいになっている。
だから、多分、持ち続けるのだろう、この先も。
命につながる緒を。この縁を。その先がもはや切れて風に飛ばされているだけだったとしても。

海から風が流れてくる。
曇り空の下、風は街中に広がり。
私の髪を揺らし、薔薇の枝を揺らし、
さぁ、もっともっと、広がれ、風よ。
天まで、届け。


2009年08月04日(火) 
私の前髪はいつも短い。
おでこの狭い私は、何度か前髪を伸ばしかけて、顎のあたりまで頑張ってみたこともあったが、結局「邪魔ダ!」となって切ってしまう。
今日も前髪を切ってみた。しゃっきり真っ直ぐ切ってみた。
結構これだけで、背筋がしゃきんと伸びるもの。

このところちょっと憂鬱なことが重なっていた。
そういうときは、この、「前髪切り」は結構役に立つ。
自分の気持ちをしゃっきりさせ直すのに、力を貸してくれる。

昔、まだパニック発作が酷かった頃。
長い髪をばっさばっさと切ってしまったことがあった。
ざんばら髪になった後、発作がおさまって、鏡の前でぎょっとしたのを覚えている。

昔も昔、まだ事件に遭って間もないロサンジェルスに逃避していた頃のこと。
解離が酷く、毎夜のように裸足で部屋を飛び出していたそうだ。
そして、ある時は「海へ行かなくちゃ」と闇雲に駆け出し、
ある時は、「もう逝かなくちゃ」と刃を自分に向けて足掻いていたという。

今、そういうことは数える程しかない。
薬のお陰なのか何なのか分からないが、調子がよければ街中で多少の時間を独りで過ごしても大丈夫になってきた。
最近は、朝時間があれば、決まった喫茶店に行って、余力があれば本を読む。なければノートを前にぼんやり過ごす。一時間でも三十分でもそういう時間があれば、その日は少しの余裕を持って一日を過ごすことができる。

この数ヶ月、自分の持っている耳の役目について時折考える。
私の耳はどんな役目を負ってここについているのだろう、と。
この耳は運がいいことに、ちゃんと鼓膜が震え、誰かの声や自分の声を聞き取ることができる。
そんな貴重なものを持っている自分は、何ができるんだろう。
この耳は、何にこそ生かせるのだろう。
そんなことを、つらつらと考えている。



清宮先生と奥様との書簡をタイプしていて、先生が奥様に万年筆を贈ったくだりがある。
奥様はそれまで、もうぼろぼろになった万年筆で先生に手紙を書いていた。
貧乏な先生もまた、ぼろぼろな万年筆で奥様に手紙を書いていた。
ある時奥様が先生に、「いつもあなたと一緒にいられるもの」として万年筆を贈ろうとしたところを、先生が、そういうお金は病気を患っているお母様と奥様との生活にこそ使ってほしいといい、その代わり手作りの枕を自分に贈ってほしいと言う。
そして、結婚前、先生の方が、奥様に真新しい万年筆をプレゼントする。
新しい万年筆で書かれた最初の手紙には、奥様の感謝の気持ちが溢れんばかりに綴られていた。

奥様は、その後、手作りの枕を先生に贈ったのだろうか。
書簡はそこまで残っていない。
先生が、書斎の机の中、大切にとっておいた二人の書簡は、結婚直後で終わっている。

万年筆。私も、コンピューターなぞ全くもっていじろうとしなかった、万年筆で一生過ごすんだと言い張っていた時代があった。
万年筆のあの独特の書き心地が、たまらなく好きだった。
ブルーブラックのインクを好んで使い、いつだって肌身離さず持っていた。
今、私は、万年筆の代わりに常にボールペンを持っている。
どんな状況で書いても滲まないボールペンのインク。ちょっと味気ない気はするが、咄嗟に手に書こう紙に書こうというとき、迷わなくて済む。
ただ。
先生と奥様の手紙の束を広げると、このインクにしかあらわせない感情の起伏があったなぁと、懐かしく思う。

先生の手は木版を作り出した。奥様の手は先生を支え続けた。

私の手は?
私の耳は?
私の声は?

タイプを続けながら、そんなことを考え巡らしている。


2009年08月03日(月) 
ニキ・ド・サンファルの美術館と宇都宮でやってる白樺派の展覧会などを見てきた。
ニキ・ド・サンファルを知らなかった。ただなんとなく
今月で閉館してしまう美術館なら、今のうちに、という程度の気持ちで行ってみた。

射撃絵画には、頭をがつんとやられた気がした。
正直、私は現代芸術なるものを理解出来ない。
あまりに奇抜すぎて、ついていけないものがあったりする。何をどう感じればいいのか、戸惑う。
だからあまり見ない。
でもこの射撃絵画には、私の中にある何かに共通するものがあり、だから、がつんとやられた。

色とりどりの、書簡にも、目を奪われた。
最近、書簡についていろいろ思いをめぐらせていたからだろう。

白樺派は、自分が卒論で扱ったテーマに近いものがあったので、見に行った。

雨がそぼふる、日。

美術館はとても静かで。子供たちの幾人かが、鉛筆を持って、メモをとりながら美術館を回っていたのが目に付いた。後ろからこっそり覗き込んで、何をメモしているのだろうとうかがったりした。こういう風景が今の日本にはあるのか、と思ったら、ちょっと嬉しくなった。

ここでも、私の目は、書簡に向いてしまった。
よほど書簡や対談に、私は今、気をとられているらしい。



少しずつ少しずつでいい。
余計なものを削ぎ落として
シンプルに生きていきたい。
私が私として為せることなど
たかが知れている。
だからこそ、
シンプルに生きていきたい。
今改めて、そう思う。



帰りの新幹線の中、叫び続ける女の人がいた。
叫びながら、便器に吐いていた。
何がそんなに彼女を苦しめているのか。
彼女を爆発させているのか。
私は知らないけれど。
多分こんなふうに、助けの手さえ拒絶して、振り払って
叫び続け、吐き続け、もんどりうっていた時期が、私にもあったと、
そんなことを思った。

疲れ果て、眠る中、夢をいくつも見た。
そして迎えた朝。
空は一面雲に覆われ。

今日もまた、一日が始まる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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