見つめる日々

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2009年02月27日(金) 
朝、友人と話していて改めて気づく。
そうだ、私たちは、
今生きていることが不思議なくらい傷ついて
それでも今こうして存在しているのだ、ということに。
それを否定しなくてもいいのだということに。

私は、自分が傷ついていることが罪のように思えることがある。

でも。
もし自分以外の誰かが同じことを言ったら、私は何というだろう。
私は間違いなく、そんなことはない、と言うだろう。そして、
相手に話し続けるんだろう。
どうして罪なことがあるものか、と。
傷ついていて当たり前なのだ、と。
むしろ
今生き残っていることを誇りに思ってよいのだ、と。

私はそれを、私自身に言うことができないだけだった。

いやもちろん、時々は言える。
時々は、生き残ってるだけで十分だし、私は私を恥じる必要なんてないし、むしろ誇りに思ってよいのだと自分に言い聞かせることはできる。そうして深呼吸することもできる。
でもまだ、あの件では、それができない。
それだけのことだ。

私はあの事件の日のことを、映像で覚えている。音声や痛みが欠落したままの、映像だ。朝話をした友人は、ある日その痛みを思い出してしまったのだという。
解離したままでいることの方が楽なのか、思い出してしまう方が次にすすめるのか、どちらなんだろう。
…どちらであっても。
私たちはそれらを、その都度それぞれに受け容れながら、それぞれに歩いていくしかないんだろう。

再び雨の降り出した空を見上げながら思う。
PTSD。それらがもっと、この世の中で受け容れられていきますように。
私たちのような人たちが、もっと生き易い世の中に、なっていきますように。


2009年02月26日(木) 
 朝からずっと雲は切れない。いつ雨が降り出してもおかしくない空模様。
 娘が学校へ行っている間、少し横になる。途切れ途切れに夢を見る。

 今何かを書き出そうとすると、すべて過去のことになる。過去のことに触れなければならなくなる。私はそれが、どうもいやらしい。
 何がいやなのか。振り返ってそれを吐き出すことはいい、でも、それを他人の眼に触れるところで為してその他人を不快にさせるのがいやなのだ。それが今日はっきり分かった。
 それならば書かなければいい。でも書きたい。書いてもう自分の中でも過去の過去として埋葬の儀式をしたい。
 一体どちらなんだろう。それがまだ分からない。

 少し前、仕事をやめたのはもったいなかったということを言われた。本当にそうだと思う。しかし。あの仕事を続けていたら、今の私はなかった。いや、そもそも、私が今ここに生きていられたかどうか、はなはだ疑問だ。そのくらい私は追い詰まっていた。追い詰められていた。生き延びることができなかった。
 だから辞めてよかったのだろう。と思いたい。しかし、私の中には後悔がまだまだ残っているのだ。どうして辞めたのか、と。もっとしがみつけばよかったのではないか、と。当時の私を知る人は、あの仕事を辞めてよかったのだと誰もが言ってくれる。しかし、私自身はまだ納得できないでいるのだ。どうして、と。どうして私が、と。加害者たちが残り私が辞めた、その構図が、許せないのだ。今もまだ。
 性犯罪被害によるPTSDの怖さを、改めて感じる。

 あの後も、せめて編集の仕事からは離れたくないと思い、幾つかの編集部を渡り歩いた。しかし、性犯罪被害による爪痕は思った以上に深く、私を苛んだ。いい加減休みなさいと主治医に何度言われたことか。それでも、私は休むことができなかった。一度歩みを止めたらもう二度と立ち上がれないのではないかと思えたからだ。
 けれど結局、私はそうした仕事も辞めることになる。そうして私は、世界の表舞台から、逃げるようにして離れることになる。

