見つめる日々

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2004年07月24日(土) 
 窓から滑り込む夜風が、首筋をするりと撫でてゆく。じきに、明日だった日が今日になり、今日は昨日へと流れゆく時間。娘の寝息より他は、窓の外を行き交う車の音だけ。
 寝つきの悪い娘は、布団に横になると、保育園ごっこか絵本を読むことのどちらかを、毎晩選ぶ。今夜は絵本だった。話の長そうなものを選ばれて、私は正直うんざりし、適当にはしょって読み聞かせる。が、ひらがなが少しずつ読めるようになった彼女は、「ママ、ここも読んで。今読まなかったでしょ」と、すかさず指摘してくる。指摘されちゃぁしょうがないと、私はしぶしぶその箇所を読む。
 読み終えた後、じゃぁ電気消して寝よう、という段になって、彼女がだだをこねはじめた。どうも眠る気分になっていないらしい。私は彼女のおしゃべりに適当に相槌をうってみる。すると、彼女は憤慨したといった表情を突然浮かべ、「もういいよ、ママなんて好きじゃなくなった、ママだってあぁこのこと好きじゃないんでしょ!」と言い捨て、くるりと私に背中を向けた。
 いつもだったら、ここで、「いいもーん、ママはあぁこがママのこと好きじゃなくたってあぁこのこと愛してるもーん」と、笑いながら答えるのだが、今日に限ってそういう余裕が私にはなかったらしい。「いいよ、もう、ママが何したってあぁこはママのこと嫌いなんでしょ、もういいよ」と、私も言い捨ててしまう。そして彼女と同じようにくるりと背中を向けてみた。
 沈黙。その沈黙を先に破ったのは、彼女だった。
 「ママ、どうしてそんなこと言うの? あぁこはね、ママのこと愛したいのよ。なのにママがそんなこと言ったらあぁこは愛せないじゃない」。
 私はびっくりしたものの、びっくりした顔を彼女に見せるのがいやだったので、黙って、喋り続ける彼女の顔を見つめる。
 「あのね、ママ、そういうの、いけないんだよ。ちゃんと仲直りしなくちゃいけないんだよ。なのにどうしてママはそんなこと言うの? あぁこを困らせてママは楽しいの? そんなことされたらあぁこは何にもできないじゃない」。
 私は心の中でさらに吃驚している。あぁこがここまで長々とひとりで喋るのは初めてじゃぁないのか? でもよりによってこんな台詞を彼女が喋るとは。私はもう吃驚を通り越して笑い出したくなってしまい、咄嗟にタオルケットを顔半分まで引き上げる。布団の下では、笑い声をかみ殺した私の唇が、ぷつぷつと緩んでいる。
 「ママ、あぁこはね、愛したいのよ。愛してるのよ。なのにね、そういうこと言うのは意地悪なのよ。ママ、聞いてる?」
 聞いてますよ、もちろん聞いてますよ。すごいなぁ、あぁこ、あんた、いつの間にこんなに喋れるようになったの? 微妙に筋は通ってないけど、でも、あんた、立派に反論してるじゃない、すごいじゃない、これはもうすごい以外の何者でもないじゃない、いやぁ参ったなぁ。------私の心の中は、もう彼女への賞賛の拍手が鳴り響いている。でも、とりあえず必死に笑いをこらえながら、彼女にもうちょっと喋らせてみる。
 「あのね、ママ、愛するって大事なのよ。いつもママがそう言うのに、どうして今日は、ママがそんなことするの? ママ、意地悪よ。だめなのよ、意地悪しちゃ。仲直りしなくちゃいけないんだから。分かってるの、ママ?」

 結論だけ言えば、私と彼女はもちろん仲直りをした。仲直りした後、彼女がおなかを撫でてほしいというので彼女が眠りにつくまで私はずっと彼女のおなかを撫でていた。そおっとそおっと、円を描くようにして。
 そして。今、ひとりになって。私は先ほどの彼女の言葉を思い出す。そして、私は思う。
