見つめる日々

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2004年03月24日(水) 
 雨が降っている。朝のうちは我慢していた空から、しとしと、しとしとと、音もなく。雨の音は耳に聴こえる音というよりも、目や肌で感じる音だなと、ぼんやり窓の外を眺めながら思う。
 ここのところ、娘は成長痛がひどいようで、夜何時間も泣くことがある。長いときには五時間も続けてずっと泣いている。足が痛いよぅ、足が痛いよぅ、そう言って彼女は泣く。私はもちろん手を伸ばし、彼女の足をさする。足痛いよう、足痛いよう。私はとりあえず常備している湿布を、彼女が望むように足に貼ってやる。そしてさらに彼女の足をさすり続ける。こっちが痛い、こっちも痛い、痛い、痛いよぉ。大丈夫だよ、ママがずっとさすってるから、大丈夫だよ。痛い、痛いよぉ。私はさすり続ける。痛みで眠れない彼女はひたすらに泣き続ける。抱っこぉ、抱っこぉ。彼女が望むままに、私はもう17キロを越える彼女の体を抱きかかえ、彼女が最近お気に入りの、ラピュタの歌を繰り返しプレーヤーから流し続ける。抱いているうちに、彼女はまた、痛いよぉ痛いよぉと言う。急いで横にして、私は足をさする。そうすると彼女はまた、抱っこぉ、抱っこぉ、と泣く。抱っこしても何をしても、もう追いつかない。ぐちゃぐちゃになった彼女は、私にしがみつくようにして泣き続ける。
 或る夜、痛いという彼女の足をさすり続けていると、瞼を閉じたままの彼女が突如、大声を上げた。パパぁ、パパぁ、パパぁ。
 目を閉じたまま、彼女は大声で呼ぶ。パパぁ。
 私は目を閉じたままの彼女の身体をかき抱いて、あぁこ、ママ、ここにいるよ、大丈夫だよ、と声をかけてみる。彼女の耳にそれは聞こえたのかどうか。彼女が繰り返す。パパぁ。パパぁ。
 涙が出そうになった。たまらなかった。切なかった。どうしたら彼女の心を今の気持ちを撫でてやることができるんだろう。切なくてたまらなくて、だから彼女を抱き上げて、彼女のお気に入りの歌を流した。それに合わせて、小さな声で私も歌った。
 じきに彼女は眼を覚まし、痛いよ、痛いよぉと言い始めた。私はいつものように彼女の望む場所に湿布を貼り、片手で何とか彼女を抱きながら、もう片方の手で彼女の足をさすった。やがて彼女の泣き声が止んだのを見計らって、私は声をかけてみる。
 「あぁこ、お茶、飲む?」
 「うん」
 パパぁ、パパぁ、と叫んでいたことを忘れてしまったのか何なのか、彼女はけろっとした顔で返事をした。足、今痛くないの? うん。ずっこけてしまうような彼女の返事。
 真っ暗な部屋の中、小さな灯りをつけて、彼女にお茶を差し出す。ごくごくと喉をならして飲む彼女の横顔を、私はじっと見つめる。しばらくするとまた足が痛いと彼女は泣き始めた。私はもう一度彼女を抱っこして、彼女が眠るまでずっと、彼女の足をさすり続ける。その途中で彼女は突如、思い出したように、パパぁ、と泣いた。だから私は、彼女に言った。あぁこ、パパはね、今ここにいないの、でもママはここにいるから、ね。彼女は泣いたまま、そうして眠った。
 彼女が眠ったのを確かめて、私はそおっと布団から抜け出した。カップに半分、珈琲を入れる。少し迷ったけれど、煙草に火をつけた。そしてしばらく、ただぼおっと、闇の中に座っていた。
 あぁ、ようやっと言ったか。
 おかしな話だが、最初に浮かんだのはそういう思いだった。やっと言ってくれた。やっと泣いてくれた。パパ、と。
