見つめる日々

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2005年10月27日(木) 
 朝、外に出た瞬間、あぁじきに降り出すのだなと感じた。空を見上げなくても、一面を覆うどんよりとくぐもった雲は、下へ下へと降りてきそうな気配を漂わせていたし、何より風が、絞れば滴が落ちてきそうなほど湿っていた。雨、傘を取りに部屋に戻ろうかと、思わなかったわけではないけれど、私は結局戻ることなく、駅へと歩き出した。
 幾つかの電車を乗り継ぎ辿り着いた駅は、十代の頃からあれやこれやと関わった街のひとつだった。ただ、刃のような出来事が山積みで、私は長いこと、この街を避けていた。今日はどうしても済ませなければならない用事があり、仕方なくここに来ることになった。でも、もういい加減大丈夫だろう、これだけ時を経たのだ、もう大丈夫だろう、と、私はたかをくくっていた。
 ホームに降り立ち、改札口を出る。そして。
 何も考えずとも、身体が勝手に動いていた。表通りではない裏通りを、私はすいすいと歩いていた。私の意識にはのぼらないところで、私はこの街の細部までもの地図を持ち、いくらでもこうやって歩き回ることができるのだった。街角のあちこちに、記憶の断片が落ちていた。そして気づいたら、私はすっかり幾千幾億ものフラッシュバックの波に呑み込まれていた。
 息苦しくて、眩暈がして、私は立ち止まろうとするのだけれども、足は決して歩みを止めてくれない。もう止まって、ちょっと休ませて、私が何度そう言いかけても、身体は勝手に動いてゆくのだった。もう私の身体は、私の意志には関係ないところで動いていた。記憶とは何と残酷な代物なのだろう。身体に染み付いた記憶。それは、もう忘れ果てたと思い安心していた私を、一分一秒かからずに殴り倒していた。もう大丈夫、きっと大丈夫、もうこれだけ時間を経て私もしぶとくなってきたのだからきっと大丈夫、そう思っていたのはいつのことだったか。ついさっき、電車の中で私は、そう思ったはずだった。そう思っていたはずだった。だのに。
 今この瞬間にも絶叫し破裂しそうな私の心臓はそれでも、勝手に進んでゆく手足に引きずられ、目的地へと辿り着く。何食わぬ顔をして、用事を済ませる。それを受け取るまでの一時間強、何処かで時間を潰さなければならない。何処に隠れたらいいのだろう、この街に染み付く私の記憶にはない場所でなければ、耐えられそうになかった。でも、私の記憶を引き出す場所ばかりが目に付いて、一体何処に行ったらいいのか分からない。もうどうしようもなくなってしゃがみこもうと思ったとき、私の目に小さな珈琲屋の看板が映った。何度か当時入ったことがある場所だったけれど、もうここでも構わない。私は這いずるようにしてカウンターのすみっこに座った。
 もうその頃には、雨は降り始めていた。座ってしばらくすると、それまで霧雨だったのが粒の雨に変わり、ぽたぽた、ぽたぽたと、道行く人の傘に落ちて音を立てるのだった。
 今通り過ぎた見知らぬ人が、何故か私の記憶の誰かと結びつく。今角を曲がって現れた見知らぬ人が、どうしても私の記憶を呼び覚ます。今現実に私の目の前を行き来する人たちは、私の喉を焼くような痛い記憶に関わる人たちとは全く関係のない人たちだと私は分かっている。全くの他人、まさに道行く人たち。別に私を傷つけることもないし、笑いあうこともないだろう、関係なんてものはこれっぽっちも持つはずのない他人。なのに、どの顔ものっぺらぼうで、だからそののっぺらぼうに私の記憶に刻まれた顔たちが映りこむ。私はいつの間にか瞼をぎゅっと閉じ、唇を噛み締めていた。ふっと思い出し、慌てて鞄の中を探る。頓服があったはず、持って出たはず、鞄の中がぐしゃぐしゃになるのも構わず私は探る。ようやく見つけた薬を三回分、まとめて口の中に放り込む。効くかどうか分からない。それでも、ないよりはましだ。呑まないよりは呑んだ方が気休めにくらいはなる。
 いつの間にか運ばれていた珈琲は、もう湯気が失われ、口に含むとひんやりと、そしてぼんやりとした味がした。喚いたり泣いたりできたら、少しは楽になれるんじゃないかと思ったりもするのだけれども、泣いたり喚いたりしたいという気持ちは、微塵も私の中に存在せず、ただただ、虚ろが、空洞のような虚ろが、宙に浮いて、私はその場所をぼんやりと、見つめているのだった。感情と名をつけていいような代物はもう、この時、私の中には残っていなかった。
 できるなら。この空洞の虚ろさの中、ぼんやりと漂って、しばらく眠ってしまいたいと思った。何を感じることも何を考えることも切り離して、ただぼんやり、虚ろの海の中、漂っていたい、と。
 でも、現実は異なり。私は虚ろの空洞を抱えながら時間を過ごし、用事を済ませ、ふらつきながらも帰路につく。ふらつく足で額縁という重い荷物を抱えながら、それでも私は家路を辿る。その先には娘が待っており。その後はもう、娘の世話やら何やらであわただしい時間がしばらく私を待っている。虚ろに佇んでいる暇は、残念ながらなさそうだった。
 揺れる電車の中、私は心の中で、主治医に尋ねていた。先生、どうして記憶はこんなにも残酷なのでしょう。先生、どうして時間はこんなにも経ったのに、いまだにあらゆる記憶が鮮明なのでしょう。私は一体何処まで、これらの痛みと向き合っていったら赦されるのでしょう。先生、私は果たして、いつか平気になってゆけるのでしょうか。それは一体いつですか。何処まで歩いたら私は解き放たれるのでしょう、赦されるのでしょう。
 激しくなる動悸や眩暈に合わせて、こめかみに刺さる痛みが酷くなってゆく。でも、それもいつか終わる。どんなにフラッシュバックに襲われても、どんなにパニックに襲われても、いつかそれらは終わってゆくし、私はきっとまた生き延びる。そしてまた、今日という明日を迎えるのだ。死ぬそのときまで赦されることがなくても、解き放たれることもあり得なくても、私はまたきっと生き延びる。
 だから先生、せめて、もう少し楽になりたいです。
 電車内にアナウンスが響く。次はS駅です。そしてホームに滑り込んだ電車は止まり、私は降りる。改札口を出て気づく、いつの間にか雨が止んでいる。そして私はまた、歩き出す。


