見つめる日々

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2009年01月28日(水) 27日
 寒い。でも、これが本当に寒いのかそれとも暖かいのか、よく分からない。あのときはどうだったろう。冬のコートをちゃんと着ていたのだろうか。覚えていない。はっきりと覚えているのは今ではもう、黒のワンピースだけだ。
 今ベランダでは薔薇の苗たちとラナンキュラス、イフェイオン、ムスカリ、水仙が、それぞれに枝葉を伸ばしている。薔薇の苗はちょっと水をやりすぎたせいで早速うどんこ病になった。仕方なく病気の葉を全部摘む。ほとんど丸裸になった樹は寒そうで、でも凛として、立っている。見つめているとそれは不思議な光景だ。この寒さの中、背を丸めることもなくまっすぐに立っているその姿は。

 娘が起き抜けに言う。いい夢を見たよ。どんな夢? 赤ちゃんの夢。赤ちゃんの? うん。あなたが赤ちゃんなの? 違う、赤ちゃんができる夢? え、あなたに赤ちゃんができるの? 違う違う、ママに赤ちゃんができる夢。
 もう赤ん坊を孕むような年頃ではない私なのに、娘はそれをいい夢だと言う。そしてうきうきと朝の支度を始める。
 そういえば、娘を孕んだ頃、私はまだパニックや自傷行為の嵐のまっただ中にいた。幾つ目かに勤めた会社からも逃げだし、部屋に閉じこもり、毎日過去を見つめていた。そんなただ中で私は、娘を孕んだのだった。
 誰もが反対した。誰もが産むことを反対した。産むと言い張ったのは私だけだった。それまで服用していた薬を一切断ち、様々な不安を抱えながら、それでも私は産むと言い張った。
 不安は山ほどあった。妊娠したのではないかと思われる頃にも様々な薬を服用していた私は、まず、副作用の不安を抱いた。同時に、私のような罪深い人間が命を孕んでいいのだろうかと不安になった。機能不全家族に育った自分に子育てができるのかも不安だった。要するに、何もかもが不安だった。
 襲ってくるのは、パニックやフラッシュバックだけじゃなくなった。つわりや貧血も頻繁になった。切迫流産で早々に入院し、そこでは自傷行為の傷痕を看護婦から責められ、さらに自己嫌悪に陥った。
 転院、子宮頸管無力症、四六時中の絶対安静、早期流産の危険、貧血、嘔吐、数えだしたらきりがないほど、妊娠期間中は不安だらけだった。しかもその時期、私の心療内科の主治医は留守だった。唯一頼りになるはずの主治医もいない、味方は誰もいない。日々パニックに陥った。一日が一日ではなかった。延々と続いていく地獄のような時間の帯だった。
 そしてようやく出産。しかし出産後、すぐ、私は体を壊し倒れる。子育てをまともにできない自分を呪った。毎日泣いた。しかし。
 泣いても泣いても、娘は笑っていた。私がいくら荒れても、娘はすやすやと眠り、すくすくと育った。私が、自分にはやはり子育てなどできないのではないかとおののいている最中にも、彼女は育っていった。
 正直に言えば、彼女が三歳になる頃まで、私は頻繁にリストカットを繰り返した。娘に見つからないようにしながらも、それでも私は自分を責めることをやめなかった。自分を貶めて、追い込んで、傷つけることをやめることができなかった。
 彼女は言葉が遅かった。私はそのことをとても気に病んだ。やはり私には無理だったのではないかと、今更の後悔に何度も襲われた。
 でもやはりここでも、娘は自ずと育っていた。ある日突然、三歳になってまもなく、彼女は唐突にしゃべり出した。単語をつなぎつなぎ、私にアピールした。そしてある日、彼女は、私の左腕の赤々とした傷口を撫でて言ったのだ。ママ、痛い?
 あのときの、彼女が私を見つめる丸い丸い目を、私は、生涯忘れることはないだろう。まっすぐに、澄み切った、あの瞳。
 それから少しずつ、私は自傷行為から離れていった。その日からきっぱりやめることができたわけじゃない。何度も揺り返しは来た。けれど。
 彼女の存在は大きかった。