 別居した折も、離婚した折も、彼女は私に、ほとんどパパのことを訊かなかった。私が、パパはもういないんだ、これからはママと二人で頑張ろうね、と言ったときも、彼女は、うん、と答え、にっこり笑った。そうして二人、毎日を暮らしてきた。当然のことだが、その間、私は一度として、父親の悪口に当たるようなことは、口にしたことはない。彼女がもし問うてきたら、できるかぎり答えてやろうといつも思っていたが、彼女は決して私に尋ねなかった。保育園の行き帰りに、お友達のお父さんの姿を見たりして、彼女の眼がその姿を追っていくことがあっても、彼女は私に、パパのことを殆ど言わなかった。時々、三人で行った場所に二人で出かけたりすると、パパとここに来たよねぇ!と言うくらいで。だからそんなとき、私は、そうだね、三人で来たねぇ、と笑って返事をする。私は、正直に言うと、そんな彼女がいつも、心配だった。
 実家の父母にも、私は頼んだ。あぁこの前で決して父親の悪口は言わないでくれ、と。そして、あぁこがパパの話をもし出したなら、そのまま彼女の話を聞いてやってくれ、と。でも、彼女はじぃじばぁばにも、殆どパパの話をせず、話どころかパパとさえ口にせず、そうやって、私たちは今日まで、暮らしてきた。だから私たちは、ずっと心配だった。彼女の中にどれほどの想いが沈殿されていることだろう。それらを吐き出してやれることができないままで大丈夫なんだろうか、でもじゃぁ一体、どうしたらいいんだろう、と。
 それが今、彼女が、パパを呼んで泣いた。私は、そう叫ばれて泣かれて辛くなかったといえば嘘になる、けれど、それ以上に、それ以上に私はほっとした。ようやく泣くことができる、そんな気持ちだった。
 ねぇあぁこ、切ないねぇ、痛いねぇ、哀しいねぇ。パパがいないということは、私がどれだけ努力したって埋められるものじゃぁない。それは努力とかそんなもので追いつくことじゃぁないんだよね。私はそのことをいつも思うんだ。でも、いないということを負い目にだけは感じて欲しくない。だから私はやっぱり、努力するんだ。それがあなたに届こうと届くまいと、そんなことは関係なく。それでもやっぱり、あぁこ、切ないねぇ、哀しいねぇ、たまらないよねぇ。でもね、それでも、私たちはこうやって生きていくんだよ。毎日を一つずつ営んでゆくんだよ。だからママは、しっかりここに立って、歩いてゆこうと思うよ、どんな毎日であっても、こうやって一歩ずつ歩いてゆくことが大切なんだよということを、あなたに伝え続けてゆけるよう。笑っていようと思うよ。
 翌朝、起きてきた彼女は、痛みもすっかり忘れたかのような顔をして、私が作ったご飯をしこしこと食べている。もう大丈夫? 何が? 足。全然痛くないよ。そう言ってにぃっと笑う彼女の顔は、昨夜パパぁと泣き叫んだことなど、まるっきり覚えていないかのような晴れやかな笑顔で、逆に私の方が苦笑いしてしまう。
 そしてまた夜が来て、彼女は夜中になると足が痛いと言って泣く。私はやっぱり足をさすって、大丈夫、ママがずっとこうして撫でてるからね、と繰り返す。抱っこして、足をさすって、足をさすってはまた抱っこして。でも。
 彼女はあの夜以来、パパと呼ばない。あの夜一度っきり。それが彼女の意識してのことなのかそうではないのか、私は知らない。でも、そのどちらであっても。
 私は、娘に、感服する。あんたはすごいよ、と。もし彼女が同じくらいの歳の友人であるならばきっと、あんたって奴はすごい奴だよ、と、間違いなく言っているに違いないと思う。
 ねぇ、思うんだけど。あなたが私の娘として産まれてくれて、本当によかった。

 だから今日も私は娘と抱き合ってキスをする。そして、もう何度も繰り返し交わしている言葉を、今日もやっぱり二人して耳元で囁き合う。
 ママ、あのね、あぁこ、ホントはね、
 なぁに?