2005年10月23日(日) 
 眠ったのは午前四時近く。夜風に当たりすぎてすっかり冷え切った身体を布団に滑り込ませるものの、なかなか温まらない。が、私の隣には天然湯たんぽが横たわっている。手を少し伸ばすとそこには娘の身体。毛布にぽっくり包まって、それはぽかぽかと眩しいほどの熱を放っている。私は彼女の身体を後ろからくるりんと抱き込む。あっという間に私の身体は温まり、解れてゆく。娘の身体から私の身体を離す。娘は全く身動きひとつせず、深い眠りの中。そんな彼女の横顔に、小さい声であれこれ話しかけてみる。明日何しようか、Sおねえちゃんからメールが来たんだけどね、等々。とりとめもなく話し続け、飽きた頃文庫本を開く。活字を辿るほどの気力はないのでただぼんやりと活字の描く地図を眺めて過ごす。そうしてようやく巡り来る眠り。
 目がぱっと覚めて、反射的に枕元の時計を見やる。午前七時半。眠ってからまだ数時間しか経っていないものの、何だか妙にはっきりとした目覚めだ。私の隣では娘がまだ寝息を立てている。
 簡単な朝食を作り、彼女を起こし、二人で並んで食す。それは毎日の、当たり前の風景。今日も淡々と繰り返される一場面。もぐもぐと口を動かしていて、ふと、目の端にビニール袋が捉えられる。確かあの袋の中には球根が。そうだ、みう、今日は球根を植えよう! 球根? うん、そう。土を買いに行こう、新しいプランターも買おう! えー、みうはおうちでお留守番してるよ。何で? お花植えないの? お花は植えたいけど、お買い物は面倒くさい。そんなこと言わないでさぁ、一緒に買いにいこうよ、自分で選んだ方が楽しいよ。うーん、しょうがないなぁ、じゃぁ一緒に行くよ。
 日曜日もやっている整体に行った後、私たちは埋立地へと自転車を走らせる。途中、お揃いの大小のカバンを引きずって歩く父子とすれ違ったり、ラーメン屋の出前のおにいちゃんとすれ違ったり。そうして線路を渡って、私たちは先を急ぐ。
 急に開けた通りは真っ直ぐに海へと続く道で、その左側には銀杏が並んでいる。ついこの間まで青々としていて、紅葉なんて程遠いと思っていたのに、今日目の前に現れた銀杏の葉々は、ほんのり黄色を帯びている。昨日の雨に黄色い絵の具が混じっていたんだろうかと思えるくらい突然の出来事。うわぁと声を上げながら、私は銀杏を見上げる。海風に揺れ、さやさやと右に左に波打つ葉々。一番手前の樹の下に自転車を止め、私はしばし黄緑色の波を見やる。ひとり感嘆のため息を繰り返す私の後ろで、娘は鼻歌を歌っている。この間までの青々とした葉と今日の黄緑色の葉と、その違いにあまり覚えがない彼女には、私のような感動はないらしい。苦笑しながら私はペダルに再び足をかける。日差し降り注ぐ並木道。木漏れ日も踊っている。
 カートを引き、安売りの土を投げ入れる。これもまた安売りのプランターを選んでカートに乗せる。そして最後、娘に球根を選ばせる。彼女が選んだのはラナンキュラス。チューリップとかそういった見慣れた花を選ぶのかと思っていたからちょっと意外。家にはアネモネと水仙と、もう何の花だったか忘れた球根が幾つか在る。さて、これで準備は整った。
 山盛りの荷物を自転車に載せ、どきどきしながら漕ぎ出す。娘がひゃぁひゃぁと奇声を上げて笑っている。ママ、転んじゃだめだよ、みんなどいてー! 恥ずかしいから止めてよと彼女を制すのだが、止めてくれない。どいてくださーい、荷物がいっぱいで止まれませーん! 彼女は容赦なく声を上げる。道行く人がみな、振り返ってこちらを見、あまりの荷物の山に目を奪われ、そのまま呆れたような顔で今度は私を見る。多分赤面してるだろうなと思える自分の顔を感じながら、私は必死にハンドルを握る。ちょっと気を抜けば絶対転ぶ。もう知るもんか、すれ違う人はきっとみんなこの場限りの人たちよ、そう開き直り、恥ずかしさなどかなぐり捨てて私は家路を急ぐ。
 さて。
 ベランダに荷物をひろげ、私たちはしゃがみこむ。西に傾きだした午後の日差しが背中に暑いくらいに降り注ぐ。土を入れ、水をやり、そこにひとつずつ、球根を置いてゆく。球根を植えるのは彼女には何回目だったっけ、と、記憶を辿るものの、うまく思い出せない。初めてかもしれないし、二回目かもしれない。とりあえず、彼女に、球根の上下の向きと間隔を教え、後は彼女に任せることにする。「このプランターはみうのだからね、自分でお水をやるんだよ」「みうがいないときはどうするの?」「みうがいないときっていつ?」「みうが保育園行ってるとき」「保育園行く前にお水をあげるのよ」「朝だけ?」「そうね、朝か夕方かどっちか」「ふぅん」「ママがいつもやってるでしょ、そんな感じ」「ふぅん、分かった、じゃ、もしみうが忘れちゃったらどうするの?」「みうが忘れると、お花はお水をもらえないの」「…むむむむむ」「つまり、ご飯がもらえない、ということだ」「じゃ、忘れちゃだめじゃん」「そう、忘れちゃだめなの」「…大変じゃん」「大変だね」。今更、水遣りの大変さに気づいた彼女に、私は思わず笑ってしまう。まぁ、何処まで自分でできるか、やってみればいい。
 並べた球根の上に、薄く土をかけてゆく。娘が勢い良く土を叩いて平らにしようとしているので、慌てて制し、やわらかいお布団のつもりで土をかけるんだよと教える。土は球根のお布団なの、と言う私に、土がお布団なんて変だよね、と彼女は納得いかない顔で繰り返す。じゃぁ人間も外で寝るときは土をかければいいの? いや、それはちょっと…、外で寝るのはあんまりしない方がいいよね、人は。だって球根とか種は外で土の布団かけて寝るんでしょ? 人間もそうじゃないの? うーん、いやぁ、何というか、ママは土をかけて外で寝たことはないから何とも言えないんだけど。じゃぁ土がお布団だってどうして分かるの? うーんと、何というか、理屈というか何というか…。理屈って何? 理屈って、理屈っていうのはこう、何というか説明というか…。何? 後で辞書で調べてから説明するよ。説明って何? 説明というのはねぇ…。
 はっきりいってしどろもどろである。こうじゃいけない、すんなりと応えてやらねばと思うのだが、娘に理解できる言葉で説明するというそのことに、私はつい躓いてしまう。自分ひとりの頭の中でなら理解できている言語が、いざ娘の前に晒そうとすると、うまく意味を説明しきれない。歯がゆいとはこういうことを言うんだろう。私はあれやこれやと言葉の洗濯物を引っ張り出し、額に汗にじませながら、彼女に説明を試みる。
 それにしても、ここ最近の彼女は、細かな言葉にひとつひとつ立ち止まる頻度がやけに増えた。たとえば大好きなドリフターズのDVDを見ている最中でも、彼女は容赦なく私に尋ねてくる。ママ、祟りって何? ママ、ハッパって何? ママ、悟りって何? ママ、次に志村けんがトータルバランスって言うの、ほら、言ったでしょ、トータルバランスって何? …彼女の問いはとどまることを知らない。もう殆ど覚えてしまった台詞のあちこちに、疑問符が浮いているらしい。意味も分からないまま、よく丸覚えできたものだと思うのだけれども、まぁそれは置いておいて、彼女の問いに私もひたすら応えてゆく。彼女に分かる言葉で応えるということが、こんなに難しいとは。今更だが、親というのは大変なものなのだと痛感させられる。世間の親はきっと、いつもこんなふうに子供たちからの問いに晒されて、そのたびあたふたするのだろう。それにしても、相手に理解してもらえる言葉で話すというのは、幾つになっても難しい。死ぬまでその難しさの中を泳いでいくしかないと思うと、ちょっと途方に暮れたくなる。
 黙々と私たちが作業をこなしている間に、お茶の時間になっていた。一通り作業を終えた私たちは、暑いということでアイスクリームを食べる。それだけじゃ足りなくて、あともう一口何かが欲しいということで、最後、凍らせた巨峰を一粒ずつ口に放り込み、はぐはぐと食べる。もちろん種を出すことを忘れない。いや、私は普段は種なんて平気で飲み込んでしまうのだけれども、今日は娘を真似て丁寧に種を残す。そしてそれを、一番小さな鉢に落とす。去年、こんなふうに種を撒いて、そこから葡萄の蔓が十センチ位まで伸びたのだった。でも、寒さにやられたのか何にやられたのか、気づいたら倒れており。だから今年も試みる。「ママ、指で押せばいいんでしょ?」「うん、種をこう、ね、ちょっと押して、で、土をぽっとかける」「ぽっとかける、ふんふん」「最後にかるーくお水をあげて…、あとは寝かせてじっと待つ」「寝かせるって何?」「しばらく放っておくってこと」「いつ芽が出るの?」「それは誰にも分からないんだなぁ、神様も多分知らない」「明日?」「明日は無理」「明後日?」「うーん、一週間くらいかな」「一週間くらいっていつ?」「今日は何曜日?」「日曜日」「じゃ、次の日曜日ぐらいかな」「早く芽、出ないかなぁ」。何だか、「となりのトトロ」の中に出てくるメイちゃんみたいな顔である。じぃっと土を凝視する彼女の隣に立ち上がると、私は空を仰ぐ。西の空に白銀の腹を見せて飛んでゆく飛行機がひとつ。向かいの街路樹で、戯れる雀が数羽。静かな午後。
 気づけば日曜日もやがて終わる。娘を寝かしつけた後、私はあれやこれやの用事を片付ける。そうしている間に時計の針はくるくる回り、あっという間に真夜中だ。
 明日は月曜日。一週間がまた始まる。この一週間の間に、埋立地のあの銀杏はどれだけ葉の色を変えるのだろう。その間に私とみうは、何をどれだけ為すのだろう。そうだ、明日病院の帰り、モミジフウの樹を見に行こう。晴れていたならきっと、ぶらんぶらんと青空を背に枝で揺れるあの実が私を出迎えてくれるはず。