 気づけば、世界と隔絶されていた。そうした場所に私は、一体何年いただろう。はっきりとそれを数えられないし、覚えてもいない。気づけば世界と隔絶された場所にいて、私はただ、そこに倒れこんでいた。そうとしか、いいようがない。
 手首を切り裂く毎日が続いた。流れ出す血を確かめなければ自分が生きていることを確かめられなかった。それさえだんだんと麻痺していく中、私はもう、生きていることが分からなくなっていた。
 ある人が私をそれでも抱きとめて引きとめようとしてくれたとき、私は切腹を試みた。今考えれば恐ろしいことだ。身勝手極まりない。けれどそうでもしなければ、当時私は、そこに存在していることも、同時に存在を消すこともできなかった。
 そんなふうにして私はどんどん、世界から隔絶され、果てはその緒を見失い、まさにその言葉通り真っ暗な闇の只中に浮遊していた。

 今、私のそばには娘がおり、写真がある。
 この二つが、この道程を経て、私に残ったものだ。
 長かった。長い長い道程だった。気づけば15年という年月が流れ、いや、もっと正確に言うならば、38年という年月が流れていた。
 父母による精神的虐待から始まり、DV、輪姦、強姦、挙げだすときりがない。そうした出来事が、私の人生を彩っている。
 それでも今、私のそばには娘がおり、写真がある。たったそれしか残らなかったのかと言われるかもしれないが、あの苦渋の日々を省みればそれだけでもう十分すぎるほどの贈り物だ。そして何より。
 何より今、私のそばには人がいる。友がいる。

 この道程で失ってきた友の数を数えだしたらきりがない。言葉通り墓標となってしまった数もきりがない。
 それでも今、こうして、人に囲まれていること。それは、どれほど感謝してもきりがないだろう。

 そう、感謝しつつ、私は、唇を噛むのだ。
 どうしてあの時あの仕事を手放したのか、と。私の夢は、本を作ること、本という媒体を通して世界のいろいろな人たちに何かを伝えることだった。幼い頃からのそれが夢だった。その夢を私は。
 いたしかたがないと、私の周囲は言ってくれる。それでも。
 それでも私は私を許すことができないのだ。どんな理由があれ、自分の夢を手放したことを。様々な人を傷つけながらもしがみついていたくせに、結局最後手放したあの夢と自分のことを。

 同時に、今ここに自分が存在できるのは、あの職を手放したからだということも知っている。そのことに、繰り返しになるが、私は心から感謝している。

 この矛盾を、私が丸ごと受け容れられるようになるには、まだもう少し、時間がかかる。今はまだ、その許容量が足りない。まだ、私は受け容れることができない。

 もうじき個展だ。この個展の作品たちでモデルになってくれたのは同じ性犯罪被害者の友人たちだ。私は心から感謝している。彼女らがそんなことを厭わずモデルとなり、自分を晒してくれたそのことを、祈りたいほどに感謝している。
 だから、私は少し緊張している。
 彼女らの心を無駄にしないくらいに私はちゃんと作品を仕上げることができただろうか、と。そのことが今、何より気がかりだ。
 作品展が始まったら、私は彼女らに改めてありがとうを伝えたいと思う。あなたたちがいたからあの写真を撮ることができたのだ、と。

 つらつら続いた夢から覚めて、私はそろそろと日常に戻ってゆく。
 窓の外、今にも雨降り出しそうな雲が一面を覆っている。


2009年02月23日(月) 
雨が降る。雨は降る。しとしとと。しとしとと。

九年前の今日は、肌がつっぱるほど晴れていた。土曜日破水したのではないかという不安を抱えての月曜日の診察だった。土曜日には出なかった反応が出、私は即入院。入院が決まった途端、不思議なことに陣痛がやってきた。朝食も昼食も摂れていないまま私は陣痛にうなされた。水を飲んでもすべてベッドの上に吐き出した。痛くてカーテンに抱きついたら助産婦に怒られた。痛みにうなされながら、私はおかしなことを考えていた。
あぁこれが正常な痛みというものなのだな、と。半ば感動していた。
いくらリストカットを繰り返しても感じられなかった痛みがそこにはあった。切腹しようと試みたとき以上の圧迫がそこにはあった。
私の腹はパンパンに膨れ、悲鳴を上げていた。あぁこれが、本来の痛みというものだったと、私はつくづく思った。
そうして20時16分、彼女は産まれた。
娘よ、あなたは知らないだろう。私がどんな思いであなたをこの世に産み出したかなぞ。あのときどれほどの希望を私が得たかなぞ。そう、あなたはそんなこと、知る必要はない。ただ、懸命に今を生きればいい。今を精一杯味わい呼吸すれば、それで良い。
最近時折、街を往く家族連れとすれ違いざまに一抹の寂しさを覚えるようになった。私に父親はいたが、幼い頃不在であった。一方娘に今父親は不在だ。私たちの記憶の中に、ああした姿は共に不在なのかと、それが少し寂しい。
願わくば、おまえが無事に嫁ぎ、別れることなく誰かと共に在ってくれたら…などと、要らぬことを思い描いたりする私がいる。
でも。
今はそんなこと、まさしく余計なことだろう。
そう、今はただ言おう。
誕生日おめでとう。今年は一桁最後の年だよ。精一杯生きろ。
と。