 実はね、あぁこね、
 なぁに?
 ママのことがだーいすきなの。
 うん。知ってる。あのね、あぁこ。
 なぁに?
 実はね、ママね、
 へへへ、なぁに?
 あぁこのことが、いーっぱいいーっぱい、だぁいすきなの。
 ママ好きー。
 ママもあぁこ好きー。


2004年03月18日(木) 
 朝カーテンを開けると、空がざわめいている。ぐわんぐわんと蠢く雲。いつ雨粒が落ちて来てもおかしくはない暗さを湛えて、ぐわんぐわんと。その荒い呼吸は、見ている私に伝染しそうなくらい。
 こんなときは特に海が見たくなる。娘を保育園に送り届けた後、仕事をしなくちゃと急く気持ちをよいしょと棚上げし、私は自転車を海の方向へ走らせる。
 あぁやっぱり。濃紺と黒橡色を混ぜたような色合いで、海はぐわわんとのたっている。一瞬も止まることのない波が描く線を、私はただじっと見つめる。私の心の中で波はじきにそそり立ち、両側からざぶんと大きな音を立てて落ちて来そうな気配。真中に空いていたはずの空間がその瞬間に弾け飛び、私の内からも様々な雑音が砕け散る。私がそうやって内なる景色を凝視している間も、波は一瞬も休むことなく動き続け、海は刻々と、その色合いを変化させている。
 じきに雨が降り出す。景色はあっという間に灰色にけぶってゆく。どの屋根もアスファルトも濡れて、行き交う車の音も雨粒を含んでいつもとは違って聞こえる。

 ここに越して来た折、横断歩道横に立てられた看板が私の目を捉えた。そこにはこう書いてある。「止まるはず 老いの甘えが招く事故」。最初私はこの文言に呆気にとられた。ずいぶんなことを言うものだと。これが、長いことこの世に生きて歳を重ねている人に対して向けられる言葉なのかと。
 私にとって、年老いた人々というのは、それだけで尊敬に値する対象であった。ここまで生きてくるまでに一体幾つの山谷を越えてきたのだろう、それは他人の想像など寄せつけない道程であったろうな、と。そして、それらを経て、今こうして幾つもの皺を刻み昔よりもきっとひとまわりもふたまわりも小さくなった体で道を往く姿は、届くことなどなくとも会釈して余りあるものだと私は思っていた。
 でも。それはどうなんだろう。もう今の世の中に、私のような価値観は、通用しないのかもしれない。
 たとえば自転車で走っている。だいぶ先に老人の姿が見える。老人の数メートル手前から私は鈴を鳴らし、道のどちらかに寄ってもらおうと思う。けれど、そうして鈴をいくら鳴らしても、脇に寄ってくれる老人のなんと少ないことか。最初は、耳が遠いのかもしれない或いは年老いた方だから動きがゆっくりなのかもしれないと思い、私は自転車を降りてその老人の脇をすり抜けようとした。その途端飛んで来た罵声。「危ないじゃないかっ、馬鹿野郎!」。驚いて私はすみませんと頭を下げはしたものの、納得のいかない気持ちが心に生じる。私が自転車で脇を走りぬけようとして驚かせたのならまだしも、そうじゃないのだ。どうしてこの人はそんなに怒っているのだろう。
 また別の日には、老婦人が買い物包みを下げて道を歩いている。私はやっぱり鈴を鳴らす。老婦人は全く気付かないのか、道の中央を変わらずに歩いている。私はやっぱり自転車から降りてその脇をすみませんと言って通り過ぎようとする。すると舌打ちとともに飛んでくる言葉。「こっちが先に歩いてるんだよ、まったく失礼な人だね」。