 あぁこ、あんた、すごいねぇ、もうそんなこと言えるようになったのね、一体何処で覚えたの、あんたはあんたの意見をちゃんと言って、私に反論して、立派に最後まで言い切った。見事だよ、あぁこ、感服するよ、嬉しいよ、ママは。
 そして思い出すのは、自分の幼少の記憶。
 反論なんて許されなかった。自分の意見なんてものはないに等しいものだった。そう扱われることに反発を覚えても、それを形にして表現できる術を私は持っていなかった。だから何処までも父母のいいなりになることで、彼らから愛してもらおうと必死になっていた。そんな私が、小さな私が、記憶の中で膝を抱えて震えている。愛してもらいたくて愛してもらいたくて、そのためになら自分を殺すことなどどうでもよかった。愛してもらえるなら何をしたって平気だった。そして気づいたら、自分なんて木っ端微塵に砕け散り、残骸の中で途方に暮れている、そんな自分しか、私には残っていなかった。
 そしてまた、そうやって育った私は、同じことを子供にしてしまうのではないかと、そのことに恐怖していた。
 でも。
 やるじゃん、娘よ。よく言った、娘よ。母は嬉しい。万歳をしたいくらいに嬉しい。いいぞ、いいぞ、どんどん言え。どんどん言い返せ。あなたにはあなたの思いがあり、私には私の思いがある。それを、お互いに伝え合えることの、なんと素敵なことだろう。筋なんて多少通っていなくたっていい、時に言い争いになったっていい、それでも、自分の言葉で自分の声で何かを伝えることは、とても大切なこと。母と娘という立場は確かにあるけれど、それ以上に、私たちは別々の、一個一個の人間だから。すれ違って当たり前、行き違って当たり前、だからこそお互いにお互いを晒し、近寄れる場所を見つける必要があるんだ。あぁだから嬉しい。今夜の君の言葉を、私は当分忘れられそうにない。いや、言葉じゃない、君が君の気持ちを私にちゃんと表現してくれたというそのこと。私は多分、当分覚えていて、思い出すたびに嬉しさを噛み締めるに違いない。
 あぁ。虐待連鎖。かつて何かの書物で読み、私の心に痛いほど刻まれてしまった文字を、私は指でなぞってみる。そして、その文字を描いた頁を、今、そっと閉じてみる。
 何もかもが連鎖するわけじゃない。私次第で、そして、彼女次第で、私たちの頁はいくらでも新しく作ることができる。これから描かれてゆくだろう白い頁は、そう、新しくこれから描いてゆくもの。

 いつの間にか、時計は深夜0時を回っている。つい今しがたまで明日だった日が今日になり、今日は昨日へと流れゆく。毎日は繰り返しのように見えるけれど、確かに生活というものは習慣で成り立っているようなものだけれども。
 新しい頁を作ってゆくのは、自分たちなんだな、と。そしてそれは、決して古い頁ではなく、いつだって新しい頁なのだと。
 彼女はまた、私にひとつ、大事なことを教えてくれる。


2004年07月21日(水) 
 空の釜が煮え繰り返っているのではないかと思えるほどの暑さが続いている。最近は毎晩、水風呂に浸かる。もともとぬるくしているというのに、私の目を盗んで後から後から水をだばだばと足してゆく娘のおかげで、気づけばお風呂はプールと同じ程度かそれ以下の水温になっている。寒いね、冷たいね、と言いながら、それでもその冷たさが心地よくて、私たちは長々と風呂に浸かる。
 そんな娘が昨夕、こんなことを言った。「ママ、おかず買おうよ」。びっくりして、買わないよと答えると、娘のほっぺたがぷーっと膨れる。「だっておかず食べたいもん」。参った。ここ一週間ほどの献立を思い出して、私は頭が下がる思いがした。この暑さで私は食べる気力も作る気力もなく、ごくごく簡単なものを少量作ってテーブルの上に何品か出す、という程度で済ませてしまっていた。それは、娘がおかずが食べたいと言うのも無理はないような、さびしい食卓だったと思う。
 そして私は思い出す。かつて実家で家族として暮らしていた頃の、弟の言葉を。