 今、夜風がひゅんっと部屋を横切った。見上げる空、月は、見えない。


2005年10月22日(土) 
 雨が降り、日差しが降り、そしてまた雨が降り。女心と秋の空とはよく言ったものだ。くるくるくるくる、と、見事に天気が変わってゆく。肌寒くアスファルト濡れたまま明けた朝が、瞬く間に日差しが首筋を焼くほどの昼になり、気づけば雨雲が地平線に漂う夕になり。すごいね、橙色と桃色とを混ぜたみたいな空だ、と、娘と二人、見上げる。まだ色づく気配もないプラタナスや銀杏の樹々が、通りのあちこちで揺れている。
 そんな天気に似たのか何なのか、私の心線も振れ幅が激しく、どん底に落ち込んだかと思えば天井に突き上げられ、そうして私はあっという間にくたくたになってゆく。笑ったかと思えば涙し、泣いたかと思えばからからと大笑いをし。そんな自分のあまりの大きな振れ幅をどうにかしたいと思うのだけれども、この操縦がなかなかうまくいかない。そんなこんなで、一日は今日も終わってゆく。

 心が飽和状態になり、それに押し出されるようにして涙が溢れ出した昨夜、娘が私の肩を叩いた。ママ、どうしたの? どうして泣いてるの? どうして泣いてるんだろう、分かんないや。そう言って私が苦笑すると、彼女はやさしい声で言う。泣いてていいんだよ、みうがついててあげるからね。
 理由なんてない。ないから困る、ないから焦る。どうして私は泣いているんだろう、どうして今涙なんか零れてくるのだろう。理由が分からないから、途方に暮れる。それでも涙は溢れ出ることを止めず、ほろほろと零れ落ちる。かなしいことがあったの? と娘が訊くので、少し考えてみる。ううん、かなしいことは別に、なかったと思うよ。そう応えると、娘が首を傾げる。じゃぁどうして涙が出るの? そうねぇ、かなしいのかうれしいのか、分からなくなってしまったとき、そういうときでも涙はもしかしたら、出るのかもしれないね。とても答えとは言えないような返事を返すと、彼女は大きく首を縦に振る。みうもね、うれしかったりすると涙出るよ。一番最近みうはどんなうれしいことで涙出たの? あのね、ほら、運動会の組体操で二人組になったでしょ、W君と二人組になれたでしょ、あのときね、みう、うれしくってうれしくって、もう、涙出そうだった! あぁあ、あれがW君だったのか! 二段ベッドやったときなんてね、このままW君の上に落ちてチュウしようかと思った。はっはっは、そうだったんだ、じゃぁチュウしちゃえばよかったのに! えー! そんなのできるわけないじゃんっ! そう? そっかぁ、そうね、なるほど、そういううれしいことっていうのもあるよね。ママは好きな人いないの? えっ? 好きな人いないの? …うーん、好きな人、ねぇ。みうは今W君大好き! 大好きかぁ、じゃぁママとW君とどっちが好き? えーっ、おんなじだよっ。おんなじなの? …うん。そっかぁ、いいなぁみう、ママも好きな人、作るかな。
 娘と話していると、とても落ち込んだままでなんかいられなくなる。落ち込んでいることが申し訳なくなってくる。そんな、私にとって太陽のような存在の彼女だけれども、彼女には彼女なりに悩み事がある。その悩み事に小さな胸を痛め、ふとした折にくわんと彼女が涙ぐむことを、私はよく知っている。それでもこうやって彼女は、私の肩に手を置いてくれるのだ。ならばせめて、彼女の前でだけは、彼女に負けずに元気でいたいと、そう思う。
 ねぇ明日は何しようか、何処に出掛けようか。そんなことをあれこれ話しているうちに、彼女はことんと眠りに落ちる。私は彼女に布団を掛け直し、窓際のいつもの椅子に座る。半分開けた窓から、すぅっと夜風が滑り込んでくる。薄い長袖のシャツがちょうど合うような温度。窓の外に広がるのは、もう草臥れるほどに見慣れた夜景。
 まだ当分眠れそうにない。ふっとこの間言われた主治医の言葉を思い出し、私はためしに頓服を二回分、まとめて口に放り込む。しばらくじっとしてみるけれど、それでもまだ、眠りは遠くにあるようだ。私はすぐ眠ることを諦め、展覧会の準備の続きに手を伸ばす。手を動かしながら、ふと、誰かの声を聴いたような気がした。
 すれ違ったままの、でも懐かしい、誰かの声、を。


2005年10月18日(火) 
 夕方から降り出した雨は、気づけば止んでいた。午前五時。街はまだ、闇に包まれている。
 遅々として進まぬ仕事。そして作品制作。今夜もまた、こんな時間になってしまった。娘を寝かしつけてから取り掛かるものだから、どうしても時間が足りない。いい加減眠らなければと思ったりもするのだが、仕事にしても作品にしても期限がある。多分今しばらくは、こんな夜の繰り返しが続くのだろう。
 翌朝の土曜日。普段通りに起きて二人して身支度。玄関を開けると眩しい陽光と賑やかな声がいっせいに私たちに降り注ぐ。今日もまた朝早くから裏の学校の校庭では子供らが野球の練習をしている。監督らしき人の怒鳴り声がぱしんと響いてきて、私とみうは思わず校庭を見下ろす。何かしらしくじったらしい二人組が、ぽかぽかと監督から握り拳を食らっている。「あっ、いけないんだよ、人の頭叩いたら!」。すかさず娘が指をさす。「うーん、あのねぇ、多分、あのお兄ちゃんたちが何かいけないことしちゃったんだと思うよ、それで怒られてるんじゃないかな」「怒られてるのか…、じゃぁしょうがない?」「そうね、しょうがないな、うん」。私は説明しながら苦笑する。しょうがないとしか言いようがないのだけれども、果たしてそれで彼女に伝わったのかどうか。そんな私にお構いなしに、彼女はひらりとスカートの裾を翻し、エレベーターの方へ走ってゆく。
 娘と手を繋いで歩く。私も娘も半袖だ。通りを行き交う人々も、今日はみな軽装に見える。それにしても日差しが気持ちいい。坂道沿いに建ち並ぶマンションのベランダのあちこちに、色とりどりの洗濯物や布団がぺろりんと干してある。みう、ねぇ、あのお布団たち、みんなあっかんべーってしてるみたいに見えない? うん、見える、あっ、あそこの布団はね、きっと虫歯があるんだよ。えっ、む、虫歯ですか? うん、だって、ほら、あそこに黒い丸がある。あ…確かに、でもあれはきっと何かの模様なんじゃないかと思うんだけど。違うよ、虫歯だよ! ははは。
 電車に乗り、実家へ。最寄駅の改札口では、じぃじが孫の到着をまだかまだかと待っている。改札口を走り抜けた娘は、「おはよう、じぃじ」と挨拶する。そして、両方のポケットにぎゅうぎゅうづめにして持ってきた小さなぬいぐるみを見せて得意げな顔をする。
 私たちがまだ彼の子供だった頃、彼は子供の目線に合わせてしゃがみこんで話すなんてことは一度たりともしたことがなかった。その彼が、今は、孫の目の高さにまで腰を曲げ、あれやこれや彼女に話しかけている。でも、その孫は結構つれない奴で、じぃじが自分に首ったけなことを十二分に承知した上で、ぷいっと横を向いてみせたりする。もし私があんなことをあの年頃にやったなら、ごつんっと大きな音がするほど強い彼の拳で無言のまま殴られたものだった。二人のやりとりを少し離れたところから眺めつつ、私は、年をとるというのは不思議なものだな、とつくづく思う。
 辿り着いた父母の家。その庭では金木犀がさやさやと風に揺れている。私はこの金木犀が大好きで、花香る季節になると、いつも思い切り部屋の窓を開けて過ごしたものだった。でも。あの頃は、金木犀の季節は今よりもっと早かった。それにしたって今年はちょっと遅すぎるだろうと思い首を傾げつつ、私は瞼を閉じて深呼吸してみる。この香りが好きだった。いや、今でももちろん好きは好きなのだけれども。でも、何といったらいいのだろう、あの頃の私は、この香りに恋してさえいたのだった。毎年毎年、この香りに新しく恋をして、夜毎窓辺で香りを追いかけたものだった。私は、今改めてこの年老いた金木犀の樹を見上げながら、ふと考える。この樹は私よりずっと年上だ。でも、もしかしたら私よりずっと、長生きするのかもしれない。いや、もちろん、父母がこの世を去る時が来て、この家が消えてゆく時が来て、その時にはこの庭も壊され、この樹も従って切り倒されるか何かするのだろう。でも、もしこの庭が人為的に壊されることがなかったのなら。樹はきっと、私たちがこの世からいなくなったずっと先も、ここでこうして生きているんじゃなかろうか。
 そう思うと、思わず私は樹に触れずにはいられない気持ちになった。手を伸ばす。触れる。指で葉をなぞり、枝をなぞる。樹独特の感触が、指の腹からがさがさと伝わってくる。彼の年輪は、一体どんなふうに刻まれているのだろ。そして私の年輪は。
 「メジロだよっ!」。娘の声に我に返り、私はその声の方を見やる。庭の中央にじっとしゃがみこんだ娘が指差すその先には確かにメジロ。しかも番いで二組。庭の中でもとりわけ、この黒々と立つ梅の樹がお気に入りの彼らは、今日もいつものように、頭をくりくりと樹皮にこすりつけ、忙しく枝と枝を渡り歩いている。そうしている間に、向こうの隅の柿の樹にヒヨドリが飛んで来、柿の実をつんつんと突いている。母の庭は、そうしていつも、誰かが集う。