 保育園と我が家の間には小さいながらスーパーがある。その入口付近にはいつも中年のご婦人たちが三、四人と集まって井戸端会議をしている。私が数メートル先からチリリンと自転車の鈴を鳴らすと、みな、一様に、不愉快な視線をよこす。けれども道の中央に陣取っている彼女たちにどいてもらわねば、私たちは家に帰ることができない。仕方がないから私はもう一度鈴を鳴らす。ようやくどいてくれるご婦人たち。でも、すみませんと言いながら通り過ぎようとする私の耳には、彼女たちの声がつきささる。「まったくいまどきの母親っていうのかしらね、あんなんだから子供が駄目になっちゃうのよ」。
 そうやって幾人も幾人もの年配の方々と、私は毎日すれ違っている。すみません、通らせてください、そう言って頭を下げて通ろうとしてさえ、舌打ちなり雑言が飛んでくる。じきに、自転車の後ろに乗っている娘がこんなことを言った。「おじいちゃん、おばあちゃん、みんななんであんなに怒ってるの? どうしてママはすみませんって言うの?」
 その夜、私たちはあれこれと話をした。でも一体、どう話せばいいのだろう。娘のどうしてという問いに満足に答えられるようなものを、私はどうしても見出せなかった。
 あのね、狭い道で誰かとこうやってすれ違うときにすみませんってママが言うでしょ、狭い道だから、お互いに譲り合って歩かないとぶつかっちゃうでしょ、だからね、すみませんって一声かけて、それは、少しでも道を譲ってくれた人に対して、ありがとうって意味でもあるのよ。
 でもママ、ママがすみませんって言っても怒ってる人いるでしょ。
 うーん、そうだねぇ、それはもしかしたら、ママがすみませんって言った言葉が聞こえてなかったのかもしれないし。
 でもママ、今日もそうだったでしょ。
 うーん、そうだけど。でも、じゃぁ何も言わないでびゅんって横を通り過ぎたら、その人びっくりしちゃうでしょ、だからやっぱり、すみませんって一言言うのよ。
 ふーん。でもね、ママ、ママが鈴鳴らしてても、ちっともどいてくれないで、怒ってる人いるよ。そういう人、私のこともぎろって見るんだよ。
 うーん…
 なんでみんな、あんなに怒ってるの?
 …
 そうして娘が最後に言う。「あのね、自転車でこうやって走ってるでしょ、そういうときにね、おにいちゃんとかおねえちゃんは手振ってくれるの、だからね、私もバイバイってするのよ」。同じ自転車で行き交う場面であっても、彼女の中で、怒ってるのはおじさんおばさん、にっこり笑って手を振ってくれるのがおにいちゃんおねえちゃん、という構図が、もう出来あがっているのだということを、私はこの時初めて知った。
 こんな娘に、年上の人を敬えと、どうやったら教えられるのだろう。おじいちゃんおばあちゃんを敬えと、どうやって教えたらいいのだろう。私が知っている年配の人たちへの印象は、もしかしたらもう、過去のものなのかもしれない。ちょっとしたことでも「ありがとう」「あら、ごめんなさいね」。そうした言葉を持ってにっこりと会釈する人々。私はそういった人たちにどんなに心あたためてもらっていたことだろう。でも。
 今私がこの街ですれ違う人たちは、あまりに殺伐としている。歳を重ねるごとに人は丸くなる、という言葉を昔聞いたことがあるが、そうした言葉ももう、遺物なのか。
 そして思うのだ。あぁ年齢からいえばすでにもう立派なオトナたちがこんな姿をしていて、一体どうして年若い人たちにあれやこれやと言えるのだろう。たとえば自分の行動に責任を持てとはよく言われる言葉だけれども、それじゃぁそれを言うオトナは自分の行動にしかと責任を持っているのか。躾がなってない、挨拶さえろくにできない、と若者を罵るけれども、罵る側のオトナは果たしてどうなのか。実際にこうやって私がすれ違っているオトナたちを見ていると、私は疑問を抱かずにはいられなくなる。