 弟は、高校を卒業して料理人の道を歩み始めた。その折、彼はこんなことを言っていたのだ。「俺が料理人になろうと思ったのは、おふくろのせいなんだ」「どうして?」「姉貴、思わないか? おふくろさ、いつだって適当な料理だったろ? みんなのために作りましたー!っていう料理じゃなかった。俺は、あれが結構嫌いだった」「そうなの?」「だから、俺はそんな料理作りたくないと思って、じゃぁ料理をちゃんと勉強しようと思ったんだ。だから料理人になろうと思った」。この言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。確かに母の料理は、弟から見たら、適当以外の何者でもなかったかもしれないと思えたからだ。そして今。今、私はもしかしたら、そのかつての母と同じことを、娘にしてしまっていたのかもしれない。
 「ごめんね、じゃぁ今日は、あぁこが好きなもの作ろうか。何にする?」「エビフライ!」「…え?」「えび好きだもん!」「いや、でも、もうちょっと楽なものを…」「やだー!エビフライ!」「…はい」。
 子供を育てるということは、過去のトラウマにリハビリをさせるようなものかもしれない、と、この間、私はふっと思った。子供を育てるという過程で、私は否応なく自分の過去と向き合わざるを得なくなる。向き合った結果、私は、たいていにおいて癒される。それは、あぁあれはそういうことだったかという納得であったり、あぁこんなことがあったんだよな、あれは辛かったなという涙の味にも似た塩辛さであったり。
 昔まだ子供を授かる前は、子供を育てることで向き合うのだろう自分の体験なんて、きっと辛いだけだと思っていた。辛いだろうから、もしそうなったら、私は同じことを娘に為し、自分がかつてそうであったように娘に同じ思いをさせてしまうんじゃないか、そう恐れていた。
 確かに、そうかもしれない。でも、それ以上に、私は彼女と、彼女を通して向き合う自分の過去とに、癒されている。はっきりと、私はそう言える。
 自分の傷として残っている幾つもの痕。その痕と、真正面から向き合うことで、こんなにも癒されるとは。いや、正面と向き合うからこそ、逆に、素直に受け容れることができる。そんな気がするのだ。実際にそうなってみるまで、私は知らなかった。向き合うこと、受け容れることで、どれほどに自分の世界がやさしくなれるかを。
 どんな類のことでも、それが始まる前には、いろんな思いが交錯する。それは恐れであったり、不安であったり、辛苦であったり。でも。
 多分、恐れる必要は、何もないのだ。おのずとやってくるものを、やってくることを、遮る必要は何処にもないのだ。向き合って受け容れて、そうして私はきっと、また一つ、歳を重ねることができる。また一つ、何かにやさしくなれる。そんな気が、する。


2004年07月12日(月) 
 診察を終えて病院から出るその瞬間。射るような日差しにくらりと体が揺れる。額に手をかざし目を細めて見上げた空は、右手の方から鼠色の雲が広がって来るところ。雨でも降るのだろうか。そういえば天気予報を確かめなかった。そんなことを思いながら左手の空を振り仰げば、青々と澄み渡る空。ちょうど私の体を境に、右は鼠色、左は澄み渡る青。しばらくその空の色を、私は眺めていた。
 処方箋を受け取り電車に乗り辿る家路。その間、見慣れた風景が私を過ぎ去ってゆく。でも何故だろう、どの風景にも立ち止まれない。私はすぅすぅと体から心から抜けゆく空気の音を耳の中で聞いているような錯覚を覚える。何処までも世界が上滑りしてゆく。そんな感覚。