 娘と二人きりの日曜日はあっという間に過ぎてゆく。前日からあれこれ考えて二人で出掛けた大きなお風呂屋さん、途中までは腹が捩れるほど楽しんでいたのに、私の具合がいきなり悪くなって急いで帰宅。それからは怒涛のような痛みの時間。娘に、もしママが意識を失ったら119番してね、と伝え、あとはひたすら頭を抱えて壁に寄りかかって過ごす。一ヶ月に一度か二度、私はそうした酷い頭痛に襲われる。これに襲われると、食べるのはもちろん、水を飲むことも辛くなる。ちょっとしたはずみで血が余計に流れると、それがぐわんと頭痛になって私の身体に現れる。横になることも立っていることももうできない。ただひたすら壁に寄りかかり、せめて体がばたんと倒れてしまわないように必死に体勢を保つ。波が引くまで、一ミリたりとも動けない。
 今回はよほど酷かったらしく、通常の頭痛薬を二度三度服用してみるが一向に効き目が出ないうえ、最後は吐いてしまう始末。さんざん迷った挙句、ボルタレン座薬を使用する。できるなら使いたくない、そう思いつつも、このまま倒れたら娘はどうするんだ、と、その一念。
 こうやって具合が悪くなる時、いつも思うのは、娘はどうするのだ、という一事。私が倒れたら、私がもし今突然死んだら、娘は一体どうなってしまうのだろう。じじばばのところに引き取られる? 確かにそうだろう。でも、じじばばは、私よりも本当なら先に死ぬべき人たち。娘はきっと、早くに一人ぼっちになってしまうだろう。そうなったら。
 だから、私はやっぱり死ぬことはできないのだ。そう簡単には死ねない。
 先日母が愚痴をこぼしていたっけ、「この間病院で検査受けたら、私の脳味噌には小さな脳梗塞が山ほどあるらしいわ。お父さんにはひとつもないのに、お母さんにだけ山ほど」。そんな母に体質がそっくりな私の脳味噌には、もしかしたら今もうすでに幾つもの血栓が在るかもしれない。そのひとつがもし今この瞬間にでも破裂してしまったら。そうなってから後悔しても遅い、ならば、健康に気をつけるにこしたことはない。
 でも。
 気をつけようとは思うのだけれども、でも、はて、一体何を気をつけたらいいのだろう。食生活はそれなりに気をつけてはいるが、そもそも、今この時を何とか生き延びるために私が毎日服用している安定剤やら眠剤やらなにやら。そういった薬自体がきっと、私の身体に少しずつ蓄積されていって、いつか私に何かしらの影響を及ぼす代物であるに違いない。そう考えると、じゃぁ何を?と首を傾げてしまう。思いつくのは、適度な運動と適度な食事、適度な睡眠、そのくらい。知恵がないなぁと、自分で自分を嘲笑ってしまう。
 何はともあれ、娘を置いて今死ぬわけにはいかない。それだけは確かなことだ。だから私はどんなにしても生き延びる。生き延びなければならない。

 今、窓の外は雨が降っている。いつものように病院に行った月曜日。夜闇は霧雨が降り続くせいでこんもりとけぶっている。通りの向こう側に立つ街灯が描く光の輪が、ほんのりぼやけて見える。明日も雨は降り続くのだろうか。
 一日でも長く。私は生き延びたい。一日でも長く濃く、私は生きていたい。それは娘がここに存在しているからということがもちろんあるけれども、でも、それ以上に。
 私は、私の為に何よりもここで生きていたいと思う。他の誰でもない、せっかく私が私としてここに生まれここまで生きたのだから。


2005年10月15日(土) 
 前日徹夜だったせいか、昨夜は夜中頃にはどうしようもない眠気に襲われ横になった。瞬く間に眠りに堕ちるその道筋で、私は幾つか、夢を見ていたように思う。