 今現在、私には過食嘔吐という自傷行為が残っているが、ODからもリストカットからも離れている。衝動に襲われはするが、それを納める術を何となく身につけた。そして。
 そして娘は、いつのまにか九歳になろうとしている。
 私の病の回復の過程には、これからも娘がぴったりと付き添っているだろう。私が死ぬ間際に省みた時には、その存在はきっと太陽のように眩しく輝いているに違いない。
 いまだに、ACの虐待連鎖はちまたで囁かれている。しかし、そうではない例もあり得るのだと、私は身をもって知っている。そうである限り、私は何度でも人生やり直しがきくことを信じていける。
 きっかけは人それぞれ、様々なんだろう。また、それに気づけるか気づけないかもある。気づけたなら、そこからまた道を修正し、歩いていけばいい。修正は恥でも何でもないのだから。

 窓の外、あふれる光。その下で凛と立つ薔薇の樹。私はこの樹のように人生に対し立っていたい。
 りんりんりん。
 りんりんりん。
 光降り注ぐ。
 両手広げてもあふれるほどの
 光が、今、ほら。


2009年01月27日(火) 十五年
 この一年間のことをどう振り返ったらいいのだろう。まだよく分からない。
 主治医がいなくなって数年、私は主治医の言葉を信じ、ただ待っていた。必ず戻るからそれまで待っていてという主治医の言葉を、私はただ信じ、待っていた。しかし、主治医は戻ることはなかった。そこには様々な事情が絡んでいたのだろう。けれど、私は主治医の言葉を信じすぎたが故に、その事情を鑑みるなどできる余裕はなかった。次々に変わる担当医。そしてもうこの先生しか残っている人はいないとなったとき、待合室の壁に一枚の小さな紙が貼られる。S先生は事情により戻ることができなくなりました。と。そしてそこには合わせて、先生の行き先も書いてあった。しかし、私にはとうてい、通うことのかなわない距離の病院だった。
 以来私は、医者というものを信じなくなった。信じられなくなった。またどうせ、という気持ちが生じてしまう。それでも、と何度も自分を叱咤する。一時は、ここから私は新たにやっていくのだと自分を納得させたこともあった。しかし。
 新しい担当医の方針は明白で、日々の悩みや躓きについてはカウンセラーと話をし、医者とは体調や薬の話少々のみ、というスタンスであった。私はそうした方法に慣れていない。慣れなくては仕方がないと分かっていても、体が拒絶する。なんとか自分を納得させかけたのも束の間、今再び、どうしても、この三分間診療の現状を受け容れられない状態で毎週病院に通っている。
 しかし、治療をしていくために、私の状況を話さなければならない。知って貰わなければならない。私は、現時点からでいいと最初思っていた。それが、カウンセラーが尋ねてくるのだ。これまでどんなことがありましたか、あなたはそれについてどう感じてここまできましたか、などなど。
 ようやっと、長い時間をかけて、自分なりに受け容れ始めた矢先のこの質問に、私は愕然とした。ここにきてまた、掘り下げる作業を再び私に為せというのか。あの掘り下げ作業に伴う痛みを再び味わえというのか。
 そんなの、いやだ。今はまだできない。そんな冷静にすべてを話せるなら、病院なんか必要ない状況に私は今いるだろう。私に無理に話をさせる前に、どうしてカルテを見通してくれないのか、とさえ思う。カルテを見ればすべてが分かるではないか、と。私が長い時間をかけて提出してきた書面が山のように、カルテには挟まれているのだから。
 そんなこんなで今日を迎える。これからどうやって、治療をすすめたらいいのか、私には今見えない。
 でも多分。多分私はやっていける。医師やカウンセラーとの関係が今のところうまく築くことができていないけれども、私は私なりに、うまくやっていける。私が自分を進ませようとする意志を失わない限り大丈夫だ。生き延びようとする意志を失わなければ、きっと。