 気がつけばもう、玄関の前に私は立っており。さて、ここまでどうやって帰ってきたのかと首を傾げる。実感を伴わない映像は何処までも私の心の壁を流れ落ち、指を伸ばしても砂の城のようにさらさらと風に消えてゆく。黙って誰もいない家の扉を開ける。その瞬間、聞き慣れた娘の声が蘇る。「ただいま」。彼女は保育園から帰ってきた折、時々思いついたようにその言葉を口にする。ただいまぁ。だから、彼女の後から家の中に入った私が彼女の声に答える。おかえりなさぁい。そんなとき彼女はきまってつんと鼻を上げて、自慢げに奥に入ってゆくのだった。ただいま。彼女の声が私の頭の中で木霊する。誰もいないけれど、私は言ってみる。おかえり。少しだけ、気のせいかもしれないけれども少しだけ、ここが私の場所だという実感が私をかすめてゆく。
 先日、父が交通事故に遭った。トンネルの中を車で走っていた折、隣の車線を走っていたはずの女性の運転する車がどんどん父の車に近づいて来る。おかしいなぁと思いながら父は速度を守って運転を続ける。その間にもどんどん左に寄ってくる車。これはまずいと父が思ったときは遅く、気づけば左のトンネルの壁に衝突し、その衝撃で父の車は右のトンネルの壁まで飛ばされる。次に父の中に残っている映像は、大破した車の中で呆然としている自分だったという。
 事故は、携帯電話で通話しながら運転していた女性の、完全なるミスだった。父は幸いたいした怪我も負わずに済んだ。ほっと胸をなでおろした私に、父がこんなことを呟く。
 「あの時一瞬、俺は生まれて初めて死を意識したよ。あぁ俺はここでもう死んでしまうのかな、ってな。今俺が死んだらおまえたちがとても困るだろうな、母さんが困るだろうな、あぁどうしようか、そう思った。今死ぬのは困るんだがなぁ、ってな。俺はあと十年は、どうやっても生きなきゃならないのになぁって。そう思ったよ」。
 父の呟きに、私はしばし黙って、それを聞き、受け止めた。
 この数年の間、私が私なりに選んだ道を歩いてきたとはいえ、それはきっと親から見れば、とても切なく哀しいことだったのかもしれない。いや、どう言ったらいいのだろう、私が私なりの選択をしたことによって、新たに背負うことになった幾つもの荷物の山を見て、父母は父母なりに心を痛めているのだな、と。多分今、私たちを一番心配しているのは、この父母なのだろうな、と。それはひどく当たり前だけれども、私はそのことを、改めて噛み締める思いがした。まだあと十年は生きなければ。そう思ってくれる父母に、私たち母娘がどれほどに強く支えられているか。ありがとうという言葉の代わりに、私は言ってみる。どうであれよかったよ父さん、そうよ、何かあったら困るんだから、しっかりしてよ。そう言ってからからと笑ってみる。苦笑いをする父の横顔を、私はそっと盗み見る。

 それからもうひとつ、友人の個展のオープニングパーティに娘と共に参加させてもらうという出来事を経る。電車を延々乗り継いでゆく長い道程。普段なら「ママ、おんぶして、もう歩くのやだ」とごねる娘が、一言もそんなことを言わずに一生懸命ついてくる。実は、夕方からこんなふうに遠出するのは、私も娘も初めてのこと。私が夜外出しない理由は簡単で、もう二度とあんなめに遭いたくないということと、あの体験を経てからというもの人ごみや暗がりがこれでもかというほど怖いから。でも。
 無理をして頑張って出掛けてみてよかったと、つくづく思う。
 会場となった小さな店の中、集まった人たち。その誰もが、何の境もなく、娘を受け容れてくれる。一人だけ場違いな幼い娘相手に、いやな顔ひとつ見せず、同じ目線になって遊んでくれる。そして彼女の母であるはずの私が、母親業を怠けてアルコールに口をつけることまで笑って眺めていてくれる。友人のオープニングパーティだというのに、私たちは彼女の個展を祝いにきたはずなのに、休ませて楽しませてもらったのは、逆に私や娘の方のような、そんな申し訳なさとありがたさをつくづくと感じる。頭を何度下げても足りないくらいの感謝を、どう言葉に表したらいいのか分からないから、私は何も言えず、その代わりといったら何だが、何処までもくすくすと笑って過ごす。