 私が最初にピアノの音と出会ったのは、多分外で遊んでいる最中だったのだと思う。大きくなって近所のおばさんから話を聞かされるまで知らなかったが、当時私は、ピアノの上手なお姉さんのいる家の庭に入り込んでは、お姉さんが弾くピアノの音に聞き入っていたらしい。それが嵩じて、私は三つ四つの頃に、ピアノを買ってくれと両親に強請った。まだ貧しかった両親は、何故かこの時だけは、無理をして私にピアノを買い与えてくれた。
 それから私とピアノとの付き合いが始まった。途中、私が練習中に先生の手を振り払ったとのことでピアノの教授から絶縁状を突きつけられたりしながらも、それでも私はピアノとの付き合いをやめなかった。小学校時代、転校を繰り返した私は、そのたびに、新しい学校に慣れるまでの間、ひたすらピアノと向き合って時間を過ごした。一日二時間三時間は当たり前、放っておくと何時間でもピアノをがんがん叩き続けていた。
 小学校を卒業する頃、教授のすすめもあって、私の中で、音大楽理科を受験することがひとつの目標になった。ピアノを弾くことに対する気持ちは別に私の中では何も変化することはなかったものの、音大へゆくのだという気持ちは、周囲からの期待に応えねばと強張る私の肩に、日毎ずっしりと圧し掛かってくるのだった。
 が。様々な小さな出来事が積み重なって、私はその道を逸れてゆくことになる。そのとき私の中で大きく乖離するものがあったことを、私は今でもはっきりと覚えている。まるで、周囲の期待を裏切っていってしまうことはとてつもない重罪であり、それは自分が今ここで生きている、存在しているというその価値までもを揺るがすほどの代物であると、その頃の私にはそう感じられた。そのことが私を、ぶるぶると震撼させた。でもそれは、半分の私であって、もう半分の私は、ひたすら我が道を突き進もうと日々邁進していたのだった。
 途中どうしようもない馬鹿馬鹿しい事情から両親によってピアノを取り上げられた時期もあった。それでも私は、ピアノへ対する想いを捨てることは、できなかった。いろいろな時期を経ながら、私はまだピアノを続けていた。そして、これを最期にピアノを卒業しようと思ったのが、あのピアノの発表会だった。その発表会の為に、私は自ら曲を選び、必死になって練習した。
 そしてあの朝。
 目を覚まし、何か自分の手から受ける違和感があった。が、あまり深く考えず、顔を洗い身繕いをし、いつものように大学へ、そしてバイトへと行った。家に帰宅してさぁピアノの練習をと蓋を開けて。私は愕然としたのだった。右手を使おうとすると右手が開かない、それどころか、痺れて痛みさえ覚える。
 あの時の、自分の心情を、一体どう説明すればいいのか、今もって私には分からない。ただ、愕然とした、呆然とした、としか、表現のしようがない。多分、言葉に還元出来るのは、その程度のことなのだろう。私はさんざん慣れ親しんできた白と黒の鍵盤を前に、自分の時間が止まるその音を、聞いた気がした。
 どうにか右手を開こう、どうにか右手の指を動かそう、私は必死になって努力した。発表会まであと一ヵ月半、その間必死に練習しなければこの曲を弾きこなすことはできないだろう。私は焦った。焦って、左手でもって必死になって、縮こまる右手の親指と小指とを開かせようと試みた。でもそのたびに、焼けるような痛みが指先から肩まで駆け上り、私に悲鳴を上げさせるのだった。
 思い返せば、それまでピアノは、私にとってかけがえのない自己表現の術であった。ピアニッシモからフォルテッシモ、左端から右端まで、白と黒の鍵盤は、いつだって私を助けてくれた。転校当日、新しいクラスメイトに転ばされ、泥だらけになって唇をかみ締めて辿った家路。悔しくて悲しくて切なくて、たまらなかった。母は、服を汚したそのことを叱るばかりで、俯く私にそれ以外の言葉をかけてくれることはなかった。だから私は、自分の中で猛然と猛る感情の全てを、ピアノに、鍵盤にぶつけたのだった。
 作曲家を意識してそうして初めて好んで弾き始めたのは、ベートーヴェンだった。彼の記した音符の数々は、私の中に滾る明暗諸々の感情を、激情を、これでもかというほどありありと表現してくれていたからだった。晩年に作られた曲になればなるほど、どうしてと思うような音があちこちにちりばめられていたりする、でもそれが余計に、言葉にはどうやっても還元できぬ人間の内奥のあれこれを、表現し得ているようで、私は必死になって彼の音を辿った。
 ベートーヴェンの音を経てふと気づいたら、私は違う地平に立っていた。そこで出会ったのが、バッハとリストの音たちであった。その頃私を教授してくれていたピアノの先生がこんな言葉で或る日私を叱ったことがあった。バッハを弾こうと思うなら、建築しなさい。構築しなさい。そうでなければバッハを弾くことなんてできません。
 先生はさらに続けた。たとえばそうね、ショパンは多分、或る意味で物語なの。だからきっと、本を読むように楽譜に身を委ねれば、或いは指から迸り出る想いに身を委ねれば、それなりに弾くことはできる。けれどね、バッハは違う、数学のようにひとつひとつの音を組み立てていかなければ彼の曲を本当の意味で弾きこなすことはできないのよ。さをりちゃん、頭の中で組み立てるの、音を。感情に任せて弾いていい作曲家の曲ではないのよ、構築しなさい、音を組み立てて、高みへのぼるのよ。
 言われた当初、私にはその言葉の意味は多分、おぼろげにしか受け止めることはできなかった。しかし、弾けば弾くほど、音が積み重なり交差しながら連鎖しながら、高みへとのぼってゆくのだというイメージは、私の中で強くなっていった。そしてそれはいつでも、教会のあの天辺を突き抜けて、私の見も知らぬ天空へと、羽ばたいてゆくのだった。
 話がずいぶん逸れてしまった、元に戻そう。確か、右手を開こうとすればするほど、その指で鍵盤を叩こうとするほどに痛みが私を貫いたというところまで書いたと思う。
 あの時、私が発表会で弾こうとしていたのは、リストのとある曲であった。それは、オクターヴの和音やスケールによって曲の殆どが紡がれているような代物だった。しかも、主役は右手ではなく、左手だった。それは不幸中の幸いと言えなくは無かった。だから私は、無理矢理両手を使って、楽譜にすれば二十ページをゆうに越えるその曲を、それでも必死に練習しようとした。確かにそのおかげで、左手だけは上達していった。けれど。
 右手が動かない、開かないでは、やっぱりお話にならないのだ。ピアノは両手で奏でられる代物。私は焦った。気が狂いそうだった。一体どうして、何故突然こんなことになったのだ、何一つ、私には理解できなかった。目の前の現実が受け入れられなかった。気づけば私は汗だくになって、鍵盤の前、足掻いていた。
 それから二週間近く、私は一体何度、鍵盤の前を行き来しただろう。一体何度、痛む右手を抉じ開け、動かそうと試みただろう。しかし、その全てが無駄に終わった。それだけじゃない、私の右手はぶるぶると痺れ、鉛筆を握ることも箸を握ることもできなくなっていた。大学の授業に出席してもノートをとることができない、空腹を覚え箸で食べ物を口に運ぼうと思っても何一つまともに運ぶことが出来ない。日常のあちこちで、私は躓いていった。躓いて転び続け、いつか、それでも立ち上がるということに私は疲れてしまった。
 そして、私は放棄したのだった。発表会を、辞退した。もうすでにプログラムは印刷に回されており、今更私の名前を削除することは不可能だった。プログラムの最期に記された私の名は、そのまま宙に浮いた。
 それから半年近く、私の右手は不自由なままだった。が。不自由が突然私の右手に墜落したように、その不自由さは突然、私の右手から去っていった。鉛筆を普通に握れるようになり、箸も操れるようになり、開こうと思えば思い切り、指と指を開くこともできるようになった。でも。
 そこにいるのは、もう二度と、ピアノと正面から向き合うことができなくなった自分、だった。

 怖かった。恐ろしかった。またあんなことがおきたらどうしよう、そんな不安がどうしようもなく私に襲い掛かった。
 でも多分。今だからこんなふうに書くことができるが、多分、不安だけじゃぁなかった。私は。
 自分が、以前のようにピアノを弾くことができないこと、そして、それをもはや内外に誇ることができないというそのことに、打ちのめされていた。
 ピアノはもう、私にとって、自己表現の術ではなく、自分を辱める存在に、変貌していた。

 今、私のピアノは実家にある。大学卒業後就職し一人暮らしをし、PTSDを患ってから途中、ピアノを一人暮らしの部屋に運びこんだこともあった。外界と接触できなくなった私には、ピアノは、味方になってくれる筈だった。が。私は、ぽろんと鍵盤を撫で、単音を出すことはできても、もう曲を弾くことはできなかった。恐ろしくて恥ずかしくて、できなくなっていた。そうしているうちに、私の指の筋肉はすっかり衰え、多少の練習ではもう、取り返しがきかなくなっていた。
 だから今、私のピアノは実家にある。もう誰も奏でることのなくなったピアノは、古びて、何だかもう、置き去りにされた家具のひとつのようにさえ見える。
 なのに。私は娘に、電子ピアノを買い与えた。それは去年の冬のことだ。まったく自分という人間が一体何を考えているのか、私はつくづく不思議に思う。もうまともに鍵盤を叩くことができない私の傍らに今更鍵盤を持ってきて、一体どうするつもりなんだと思う。呆れてものが言えない。
 でも。
 時折娘が、思い出したように電源を入れ、鍵盤をばしばし叩いて出す音の数々は、もう私を苛めたりさげずんだり、するものではなかった。むしろ、あぁまた弾きたい、そう思わせるものに変わっていた。それでもまだ、私は今日というこの日まで、鍵盤と向き合ってはいないのだけれども。

 夢の中で、私は何処か宙を漂っていた。いや、私であって私ではない、何かしらの肉体を用いて、私はどうにかこの地に繋がってはいた。その肉体が、ゆっくりと動き始める。左手が、右手が、さんざん慣れ親しんできた鍵盤へと伸び、深い深い深呼吸ひとつの後、動き始める。それはやがて、ひとつひとつの、あの懐かしい音色となって、駆け出してゆくのだった。
 あぁまたピアノが弾けるんだ、あぁまたこんなふうに旋律を奏でることができるんだ、和音を響かせることができるんだ、私は、その歓びに呑み込まれ、もう一体自分が何処に居るのか、そんなことどうでもよくなっていた。そう、かつて私はこんなふうに音を楽しんでいたのだ、音に乗ってあの時泣けなかった分をピアノの前で泣いたし、あの時笑えなかった分を思い切り笑ったし、そうやって私は、自分の中の空洞をひとつずつ埋めていくことができたのだ。ピアノは、私にとってかけがえのない存在、伴侶だった。
 今更ながら、そのことを思い出し、噛み締めながら、私はなおも駆けていた。そして、思うのだった。今はまだ、鍵盤に触ることはできないかもしれないけれど、いつかまた、いつかまたきっと、鍵盤に触れよう、もう何も憚ることはない、恥じることもない、ただ思う様戯れればそれでいい、そう、ピアノはもう敵でも味方でもなく、私の隣にただじっと在る、そんな存在だったのだ、と。