雨が、止みかけている。


2009年02月19日(木) 
 朝一番に開けた窓の外を見つめるでもなく眺めている。あぁ夜明けがこんなにも早くなった。東から伸びてくる陽光があの窓にこんなに早く届くようになった。徐々に徐々に白くなってゆく光を、ただ私は今眺めている。
 ひらり、はらり。最近その音を聴くことが多い。ひらり、はらり。衣がまた削げ落ちてゆく。そういう音だ。
 父母との間のしこりはなくなったわけではない。でもかつてのようにありありとそこに在るわけでもない。その境をしこりを、こっそり越えて向こう側を見る術も、それなりに身につけた。だから、その瞬間逆流した血流も、すぐ元の流れに戻るようになった。
 これは多分に娘の影響が大きい。
 娘は間違いなく私が産んだ子供だ。私が腹を痛め、この世に産み出した子供だ。子供のちょっとした癖の中に、かつての自分を垣間見ることが多々ある。しかし。
 大きく違うのだ。
 私は父母に叱られるとまず唇を噛んだ。そして泣いた。ほろほろと大粒の涙をこぼして泣いた。しかしそれは悲しいからではなく、悔しいからだった。ごめんなさいと言うのは、とことんのところへ言ってからじゃなければ言わなかった。
 けれど娘は、いともあっさりとごめんなさいと言う。あっさりとありがとうと言う。それはどうしてこうもあっさり言えるのかと思うほどだ。
 けれど、彼女の言葉や声を通して、改めて、その二言がどれほど美しい言葉なのかを私は思い知っている。
 娘が使うありがとうやごめんなさいの言葉を繰り返し聴きながら、私は学んでいる。そして気づけば、ありがとうやごめんなさいを自然に使っている自分を見出す。
 子供に教えられるとは、まさにこういうことなのかもしれない。

 一方で、そんなあっさりと残酷な言葉を吐いていいのか娘よ、と呆気にとられることも多々ある。そんなにクールでどうするよ娘と思うことも多々ある。と同時に、それがどれほど己に忠実な言葉であるのかを彼女の表情から読み取らされる。そして私は逆に突きつけられるのだ。自分がどれだけさまざまなしがらみにこだわっているのかを。そして、はて、と首を傾げるのだ。自分は一体何を生きているのだったっけ、と。
 私は私でしかない。私は私以外の何者でもない。私は私の一生を全うするしか術がない。ひっくりかえせば、私を生きられるのは私以外の何者でもない。
 ならば。
 もっと潔くあれ。と、私の中の私がぼそっと呟く。
 もっと簡潔であれ。もっと明快であれ。私の隣で笑う娘の中の私が呟く。
 纏わりつくしがらみは、多分私が世界と関わっている以上なくなることはない。でもそれに塗れてしまうくらいなら、はじめから自分を生きようとなんて思うな、と。
 そして聴くのだ。ひらり、はらり、はらり、ひらり。また一枚落ちてゆく衣の音を。ひらりはらり、ひらりはらり。私の皮がまた、一枚剥けてゆく。要らない荷物を、またひとつ道端に置いて、私はさらに今をゆく。
 もっと簡潔であれ。もっと明快であれ。そう、
 もっと潔くあれ。

 気づけば窓一面、明るくなっている。今日も多分、りんりんと晴れるのだろう。いっとき目を閉じ耳を澄ますと、震えるような空気の音が聴こえる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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