 でもそんな楽しい時間というのはあっという間に過ぎるもの。時計の針の具合をちろちろと伺いながら、もうそろそろおうちに帰ろうか、と彼女に声をかける。娘はわーんと声を上げて泣いた。また会えるから、と、私は繰り返し彼女の耳元で囁く。そうして私たちは、とてもあったかい気持ちをみんなからもらったまま家路を辿る。
 その帰り道の電車の中でおぞましい感覚が私を襲う。突然後ろから背中を触られ、その手が執拗に私の体をまさぐろうとする。声が出ない。頭の中はパニックになり、かつての事件に絡まるあらゆる記憶が音を立てて私に襲いかかって来る。これでもか、これでもかというほど記憶は私の首を締める。それは一瞬のことだったろうけれども、私には永遠のように長く感じられ、もうダメかと一瞬思いかける。私は咄嗟に、目の前に座っている娘の顔を見る。すると何故だろう、微かだが声が出た。振り向けば、私の反撃なぞには全然動じることのない、にやけた顔がすぐ後ろにあった。瞬間、こみあげてくる吐き気。もう一度言ってみる。ヤメテクダサイ。
 運が良かったのかもしれない、私のすぐ隣に立っていた女性が気づいてくれて、彼女が私よりも大きな声を上げてくれた。次の駅でその男性は下車したが、私の網膜からはその男の表情が離れてくれない。私の声を聞いても隣の女性の声を聞いても、その男は笑っていた。降りてゆくその瞬間まで、そいつは笑っていた。内臓をナイフでぐいとえぐられたようなあの気味悪さ。ふらふらとその場にしゃがみこみたい衝動を押さえ、私は娘の頬に手を伸ばす。大丈夫、私は大丈夫、まだやれる。それが暗示だと分かっていても、私は心の中で繰り返す。大丈夫、まだやれる。娘は何も言わず、私をじっと見、そして、にっと笑った。そう、大丈夫、まだまだやれる。私も彼女に笑い返す。そう、大丈夫。私は大丈夫。
 何とか家まで辿りつき、娘を寝かしつけてから思う。私は、彼女に、この現実の世界をどう伝えていったらいいのだろう。そのことが頭から離れない。小さな彼女を快く両手を広げて受け止めてくれる人もいれば、一方、電車の中の男のように狂気の眼差しでもってその体を玩具にするような人間も同時に存在する。それが私たちの生きる世界。そのことを、一体どう伝えていったらいいのだろう。私は途方に暮れる。右掌に乗る現実、左掌に乗る現実。その両方がこんなにも相反するものだけれども、でも、これらが同時に存在しているのが私たちの世界なのだと。一体どうやって。
 まだ私は何の答えも持っていない。もしかしたら一生答えなんて見つけられないのかもしれない。でも。
 いいところだけ、或いは悪いところだけ、どちらかだけを伝えてゆくのではなく、その両方を貴女に伝えられる、そういう人間でありたい。そのことだけは、強く、思う。

 窓の外広がるのは、すっかり鼠色の雲に覆われた空。やっぱり雨が、降るのかもしれない。


2004年07月05日(月) 
 病院からの帰り道、あまりの日差しの強さに視界がくらくらする。かと思えば、突然かぁっと熱風が下から吹き上げてきたかのような熱さに頭部が飲み込まれ、自転車を支えにじっと立っているのが限界というような。地を這いずるような思いでようやく家まで辿り着く。夏はまだ始まったばかり。この夏を私は一体どうやって越えたらいいのだろう、夏の初めには、必ず私はそう思い途方に暮れる。
 偶然つけたテレビで、いやなニュースが流れる。昭和六十三年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で逮捕された少年四人のうちの一人が、知り合いの男性を監禁して殴るけるの暴行を加えたとして、警視庁竹の塚署に逮捕監禁致傷の疑いで逮捕されたとのこと。いきなり大気の重力が二倍、三倍になったような感覚。テレビのニュースは私の目の中を滑り落ちるように流れ、私は憂鬱な思いでスイッチを切る。