 夢が醒めてからも、しばらく私は彷徨っていた。夢と現実の間を、うろうろしていた。娘が寝返りをうつ、その仕草に肩を押され、私は我に返った。
 最初に背筋に悪寒を覚えた私は、咄嗟に右腕を上げ、右手を動かしてみた。動く。痛みもない、痺れもない、大丈夫、無事だ。右手の無事が分かり、私は安堵する。そうしてぼんやりと右腕を眺め、ようやく私はさっき見ていた夢のひとつ、ピアノのくだりの夢を、反芻する。隣では、娘が、規則正しい寝息を立てている。
 音を立てないように気をつけて、私は窓辺に立つ。まだ夜明け前で、でも、窓の外は少しずつ、白み始めていた。私は足音を忍ばせて、隣の部屋へ行く。
 そして。電源を入れた。ボリュームを思い切り下げて、私は椅子に座る。そして。Aの音を、ひとつ、出してみた。電子ピアノの鍵盤は、私がさんざ慣れ親しんだアップライトのピアノの鍵盤とはもちろん全く違う感触をしており、私の指はちょっと縮こまる。でも。
 思い切って、あの曲を辿ってみた。もちろん、もう十何年もまともにピアノを弾いていないのだ、指が思うように動くわけがない、私の指は、鍵盤を何度も外し、何度も滑り、そのたび少し、私は苛々する。でも。
 記憶しているものなのだな。私は思わず苦笑する。頭の中に楽譜があるわけではない、が、私の指は、一度弾き始めると、あの曲をしっかり記憶していて、勝手に動いてゆくのだった。そうしているうちに、私の脳味噌は、その奥底から記憶を引っ張り出し、気づけば額の裏あたりに楽譜がはっきりと浮かび上がり、私は、指さえ転ばなければ、まっすぐに曲を辿ることができた。弾きながら、あの当時とは違うな、と、私は感じた。いや、違うのは当たり前だ、今の私の指はもうあの頃のように動くことはできなかったし、鍵盤の重さも違う、すべてが違っていて当たり前だった。しかし。そんなこととは別個のところで、私は自分の中に、明らかなる相違を感じた。
 それは、私が、弾くことそれ自体を楽しんでいるという、そのことだった。
 多分私は、自分の心と鍵盤とを密接に繋げすぎていて、だから、これでもかというほど鍵盤に対して私の心は作用し、或る意味正直だった。だから、幼少時から常に愛情に飢えていた私が弾く音色は、いつだって飢餓状態で、それは言い換えれば、誰にでも噛み付く狂犬だった。そんな音色はだから、他人の心に牙を剥きはするけれど、抱きしめ得る代物では、あり得なかった。
 いつだったか、先生から言われた言葉を思い出した。「さをりちゃんの弾くピアノはね、凶暴すぎるのよ、静かな曲でも激しい曲でもそれは同じ、時々耳を、というか、心を塞ぎたくなるの、苦しくってね。でもね、音楽というのは、音を楽しむと書くのよ、音によって人は癒されもするし笑うこともできる、音によって人は優しくもなれるし切なくもなれる。もっと言えば、遠くの誰かの傷を、救うことだってできてしまうかもしれない、そんな代物なのよ、音楽というのは。分かるかしら?」
 今なら、ほんの少し、ほんの少しだけ、分かる気がした。気づけばもう、私の指は、曲の最後に辿り着いており。私は最後の和音に、ゆっくりと、そしてそっと、指を下ろした。電子ピアノの小さな音は、そうして止んだ。もう窓の外は、すっかり明るかった。
 私は電子ピアノにカバーをし、電源を切る。椅子から立ち上がり、窓際に立ってみる。朝の風は微かで、街路樹の葉はちらり、ちらり、としか揺れはしない。でも、昨日より今日、今日より明日と冬へ向かう朝の空気は、肌をちょっと震わす程度には冷えており、私の首筋をつるんっと撫でてゆくのだった。

 ------今はもう午前二時過ぎ。また新しい朝がもうすぐそこまで近づいてきている。まだ眠らない私には、もちろん夢も訪れない。昨日のように、夢に追われることは、ない。
 でも。
 私は、右手をそっと開いてみる。また練習したら、ピアノを弾くことができるだろうか。思う様鍵盤を滑ることができるだろうか。
 分からない。でも。
 せめて、娘に弾いてやることくらいは、できるかもしれない。今、これを記しながら思う、教えることはできなくても、弾いて聞かせることくらいはできるかもしれない、いや、そんなことは棚上げしても、私は多分、いつか、ピアノをまた弾きたい。そう、思っている。
 窓の外は今、もちろん闇色だ。その闇はぬらりと深く濃く、横たわっている。今夜はずいぶんあたたかくて、開けた窓から入り込む空気はぬる過ぎると言ってもいいくらいだ。私は、振り返って、娘の寝顔を見やる。ぽっと小さく開いた唇からすうすうと息が漏れている。布団を蹴っ飛ばして身体をぐにゃりと傾げて眠っているその顔は、何というか、あまりに泰平で、苦笑してしまう。
 明日は実家へ遊びにゆく日だ。実家へ行ったなら。両親に見つからないよう、娘にも見つからないよう、こっそりとピアノを拭いてやろう。きっと埃だらけに違いない。蓋は、蓋はまだ、開けなくていい。いつかその日が来たら。きっと。


2005年10月13日(木) 
 久しぶりに空から光が降り落ちてくる。娘を後ろの座席に乗せて自転車を漕ぎながら、私は空を見上げ娘に話しかける。ねぇお日様ようやっと出てきたよ! 遅いよ、おひさまー!ママが怒ってるよー! え?怒ってはいないけど…。 怒ってるじゃん、ママ、お洗濯できないし布団も干せないって言って。 怒ってた、かな? 怒ってた! ははは、まぁいいじゃん、お日様出てきたし。 おひさまー、ママはそんなこと言ってますよー、ずるいですねー! こら、みうっ! …牛乳屋さんの前を通ったところでちょうど、私が「こらっ」と言ったために、牛乳屋さんのおじさんがびっくりしてこちらを振り返っていた。ちょっと、恥ずかしい。
 このところずっと整体に通っている。運動会で奮起しすぎたせいで、昔から痛めてる腰を再び痛めてしまったからだ。
 運動会は何とか催された。でも、会場の某小学校の校庭は水浸しで、足を運ぶたびぐっちゃぐっちゃと水をたっぷり含んだ砂が歌うのだった。途中雨が降ってきたり音響設備に不備が生じたりで、プログラムは変更されっぱなしになった。何の因果か、親の競技である綱引きが最終競技になってしまい、それが、白組優勢の状態で順番が回ってきた。こうなると赤組の親たちの目つきが変わってくる。周囲を見回すとみんな腕まくりして軍手もしっかりつけて、今にも奮い立たんばかりの形相。実は娘も赤組で、つまりは私も赤組。これはまずいなと思ったのも束の間、競技が始まると、ここで負けては親の名が廃るとばかりに赤組の親は全員耳を疑うほどの掛け声。気づけば自分もその一人になってしまっていた。後悔先に立たずとはよくも言ったもの。競技中足を踏ん張りすぎて水浸しの泥を跳ね飛ばした私は、そのままずべっと転んでいた。腰を痛めたのも当然である。自業自得とも言うべきか。
 そのおかげで、赤組白組引き分けで運動会は無事終了。娘は悔しいと言いつつも、組体操で想いを寄せていた男の子と二人組になることができたりもして、結構楽しめたようだ。保育園最後の運動会、これで思い残すことも、ない。
 そんなこんなで、朝一番で整体へ行った後、まずは洗濯にとりかかる。いつものように三回洗濯機を回す間に、泥んこになった二人分の運動靴をじゃばじゃば洗い、それが終わるとベランダのプランターにほったらかしになっている薔薇の樹たちに詫びを言いながら世話をする。合間合間に、必要な電話をかけ、掃除機をかける。それだけでもう、午前中が終わっている。
 ふと、空を見上げ、旧友を思い出す。あんなこともあった、こんなこともあった、もう二度と取り戻すことはできない日々、あの時間の中で私はずいぶんやわらかな夢を見た、と、そんなことを思いながら空を見る。空の高みを鳶が真っ直ぐに飛んでゆく。彼らは飛んでゆくというよりも、滑ってゆくという言葉の方が合うのかもしれない。真っ直ぐに真っ直ぐに、そして消えてゆく。耳を澄ますと、風がかさこそと音を立てて流れてゆく。街路樹の葉々、ベランダの葉々、通りをゆくさまざまなものを揺らして。
 この夏の間、正直、まともに世話ができなかった。そのせいで、プランターの中は今、荒廃している。薔薇の樹の、挿し木をしたばかりだった枝はすっかり干からび、私は今更ながら手を伸ばし指で挟み、それを抜く。ごめんねと言いながら、それを抜く。ミヤマホタルカヅラは何とか生き残ってくれているけれども、もしもう少し放置したなら、全て、枯れ果てていただろう。それもこれも私のせい。自分の腕を切り刻み血を流すことばかりにかまかけて、彼らを省みることができなかった私のせい。
 洗った大小の靴をベランダに並べながら、私は風に耳を澄ます。風は止むことなく流れ続けながら、私に、もう季節は秋から冬へ進んでゆくのだと教える。容赦なく時は流れ、私は老いる。ひとつ、またひとつ。