 そうして思い出す。「止まるはず 老いの甘えが招く事故」。実際、横断歩道やそれ以外の場所でも、信号を無視して歩いてゆく人々の姿は至るところに見られ、そしてまた、クラクションを鳴らす車に向かって唾を吐く老人の姿を、私は何度も目にしている。「赤信号は止まれだよ」と声をかける娘に、何度しぃっと口に指を当てたことか知れない。「だってママ、赤信号は止まれなんだよ。青信号は渡れなんだよ」「うん、そうだよね、だからママとああ子は青信号の時に渡ろうね」「なんで他の人は赤でも渡っていいの?」「いや、本当は渡っちゃいけないの」「ヘンなの」「ヘン、だよね、うん」。
 年老いた者は敬われるのが当たり前、止まるはずという思いこみは、単なる傲慢に過ぎない。敬わられるには、敬わられるだけのものをその人が備えていなければ、どうやったって無理な話なのだ。
 「止まるはず 老いの甘えが招く事故」。こんな標語が立つ街に、私は今日も暮らしている。それが嫌だとは思わない、ただ少し、寂しいと思う。でもそれは、私がかつてそうじゃなかった社会を知っているから寂しいと思うのだ。今この街しか知らない娘にはきっと、これが当たり前の風景として刻まれてゆくに違いない。だとしたら。私が娘に教えられることは何だろう。
 きっとこの看板だけの話じゃぁない、人と人との潤滑油であった「ありがとう」という言葉、「ごめんなさい」という言葉、別に顔見知りじゃなくとも道ですれ違う折に何の言葉もなくとも軽く交わされていた会釈、そういったものは、今枯れゆく一方なのかもしれない。それでも私たちはこの場所で暮らしてゆく。だとしたら。
 私は繰り返し言い続けるしかない。「ごめんなさい」「ありがとう」。どんな小さな場面であっても、相手から怪訝な顔をされるばかり、それどころか舌打ちされるばかりだったとしても、「ありがとう」「ごめんなさい」、私は言い続けるだけだ。それらがどんなに大切な言葉であるのかを、もう理屈ではない、身体で彼女に示す、それが今、私にできること。
 すれ違おうとしている近所の人に「こんにちは」と声をかける。最初怪訝そうな顔をするばかりだった人が、数ヶ月経てようやく「こんにちは」と返事を返してくれる。家に戻って二人きりになったとき、娘が私の耳に囁く。「おばあちゃん、こんにちはって言ったね」。娘の顔が大きくにぃっと笑っている。うん、そうだね。明日もまた挨拶しようね。ねっ。

 雨はまだ降っている。この雨が降り止んだ後には、きっとまた春の陽射が街中に溢れる。見上げた灰色の空に、何となく口元が緩む。あぁそうだ、私は信じたいのだな、どんなに枯れてがさがさに見えていようと、その奥底には、まだまだ人の中に潤いが残っているはずだ、と。
 馬鹿かもしれないけど、私はやっぱり、そういう人のぬくみを信じていたい。だって私は人間というものが、こんなにも好きだから。


2004年03月16日(火) 
 今日もアブラムシを潰す。開きかけた新芽の、寄り添い合う葉の間々に彼らは必ず潜んでいる。特に朱赤のミニバラの樹はひどい。それは新芽から溢れんばかりの勢い。新芽を一思いに指先で挟む。指の腹でアブラムシが弾ける音がする。ぶしゅっ、ぶしゅぶしゅしゅっ。その音はそこにもここにも。ひととおり潰した後、私は仕上げに毒薬を噴きかける。それでも多分、明日になればまた、別のアブラムシがここに集う。そして私は彼らを潰す。繰り返される行為。これは間違いなく私の、現実に為している毎日の一断面。