 いつだって思うのだ。私は。どうして被害者の人権は守られることが少なくて、一方、加害者の人権は何処までも守られてゆくのだろう、と。
 たとえば今回の事件の被害者。それはもうとうの昔に命は失われ、その姿はこの世から消えてなくなっている。一方、加害者は当時少年だったというおかげで何処までも生き延びている。今回のことに限って言えば、生き延びた結果、再び犯罪を犯したということになる。法は言う。加害者の将来性を奪ってはいけない、まだまだ将来の可能性を秘めた少年たちをどう更正させるかなのだ、と。
 でも、その結果、再び被害者が出現し、加害者はいまだ名前さえまともに報道されない。こんなとき思うのだ。あの時命を奪われた少女の、その命の重さはどれほどだったか、と。
 私にとっての加害者も、再犯だった。それを知ったのは、事件が起きてからずっと後、私がPTSDとつきあうようになってからだった。知らされたとき、私は呆然とした。加害者は事件後、何度も私にわびの言葉を述べてきたが、あれはもしかしたらすべて嘘だったのか、申し訳なさそうにごめんねと言えば、すべてが帳消しになるとでも思ったか、そんなこと露ほども疑わずに信じた私は一体何だったのか、と。そしてまた、そのかつての事件も私の時と同様、会社ぐるみでもみ消されたという事実、その事実は、私の脳天を打ち砕くに充分なものだった。あぁこうやって、かつての事件も、そして私の事件も、人々にもみ消されてゆくのか、それっぽっちの代物だったか、私やかつての女性の一個の人間の価値とは、これほどに軽いものだったのか、と。
 もしあの時私が命を失っていたとしたら。そう考えるとぞっとする。私が命を失うほどの事態が起きてたって、周囲はきっと言うのだ、「加害者の人権を守れ」「加害者の将来性を奪ってはいけない」、そして、「罪を償ったなら、その後またこの社会の一員として生きる権利が加害者にはある」などと。
 でも、罪を償うって一体どういうことなんだ? 加害者が罪を償えば、再び被害者の命が蘇るとでもいうのならば、それならば多少は理解できる。でも、そんなことはあり得ないのだ。失われた命は失われたまま、二度と戻っては来ない。事件によって犯罪によって人間性を剥奪された被害者に、それまでと同じ人生は生活は、二度と戻って来ないのだ。そのことを、加害者或いは社会の人々は、一体どう捉えているのか。
 今回のニュースの報道は、こんなことも告げていた。その男の言った言葉として、「その男は、かつて自分は人を殺したことがある。一人殺したら二人も三人も同じだ、と言っていた」だとか、「捕まったって平気だ、どうやったら警察の目をくらますことができるかなんてもうとうに知っている」と言っていた、だとか。
 私の頭の中でがんがんと音が鳴り響く。音が大きくなるにつれて私の頭痛は酷くなり、果ては目玉が握り潰されるような痛みも覚え始める。何も食べていないはずなのに吐き気を覚え、私はトイレに駆け込むと、酸っぱい胃液を何処までも吐き出す。涙なんて出やしない、呆れて何の言葉も出ない。
 確かに、加害者たちの中には、本当に心底反省をしている方々も存在しているだろう。けれど、どう反省したって、命は戻ってこない、その犯罪によって奪われた人間性はそう簡単に回復なんてできやしないのだ。やり直しなんてとんでもない。そんなものあり得ない。すべてを奪われたその場所から、新たに歩き出すしか被害者に術は残されていない。
 たとえそれが、たった一度の犯罪だろうと、若い頃の犯罪だろうと、犯罪は犯罪なのだ。それ以外の何があり得るというのか。
 こんなニュースを知らされるたび、私は反吐を吐く思いを覚える。実際に胃液をトイレに吐き出して、吐き出して吐き出して、干からびるかのような錯覚を覚えながら、それでも私は、この世界で生きていかなければならない。この世に生まれ堕ちた一人として。