 運動会に来てくれた父母にとって、孫の運動会当日は、彼らの結婚記念日だった。だから、こっそり花束を用意する。運動会が終わって一息ついたところで、娘から父母に花束を贈らせる。二人を見送る際、ふと尋ねる。「ねぇ、結婚して何年目?」「そうだなぁ、今年でちょうど四十年目だ」「やー、四十年目?! 私が生きてるのより長いじゃない!」「当たり前だろうがっ、おまえは結婚五年目に産まれたんだっ」「あ、そうか…」。そんな言葉を交わし、苦笑を交わし、手を振り合う。娘が「ばぁばぁ!! じぃじぃ!!」と大声で叫び、突然二ブロック先の彼らのところまで駆け出す。そして二人に飛びついて、三人は抱き合いながら何かしら言葉を交わしている。私はそんな光景を離れたところから見つめ、これでよかったんだと自分の中で思う。
 父母とあれほどいがみ合った日々はもう、遠い。いや、私の中で思い出すのならばすぐにでもありありと思い出すことはできる。けれど。
 もう、終わったことなのだ、過ぎたことなのだ、と、そう、思う。あれらの日々を何とかやり直そうと、得られなかったものたちを何とか取り戻そうと、必死になっていた時期があった。これでもかというほど私は、それらに飢えていた。そう、彼らからの愛に。
 でも、もういいのだ。私は自ら娘を育てるという行為から、得ることのできなかったものたちでもなぞり得ることを知った。自分では飢えていたと思う一方で、彼らは彼らなりに腕いっぱいの愛を注いでくれていたのだということも知った。だからもう大丈夫。私はやっていける。
 もちろん、時として不安に襲われることはある。いや、そんなことはしょっちゅうだ。娘に私は同じことをしていやしないか、親からされて悲しかったこと辛かったことを娘にしていやしないか、と。私は万全な人間ではない、たかがこれっぽっちの人間だから、ちょっと進むごとに不安になる、怖くなる、これでいいのか、これで大丈夫なのか、と。
 でも。答えはないんだ。何処にも。だから人はきっと、これほどに迷うのだ、戸惑い足掻くのだ、これでいいのか、と。今は、そう、思う。

 「ママ、今日ね、運動会の絵描いたんだよ」「ほんと? どんなの描いたの?」「みうはね、こうやって腕振って走ってるところにしたの」「すごいじゃんっ、みうが動いている絵を描くなんて初めてじゃないの!」「ひひひ」「画の中には何人出てくるの?」「三人!」「ほうっ、三人かっ、誰れ?」「ひみつっ!」「え? なんでよー! 教えてよー!」「だめっ、秘密なの!」「つまんないなー」「ちーちゃんなんてね、五人も描いたんだよ」「五人も?」「そう、でもね、五人も描いたからみんな細いんだよ」「ははははは。そうだねぇ、画用紙の大きさは同じだもんね、みんな」「だから、みうはみんな、丸くした」「え? 丸く?」「うん、ちゃんとお肉ついてるよ」「あ…なるほど」。
 保育園の帰り道、もう夕日はすっかり堕ちて、辺りは闇色に包まれている。街灯がぽつっぽつっと灯り、私たちはその合間を歩く。
 ねこじゃらしを山ほど摘んで、娘はそれを片手に握り締めて私たちの部屋のあるマンション入口へと駆け出してゆく。この時間帯、そこには必ず猫たちがいるからだ。猫にゃーんと言いながら駆け寄る彼女に慄いて、猫は一瞬ひるむのだけれども、しょうがねぇなぁといった顔つきで娘が来るのを待っていてくれる。娘は猫じゃらしで思い切り、その猫たちの背中を撫でる。
 あと五年、あと十年したら。娘はもう一丁前の顔をしているのだろう。あんたなんか大嫌い、なんて私に言ってのけているかもしれない。きっと五年十年なんて、あっという間に過ぎる。私は私で、自分のその後の人生を考える頃なのかもしれない。そんなことを、ふと、思う。
 振り返ると、今来た道筋、街灯が小さな明かりを点々と連ねている。私たちの歩いてきた道筋に点る灯り。とてもとても小さいけれど、それらが灯す闇はそれでも、仄明るい。


2005年10月08日(土) 
 朝何よりも最初に私が為すことは、窓を開けることだ。娘におはようと声をかけながら、通りに面した窓を全部開けてゆく。それが半分でも全部でも、とりあえず開けないと気がすまない。窓を開け、そこから風が滑り込み、部屋を通ってゆかないと、どうも気がすまない。だから私は今日も窓を開ける。
 毎朝少しずつ、温度が低くなる。開けた瞬間、あぁ空気が心地よいと感じられるのも、多分あと僅かな時間だろう。じきに、ぶるりと首を竦めるような大気に変化してゆくに違いない。季節はあっという間に移り変わってゆく。
 久しぶりに雲間から日差しが零れる。陽光が街路樹に降り注ぐ、街路樹の足元からは薄い影が伸びる。その影はまるで日時計のように、私に過ぎゆく時の速度を教える。だから私は、その影の長さや向きに追い立てられるかのように、洗濯機を数回回し、布団を干し、箒を動かす。
 実はこの一ヶ月近く、私はかなり酷い鬱状態に陥っていた。朝目を覚ましても身体を起こすことが苦痛で、とはいっても娘を保育園に送っていかなければならないから這いずるようにして寝床から起き上がる、でも、それを済ませると、まるで布団に穴が開いているんじゃなかろうかというほど深い闇に再び落ち込んでゆくのだった。結局朝から夕方まで、寝床から起き上がることが殆どできず、とりあえず起き上がるのはトイレに通う為だけ、という状態がしばらく続いていた。今もそうだといえばそうなのだけれども、先日処方してもらった薬のおかげで、ようやくここ数日、起き上がることができるようになった。薬のおかげとはまさにこのこと。そう思うほどに、薬とは何と威力を持った代物なのかを痛感させられて、正直ちょっと怖くなる。こんな代物を飲み続けて十数年、本当に自分はこれで大丈夫なのか、と。だからといって、今自分からこれらの薬を遮断したら、多分私の日常は成り立たないのだろう。今は薬で調整しなければどうにもならない自分の正体もこれでもかというほど思い知っている私は、とりあえずぶるんぶるんと要らぬ考えを頭から追い出し、とりあえず動けるうちにとあれやこれや用事を済ます。

 夜になって、雨が降り出す。激しく降りつけたり、かと思うとぱたりと止んだり。その繰り返しだ。この分だと、明日晴れたとしても、校庭はぐしょぐしょの状態だろう。運動会は大丈夫なんだろうか。娘の寝顔を横目に、私は心配になる。頼むから明日、晴れて欲しい。天気予報を操作できるなら、何をさておいても操作しまくって、半日でもいいから晴れ間を作ってやりたい。軒先で揺れる照る照る坊主をぼんやり眺めながら、そんな叶わぬことを、思ってみたりする。