 酷い発作は数えるほどしかなかった。不眠、偏頭痛、吐き気、過食嘔吐、離人症状、フラッシュバック、極度の緊張が続いての体の痛み、その程度の間を、私は行ったり来たりしていた。
 長い時間を省みてみれば、今年はずいぶん楽になったんだと思う。自傷行為は、過食嘔吐以外ほとんどなかった。

 長い長い真っ暗闇のトンネルから、少し、ほんわりと光の漏れる場所に移動した気がする。ただそれに私がまだ慣れていないから、戸惑う。目を覚ますたび、私は今どこにいるのだろうというような気持ちになる。
 光は何処からさしているのだろう。まだそれが分からない。全体が薄ぼんやりと明るい場所。だから光がどちらからさしてくるのか分からない。でも、少なくとも、今は光がほんのり存在する、それは間違いない。

 丸十五年。だと思う。十五年を経て私が得たものは。
 時は何よりの薬になり得るということなのかもしれない。
 いつの頃からかある種の諦めと、深い受け容れが始まった。もちろんそれに揺り戻しはつきもので、何度も何度も揺り返しにあい、何度も何度も倒れた。しかし。
 一度、受け容れようと自分で自覚したら、何度転ぼうと倒れようと、そのスタンスは変わることはなかった。今まで誰にも話せなかったことも、今まで見ることを避けていたことも、少しずつ少しずつ自分の中で消化できるようになっていった。もちろんまだ傷のままのものも在る。むしろそっちの方が多いかもしれない。それでも、いつか私はそれらを全部ひきうけて、歩いていくのだという覚悟は、できた。
 その覚悟ができると、一歩また進めた気がした。暗闇からほの明るい場所に出てきて、そして、そこには、ぼんやりと人影がうごめいていた。幾つもの人影が。
 その人影とは、私をずっと待っていてくれた人たちだった。見守っていてくれた人たちだった。遠くから近くからそっと、見守り続けてくれている人たちだった。
 そのことに気づいたとき、自傷の衝動をコントロールする術を、端っこだけかもしれないが、つかんだ気がした。

 今月に入り、自傷の衝動に襲われることは多い。たとえば、フラッシュバックで、何度も加害者に脅迫され行為を強いられたことを思い出すと、自分を引き裂いてちりぢりに引き裂いてやりたくなる。けれどもしその思い通りに自分を引き裂いたらどうなるか。
 私の娘はどうなるだろう。私の友人はどうなるだろう。私の父母はどうなるだろう。そういったことを少し、考えられるようになった。
 それでも過食嘔吐の衝動は抑えきれないことが多々あった。胃がちぎれるのではないかと思うほど食べ物をとにかく詰め込み、そしてトイレに駆け込む。そこには白い便器があって、私はそこに思い切り今食べたものを吐き出す。と。
 白い便器に、吐瀉物の上に、加害者の顔が浮かぶのだ。そしてやがてそれは母の顔に変わり。ゆらりゆらりと彼らは私の目の中に入ってきて、決して消えようとはしない。そして私はどうしようもない罪悪感にかられるのだった。