 憤りを覚えるとか、憎しみを覚えるとか、そんなもんじゃない。もうそこには、哀しみしかない。哀しみばかりが私をすっぽり包み込み、しばらくもう、そこから出ることは叶わない。
 気づけば外は夕暮れて、あっという間に夜闇が辺りを包み。私は娘を寝かしつける。寝かしつけながら、私は何処までも哀しい。

 人間とは、ヒトのアイダと書く。ヒトのアイダにいてこそ人間なのだ、と、その言葉が告げている。けれど、ヒトのアイダで生きるということは、なんて哀しいのだろう。
 それでも、私は多分、信じたいのだ。哀しくて哀しくてたまらないけれど、それでも、人間はきっと何処かに、どうしようもなくいとおしい何かを持っているはずだ、と。人間とは、愛すべき存在なのだ、と。それがどうしようもなくこれっぽっちのものであっても。
 そう、せめてそのことを信じていなければ、自分に課せられた重い荷物を引きずって死ぬまで生き続けることは、あまりにも哀しい。


2004年07月04日(日) 
 窓という窓をすべて開け放した部屋には、風が絶え間なく滑り込み、束ねておいたカーテンがひらひらと舞い踊る。ベランダでは、強過ぎる日差しでへとへとになった薔薇の葉々が、息絶え絶えになりながらこれもまた揺れている。
 お風呂場から響いて来るのは娘の嬌声。外へ遊びに行きたいという彼女を「お風呂をプールにしていいからと」なだめすかして、水遊びをさせている最中だ。水の中で、彼女は、ウォーターボーイズの真似事をしたり、プリキュアになってみたりと忙しい。私にはとうてい分からないような変身時の呪文を身振り付きで叫びながら、えいやっと見えない悪者をやっつける。彼女に見つからないようにそっと扉の隙間から覗いてみる私は、彼女に悟られないように、笑いをかみ殺すのに必死だ。
 七月最初の日曜日。水風呂から上がってきた彼女は、いつものようにベランダに出ると、あれやこれやと大声で叫んでいる。「神様ぁ、私に自転車を買ってくださぁい、みんなみたいに乗りたいのですぅ」「私の気持ちを分かってくださぁい、私はいつもこの世界を愛しているのですぅ」。この二つの台詞、一体どうやって繋がっているのか、私には到底分からない。だから彼女の後姿を黙って見つめているわけだが、気づけばぷぷぷっと笑いが漏れてしまう。すると彼女から鉄拳が飛んで来る。「ダメよ、ママ、神様はみんな見てるんだからね!」。彼女のまじめな顔に、私も神妙になりながらごめんなさいと答える。「神様はちゃんと見てるのよっ!」繰り返してそう言いながら、彼女はやっぱり大通りに向かって叫ぶ。「ママを許してあげてくださぁい」。ちょっと恥ずかしい。

 昨日の土曜日は、保育参観が為された。七夕にちなんでの制作。先生が順に折り紙の折り方を教え、最後に折ったものたちをのりで貼り付けてゆく。娘は先生の話を聞いているのかいないのか、あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろ、果てはぼんやりとあらぬ方向を眺めていたりして、私はひやひやさせられる。
 一通り参観が終わった後、懇談会となり、先生がこんなことをおっしゃる。「お絵描きの時、見本があればみんな一通りのことはできる。けれど、好きな絵を描いていいよと言うと、その好きな絵というのを自由に描くことができる生徒が、年々減ってきている。想像力がどんどん少なくなっているように感じられる」と。