 鬱と引き換えに、私は左腕に刃を立てなくなった。今思えばそうだというだけで、当時おのずからそう決めたわけでも何でもない。ただ、あまりに深く切りすぎて、はっとして抑えた指と指の間からぼたぼたと容赦なく落ちる血滴を、呆然と見送っていたあの後から、このままじゃまさに病院送りだ、入院だと、自分でも思わざるを得なくなった。いや、そんなこと、とうの昔に分かってたことじゃないかと思うのだけれども、どうも私は自覚が足りないらしく、ついでに悪足掻きも人一倍らしく、何とかなるさと心の何処かで思っていた節がある。慢心していたのだな、と、今なら分かるけれども。
 近しい友人には繰り返し言われていた。今にとんでもないことになるよ、と。私の無残な左腕を撫でながら、友人たちは真剣に私にそう繰り返してくれた。それでも。
 それでも、止めることが出来なかった。あれはどうしてなのだろう。分からない。もうある意味、毎日の習慣のようになっていた。一日のリズムのようになっていた。最後、自らの血ですべてを洗わなければ、私の一日は終わらない、というような。翻って、強迫観念のようにさえなっていた。刃はもう、私の手の一部だった。
 切る場所がない、これまで切り刻んできたその傷跡が治る暇も与えずその行為を繰り返しているのだから、切る場所がなくなるのも当然の話、それでも、何処かに隙間はないか、何処かに余地はないか、と、執念の塊のようになって私は切る場所を探した。見つからないならこの傷たちの上からさらに切り刻んでしまえと、何度刃を突き刺したか知れない。おかげで、私の左腕の皮膚はこの半年あまりの間に、右のそれと比べて何倍も、厚くなってしまった。そんなもん、だ。
 そうして切り刻むことを止めて数日後から、私は動けなくなったのだった。最近になって、友人にそのことを指摘されて改めて気がづいた。気づいて、我ながら自分に嫌気がさした。でも、嫌気がさしたからとて、どうにかなるものではない。自分はとことん自分と付き合ってゆくしか術はないのだから。

 そんな私の所に、北の国の友人から便りが届く。
 「父の同級生がガンになって、長くないみたい。で、私は思ったの。限られた命を生きていくのと、壊れた心と体を抱えて、いつ治るかも判らずフラッシュバックやパニックに怯えて生きていくのと、どちらがより不幸かしらね? ごめんね、変なこと聞いて。私も、ちょっと疲れてるみたい」。
 彼女のそんな言葉を読み、そういえば昔、私も彼女と同じことを考えたことがあったなぁと、そのことをまず思い出した。そして、不幸自慢大会じゃぁないけれど、あなたより私の方がどれほど辛いかしんどいか、ということばかりを挙げて、悲劇のヒロインぶっていた時期が確かにあった。今思えば、我ながらおばかだったなと苦笑えるけれども。
 正直、今の私には、どちらが不幸なのか分からない。どちらにしても、それが自分に与えられた運命ならばそれを生きるのみ、というのが、多分私の唯一の答えだ。
 誰かと比べることに費やしている時間は、はっきりいって、無い。そんなことに費やすなら、自分をいかに表現しカタチにするか悪戦苦闘することに時間を費やしたいからだ。もっと直裁に言えば、他人と比べて不幸だとか幸福だとか、そういったことに対する興味が今の私には殆ど無い。正直言って、どうでもいい。
 多分、自分が幸せか不幸せかは、自分の物差しで計るものなのだろう。自分の物差しで計りながら、私の物差しは他人のそれと同じかしらそれとも違うのかしらと、びくびくしながら周囲を窺う。窺ってみると、どうも私のそれより他人のそれの方がいいらしいわと思い込み、疑心暗鬼にかられ、自ら穴に落ち込んでゆく。私にはそう思える。
 いったん他人と比べ始めると、ありとあらゆるものを比べたくなる。そうして次から次に周囲と自分とを比べ、しまいには頭を抱えるのだ。私は一体どうしたらいいの、と。
 でも、そんな問いへの答えは、何処にもないように今の私には思える。だから、問わない。比べない。覗かない。もしちらりと他所を覗いてみたいという誘惑に駆られたら、とりあえず自分の足元をしっかと見てからにする。でないと自分がぶれるから。誘惑に弱くてすぐに軸がぶれてしまうという自分の弱さを、もうこれでもかというほど知っているから。
 友人のその便りの文言を読み、しばし思いに耽り、私は返事を書く。とりあえず、今の自分を充分に生きようよ、と。ポンコツ車にはポンコツの走り方、うまい操り方が、多分何処かにあるよ、と。

 窓からは夜風が絶え間なく滑り込んでくる。湿り気を帯びた風。でも、とりあえず今、雨は止んだ。このまま明日まで止んでくれたら。
 それにしても、今日は本当に久しぶりにあれやこれや用事を済ますことができた。もちろん、この半月で溜まりに溜まっている諸々の用事は、すでに、今日一日動いたからといって済ませられない量になってしまっているのだけれども。そして、たとえ薬の効果だとしても、とりあえず日中少しでも動くことができたということは、私の明日への励みに、なる。
 窓辺に立って、私は最後にもう一度繰り返す。明日天気になぁれ。そうして覗き見た表通り、濡れたアスファルトに落ちる街灯の明かりが、何だか妙に、眩しい。


2005年10月07日(金) 
 裏の小学校の校庭に、色とりどりの国旗が翻る。運動会のリハーサルを毎日のように重ねる子供たちの声で、辺りは賑わう。運動会当日、そんな子供たちの姿を、親はそれぞれに目を細めて見つめるのだろう。手に手にカメラを抱えて。
 うちの娘も、今、組体操やら鼓笛隊やらのリハーサルで忙しい。毎日毎日練習をしているようだ。今年で保育園の運動会は最後になる。天気予報では、運動会に当てられた週末の日は雨模様と告げている。雨天の場合中止になってしまう運動会。私は娘に隠れて、こっそり照る照る坊主を作る。彼女たちの毎日の練習が報われますように。心の中でそう祈りながら。
 そんなこんなで毎日は忙しく過ぎてゆく。街路樹が湛える葉々のうち、色づいたものがいち早く散り落ちてゆく。通りを歩けば、風に吹かれてアスファルトを滑る枯葉が、かさこそと立てる音が耳に響く。
 モミジフウの樹には、今年もあの実がぶらさがる。病院の帰り道、何気なく美術館の裏の広場へ足を向けると、遠目からも分かるほど、ぶらんぶらんと実が風に揺れているのが見てとれる。私はそれを見つめるだけで、心がほぐれてゆくのを感じる。あの実はまるでかつての私のようだ。ぶらんぶらんと、右に左に揺れて、何処にも定まる場所を持てない、そんなかつての私のようだ、と。
 じゃぁ今は違うのかと問われれば、まだまだだとしか私は答えられないだろう。それでも、娘がここに在ることが、この世に在るということが、私の背中をばしんと叩く。そんなだらしない背中を見せて情けなくないのかという声が、私の心の中で木霊する。だから私は、這いずってでも、何とか立ってみせようと試みる。
 昔はそんな自分が、さらに情けなく、嫌悪せずにはいられなかった。でも、それはそれでいいんだ、と、最近は思う。結果的に彼女が見つめる私の背中が、しゃんと立っていれば、その過程はどうでもいいかな、と。
 そう思うとき、自分の幼さが露呈されて苦笑せずにはいられなくなる。あぁ私は、努力していることまで報われたいと思っていたのだな、と、そのことを思い知らされるからだ。自分はこんなにも努力しているのだ、だから分かってくれ、と、そんなことを常に願っていたのかもしれない。でも。
 努力していることを認めてもらったからとて、結局自分がしゃんとできなければ、多分私は自分を嫌悪する。そのことが分かってから、少し、楽になった。どんな泥だらけの努力を費やそうと、そんなもん自分の中に留めておくだけで充分だと、そう思うことができるようになったから。そうして気が楽になった分、娘に笑顔を向ける余裕ができた。そんな気がする。

 先日、この部屋の更新手続きの書類がポストに届いていた。受け取ってはじめて、あれからもう二年が過ぎたことを私は知った。この部屋で娘と暮らし始めて二年。長かったような短かったような、摩訶不思議な時間がそこには在る。この部屋の契約を更新するということは、余程のことがない限りこれからまた二年ここに住むということ。二年後、私たちは一体どんな暮らしをしているのだろう。分からない。皆目検討がつかない。そもそも、そのとき私たちはここに在るのだろうか。そもそも私はまだ、ここで過ごしたこれまでの時間が二年という時間に相当するということに、実感が持てないというのが正直なところだ。
 娘を起こさぬよう布団から身体を滑らせて起き上がる。窓を開け外を見やる。見上げる空に月は見えぬ。昼間吹き付ける風も、今は眠り時なのだろうか、さやさやと時折街路樹の葉を揺らす程度にしかそよがない。
 じきに紅葉の季節が訪れる。その頃には多分、私は展覧会でてんてこ舞いの状況にあるんだろう。今は産みの苦しみとでもいうべきか。
 ふと、空に手を伸ばす。私の手は何も掴めないで宙を漂う。そんな私の腕を、微風がしずかに滑ってゆく。


遠藤みちる HOMEMAIL

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