 そう、最近また、現実と夢とが入り混じってきている。夢が現実に溢れ出してきているのか、それとも現実が夢を侵蝕しているのか、その辺りさえ定かじゃぁない。だから困る。目覚めてすぐに夢を辿り、あぁこれは夢なのだと自分に言い聞かせることができれば、それはまだいい。それができなくて、しばらく経ってから、あれ、と振り返るとき、私は夢と現実との境がつけられなくなっている。あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。彼女から聞いた声は現実のことだったのか、それとも夢の中でのことだったのか。どうしよう、と途方に暮れている間にも時間は過ぎてゆく。たとえばその彼女に今電話をして、これこれこういうことがあったっけ、と尋ねることができたなら、私はそこで、夢と現実とをそれぞれに知ることができるだろう。しかし、私はいつでも、電話の前で立ち止まる。こんなことで電話をして何を話せばいいのだろう。彼女たちは夢と現実にしっかりと線引きをし、しっかり毎日を過ごしている。そんな彼女らを呼びとめて、私は一体何をどう話せばいいのだろう。しばらくそうして電話を見つめ、私は結局受話器に手を伸ばせぬまま視線を外す。そして昨日も今日も明日も、私は、一体何処までが夢で何処までが現実だったのかを把握できぬままに過ごしてゆく。少しずつ少しずつ堆積されてゆくその曖昧な記憶の断面。飽和状態になる前に、どうにかしたいけれども、じゃぁ一体どうすれば、それは昇華できるのだろう。その術が、分からない。

 娘と二人の生活をするようになってよかったなと思うことのひとつは、今のこの二人の生活には頼る人が基本的にいないということ。そうなってようやく、気付くことができた幾つものこと。
 たとえば夜眠るとき、私は必ず不安になる。もし眠っている間に何かが起きたら。私が睡眠薬を飲んで意識を失っている間にもし何かあったら。そう考えるだけで私は恐い。だからどうしても、処方されている睡眠薬を規定通り飲むことができない。半量にしたりほんの一粒だけにしてみたり。もちろんそれでは私は眠ることがままならないから、結局熟睡できずに朝を迎えてしまう。それでも私はほっとするのだ。あぁ今日も無事に朝が来てくれた、と。そんなとき、ありがたかったなと思う。何故なら。昔三人で暮らしていた折、私は無条件に薬を飲んでいた。薬を飲んだって眠れないことが殆どだったけれども、それでも何も考えずに、飲んで横になっていた。それは、三人目の存在があったからだ。私が眠ってもその人がいるから大丈夫、何かあったら私を起こしてくれるだろうし、私はともかく娘のことは守ってくれるだろうという無条件の安心感があったからだ。三人で暮らしていただけでは、私はきっと生涯そのことに気づかなかっただろう。だから、今こうやって二人で眠る時間を迎えるたび、私は思う。あぁ、ありがたかったな、と。
 たとえば洗い物、洗濯、炊事。毎日必ず為さねばならない物事。そのどれをとっても、今私の隣には代わりにやってくれる人はいない。確かに、三人で暮らしていた折だって代わりにやってもらうことなどなかった。けれども。気持ちが何処か違う。ちょっとさぼろうかな、と思ったり、今日はしこしこやってみようかなと思ったり、そういうことが自分で決められる。そのことが私に気持ちの余裕を持たせてくれる。余計な罪悪感を、抱かなくてすむ。
 それは翻せば、やっぱり何処かで相手に頼っていたということの表れなのだ。あなただって一人の大人なのだからやろうと思えばできるでしょ、やってよ、という気持ちの。そしてまた、一人の主婦としてやらねばならぬことを自分は今怠ったということに対しての罪悪感。
 些細なことかもしれないけれども、そうやって私の中に日々少しずつ溜まっていたのだろう泥を、私はこれもまた今、少しずつ少しずつ、理解してゆく。