 そして今日、娘は大好きなお絵描きをしている最中に、何度か私に尋ねる。「ママ、紫色の髪の毛でもいいんだよね?」「いいよ、好きに描きなよ」「でもね、前に紫の髪の毛の人描いたら、こんなのいないよ、ってお友達に言われた」「ふぅん、そうなんだ。でも、今じゃいろんな髪の毛の人がいるよね。紅く染めてる人もいるし、金髪の人もいるし。ママの好きな美輪明宏っていう人なんて、まっ黄色だし。紫の髪の毛の人がいてもいいんじゃないの?」「そうなんだ、じゃぁ描こう」。そういうやりとりが何度かあった。今までそんなやりとりをいちいち考えたことはなかったのだが、ふと私は立ち止まる。紫の髪の毛でも、緑の花でも、茶色い空でも、それはそれでいいじゃないか。私は常々そう思っているが、彼女はそれを描くのに、少しばかりのためらいを覚えているのだろうか。これを描いたらまた違うよ、こんなのないよと誰かに言われるんじゃないか、と。確かに、そう言われるのはあんまりいい気分がしないだろう。でも。
 私は試しに彼女のお絵描き帖のはじっこに、架空の動物を描いてみる。「ママ、それ何?」「これはママの夢の中に出てきた動物」「なんて名前なの? こんなの動物園にいないよ」「うん、動物園にはいなくても、ママの夢のなかにはいたからいいの。これはねぇ、夢の中でパパスって言われてたから、きっとパパスって動物なんだよ」「ママの嘘つきぃ、そんな動物いないもん!」「そう? いいじゃーん、ママはパパス知ってるもんねー」「…」「何?」「じゃ、これは何だ?!」。そうして彼女が描いた代物は、猫と鳥を合体させたような体をしていて、なおかつ狐のような尻尾を持っている動物だった。「うーん、これ、何て名前?」「これはね、クルミって言うの」「え?クルミ?」「そう、さくらクルミって言うのよ」「…何してるとこ?」「お空にお水あげてるの」「…」。それから彼女のお絵描き帖にはあっちこっちに架空の動物、架空の人間が現れる。そこはもう夢の動物園のようになってくる。私も面白くなって、彼女の絵の脇に、思いつくまま適当に描く。
 彼女を寝かしつけて、今、そのお絵描き帖を改めて眺める。そしてちょっと思う。たった四歳の彼女の頭の中にはすでに、正しいものを描かなければいけない、というような思いが何処かにあるのかもしれないな、と。
 でも、正しいものって何だろう。
 正しい、とか、これが良いとか言われる道筋からはずいぶん外れた場所を歩いている私には、世間で言われるところの正しいものという意味が、実は今一つわかっていないのかもしれない。
 でも、人様に迷惑をかけなければ、別にどんな道を進んでいったっていいはずなんだ。自分で自分の責任がちゃんと取れるなら、それでもう充分正しい道のはずだ、その者にとって。だったら、私は何を彼女に伝えてゆけばいいのだろう。
 自分で考えて自分で選びなさい。自分がやったことに対しては自分で責任をもちなさい。言うことは簡単だ。でも、それを彼女が納得できるように伝えてゆくには。
 結局、自分が思ったこと言ったことはすべて、自分に跳ね返ってくるんだなと改めて思う。私が私の道をちゃんと歩いていなけりゃ、彼女に教えることなんてまずできやしない。そう気づいて、私は思わず苦笑する。
 娘よ、君はきっと苦労するだろうな、あっちふらふら、こっちふらふら、前進したかと思ったら後退し、後退したかと思ったらいきなり左に曲がってみたり。このどうしようもない母親の姿を、君はきっといつか、ため息混じりに眺めるだろう。そして、ママのようにはならないわ、とでも言いながら、ぷりぷり怒って違う道を歩くだろう。でもまぁそれはそれでいいんだ、きっと。
 でもねぇ、娘よ。生きることの痛みが分かる人になってほしい。それだけは思うのだよ。実に情けない生き様を晒している母だけれども、そのことだけは強く思う。そのためには、やっぱり、想像力というのは大切なものだと私は思う。だから、常識なんて砦に雁字搦めにされることなく、大きくなっておくれよ。
 ふと外を見れば、街路樹の葉々はやっぱり今夜も翻り。風は今夜もそうして街を渡ってゆく。娘の寝息と風の音。私の夜はそうして更けてゆく。


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