 一つ、大きな出来事があった。それは、父母が二人とも、病を負ったことだ。父は両目の手術をしなければならなくなり、母はインターフェロンの治療を始めなければならなくなった。それにともなって、父母は最初、ヒステリックな状態に陥っていた。これから向き合わなければならなくなる病を否定するかのように、最初あれやこれや拒絶症状を示した。今まで大きな病気をひとつもしてこなかった人たちだ。それは当然の症状だったのだと思う。
 しかし。
 私は長いことPTSDと向き合ってきて、病と向き合うことがどういう状況を生み出すかを何となくではあっても知っていた。だから、父母に時折いらいらしながらも、ある程度傍観することができた。
 それによって、私と父母の間に、もう一つ、新しい関係が生まれた。父母が私に弱音を吐く、という関係だ。これまでそんなことはあり得なかった。父母は絶対完全主義者であり、完璧主義者であり、いつだって勝利者であった。権威者であった。悪く言えば暴君であった。しかし、今回病を得たことによって、私と一つ、共通項を持った。それが、今、微妙に私たちに影響し始めている。
 父や母が私に弱音を吐くことによって、私は父母の痛みを知る。弱さを知る。それによって、私は、父母に優しい言葉をかけられる余力を得る。父母もそれを望んでいる。
 今まで私たちには、ただ上下関係以外のなにものもなかった。それが今、ようやく、理解し合おう、知り合おうという親和が生まれている。もちろん、長いこと正反対の状態を続けてきたのだから、すぐにすべてがうまくいくわけではない。しかし。
 今新たな局面を迎えたのは間違いはない。父母と私。それぞれに病を負うことによって初めて、お互いに理解しあえないのがすべてではなく、理解し合える部分もわずかではあっても存在することを、認め合おうとしている。

 今、ふと思い出していた。上司に最初強姦されたのが十五年前の明日。そして、そこから悪夢が始まった。君を守ると約束した編集長の指示によって加害者から直接の引き継ぎを強いられ、それによって生じた様々な出来事。そして一年後、私は自分が狂っていると叫んで自ら病院に飛び込んだ。
 あの頃のことを、私はきっといつまでもありありと思い出すのだろう。でも当時と今と何が違うかと言えば、私の中に、それらをも受け容れていこうとする土台ができたということなのかもしれない。あの、決して消えることはない厳然たる事実を、私は何年もの間消したい消したいなかったことにしたいと願い続けてきた。でもそんなことは不可能なのだ。不可能と分かっていても願うしかなかった時期があった。でも今は違う。
 それらは事実であり、消しようのない現実だったのであり、ならば、私はそれらを受け容れ、引き受け、共に歩いていくのだ、と、今はそう思う。

 話は変わる。
 娘との二人暮らしが始まってもう何年が経つのだろう。忘れてしまった。その間に娘は性的悪戯を受けるという出来事もあった。しかし。
 娘は私に何処までも優しい。特にこの一年、彼女の心の成長はめざましかった。私が子供の頃は決して父母にできなかったあたたかな仕草を、彼女は私に対しいとも簡単にしてみせる。そして私をどきっとさせる。はっとさせる。
 今日、病院の行き帰りに、何度も自傷衝動にかられた。けれど、そのたびに娘の顔が浮かんだ。昨夜私が仕事をしていると娘が寝床から膝掛けを引っ張り出してきて私にかけてくれた、そのときの顔がありありと浮かんだ。そんな娘の前でどうして自分をこれ以上傷つけることができようか。
 いや、正確には、私は自傷行為をまだしている。過食嘔吐という自傷行為を。それがいいとは思わない。思っていない。いずれはそこからも卒業しなくてはと私は思っている。しかし。
 少なくとも血まみれになって、床に血を滴らせて彼女を悲しませるような、そんな真似だけは、決してしたくない。もう、できない。

 そういえば、去年一年は、人間関係に悩んだ時期でもあった。人間関係に躓くことは多々ある。しかし、去年ほど、悩んだことはなかった。真夜中ひとり、唇を噛みしめながらこんなにも泣いたことはなかった。
 そんな中で私は、待つことや焦って縋り付かないことの大切さを身をもって知った。そして。何よりも。
 自分の身の周りに感謝するならば、同時に自分自身をきちんと大切にできなければいけないことを改めて痛感した。

 今2009年1月26日、もうじき午後一時を迎えようとしている。27日の夜中過ぎにはまだしばらくある。正確にはもうあれは28日になっていた。あの28日の朝日は、残酷なほどまぶしくて、私を射った。
 今年はどんな朝日が、どんな夜気が私を迎えるのだろう。そしてそれらを越えて私は、新しい日々をどんなふうに迎えるのだろう。

 今年もまた、1月27日が巡ってくる。


遠藤みちる HOMEMAIL

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