2009年07月25日(土) |
今日清宮先生宅へこれから行く。 お借りしていた奥様の日記をお返しにあがる。それと一緒に、この十一年かかってようやく最終原稿にまで仕上げたものをお渡しにあがる。
十一年。長いのか短いのか。 私には今よく分からない。
あの頃の私には、それしかなかった。版芸を半ばやめさせられるような形でやめて、すがるものが何もなかった。自分自身にも何もなかった。あったのは、ただ、被害に遭って壊れた自分だけだった。 あの頃何故あんな力が出たのか知らない。でも私は、あの状況の中で、対談集を形にし始めたのだった。 何もなかったから、他に何もなかったから、私はすがったのかもしれない。必死になって死に物狂いでそれを形にしなければと。それしか、自分の存在意義は残されていない、と。
本当は。 自分が最後まで形にして世に送り出したかった。 でも今もうそれは遅い。清宮先生の書籍がそう遠くない将来形になって世に出ることになっている。 それを知ったとき、少しショックだった。自分がそうできないことは半ば承知していたけれども、それでも、とどこか思っていたのだろう。でも。 今はただ哀しいような気持ちしかない。悔いは、ない。 これでよかった、仕方なかった、と思う。私はこうするしか、生き延びる術がなかったのだから。生きていてなんぼだ。生きていなければ何もできない。 あの頃の私だったら。泣き喚いたことだろう。自殺行為もしていたかもしれない。 でも今は違う。 生きていることに感謝する。生きているのだから私はまた何かやるのだろうと思う。 これはこれ、それはそれ。それぞれおのずと行き着く場所があるようになっているんだ。
昨日はいい時間をすごした。とてもいい時間だった。二人の友人と会い、それぞれにそれぞれ話をした。あっという間の時間だった。そういう時間を与えてくれた友人の存在に、感謝する。
今私にできることは何だろう。 最近私はそれをよく自問する。 自問しながら、今は、「あの場所から」の写真と、対談集の仕上げと、を、並行して為している。 同時に、学びたいものもでてきた。
隣を見れば、いつでも今娘がいる。娘は生きることを当たり前に為している。その姿は眩い。眩く、そして、美しい。
私のこの十一年近くを振り返り、思い出せることの少なさに愕然としたりもする。こんなにも記憶は欠落するものなのか、と、呆然としたりもする。 でも、工藤先生が言っていたっけ、忘れるということは人間に与えられた恩恵だと。かつてそれを言われたときは、反発した。何故そんなことを言うんだと先生を半ば責めた。赦せなかったのだ、忘れるという行為を。赦しがたかったのだ、そんな行為がありえるということが。 でも今なら、そうだなと思う。 罪かもしれないけれども、忘れるという行為がなければ、こんな何十年もの人生、生きていくことなんてできやしないと思う。何もかもを覚えて、背負って歩いていくなんて、とても無理だと、今なら分かる。忘れるという術が、生きるということを支えている一片なのだと、今なら分かる。
波は何度でも寄せて引いて、引いて寄せて。 それと同じように私も寄せて引いて、引いて寄せて。 日が昇るように私も昇り、月が沈むように私も沈み。 そうやっていずれ、行き着くところにおのずと行き着くのだろう。 何もあせることはない。 何度だってスタートは切れる。 自分がそう思えば、ここがスタートだ。はじめの一歩だ。
対談集は結局、世に出ることはない。深沢先生と清宮先生のあの話は貴重な貴重な賜物だけれど、その断片だけが取り上げられるだけで、すべては届くことはない。 でも。 せめて、奥様には届けたい。先生の思い出のひとつとして。 いずれ、もらいうけた先生と奥様の書簡集も、形にできたらいい。世に出る出ないなんて関係ないのだ、もはや。 かつての私はそこにこだわっていたんだろう。本を作る、それを世に出す、ということを、何より夢にしていた自分は。 でも今は。 奥様にお届けするだけで十分なのだと思う。
さぁそろそろ奥様のところにでかけよう。ここからもう十数分歩けば行き着く。 日差しは容赦なく照りつけ、あたりのエネルギーを奪っていくけれど。 それで死ぬわけでもあるまいし。笑 憎たらしいから、空を時折見上げながら歩こうか。 |
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