 そして感謝する。今こうやって二人が生活していられることを。今毎日のこの目に見える生活は、確かに私が自分で支えているものだけれども。でも、見えないところでは。一体幾つの手がこの私たちの生活を支えていてくれているだろう。そんなこと、二人きりになるまで考えも及ばなかった。いや、違う、頭では利巧そうに考えてみたりしていたけれども、そうじゃない、こう、実感として、身体の芯でじんわりと染みるように感じるこの感覚。今だから、ようやく、分かる。
 そしてまた、誰のいいなりになるのでもなく、かといって自分をできるかぎり強いるのではなく、芋虫のような速度でもいい、自分なりに呼吸するようにして生活を組みたててゆくこと。私にとって、これほどのリハビリ方法はなかったのかもしれない、と、今にして思う。そうしてこの、贅沢なリハビリ生活を支えてくれている見えない幾つもの手、手、手…。
 久しぶりに話をした旧知の友から、少し見ないうちになんだかずいぶん強くなったんじゃないのと言われる。いや、強くなったんじゃなくて、自分の弱いところをようやく受け容れられるようになったみたい。そう答えたら、大きな声で笑われた。君がそんなことを言うとはね、いやぁ、歳をとってみるもんだな。
 窓を開け放した部屋、ハープギターの音色がCDプレーヤーから繰り返し流れている。部屋を渡る風に乗って、何処までも何処までも。
 不安を数え上げたらきりがない。不安に苛まれず安心して眠れる夜なんて、皆無に等しい。それでも。
 誰の上にも等しく朝は来る。だから私は今日もこうして生きている。


2004年03月09日(火) 
 毎日ベランダの薔薇の樹を見つめる。その姿は、刻一刻、変化する。昨日まで固く閉じていた葉が、今日になれば僅かに先を開き、陽光を受けようとその手を伸ばす。明日になればきっと、この葉はもっと開き、風にさやさやと揺れるようにもなるのだろう。
 そしてまた、同じ薔薇という名前でひと括りに呼んでも、一本一本、葉のつき方、その形が異なる。この手前の鉢の、朱赤のミニバラは、葉の色が濃く、いっぱいに開いてもその縁は紅色を残している。その隣の白いミニバラは、まさに若葉色といった葉を広げ、そしてその奥に並ぶ白い大輪の薔薇の樹たちは、ミニバラとはもちろん、葉の大きさも違えば広がり方も何もかもが違う。
 今年新しく挿し木した薔薇は、花屋で買ったときは黄色だった。それなら黄色の花が咲くものと思いきや、去年はあっさり裏切られた覚えがある。友人に貰った花束の中の、灰色がかった薔薇を挿し木で増やしたところ、咲いた花は明るい赤だった。さぁこの樹、一体何色の花をつけるだろう。黄色か、それとも全く予想もしない色なのか。
 薔薇の樹や葉をこうやって見ていると、つくづく、この世にひとつとして同じものはないのだなと思う。同じ株から増やしたものであってさえ、決して同じ姿はしていない。ひとつひとつが、この世で唯一の形を作ってゆく。
 それはきっと、私たちも同じなのだろう。こう言ってしまうことは実に簡単なことだけれど、でも、人は時々、やはり錯覚する。自分の尺度で相手を計り、それに当てはまらないとどうしてかと思ってしまう。
 たとえばそれは、母。母の昔話を聞いていて、ふと思った。母は、母とは全く異なる道を歩もうとする幼い私に、ずいぶん戸惑ったという。どうして彼女はそんなものを選ぶのだろう、どうして彼女はそんなことをするのだろう、私の娘なのに、と。
 これはきっと、親子というものが存在する限り、何処にでもあり得る風景なのだと今の私ならば思う。けれど、まだ私が幼かった頃は、逆に、どうして母は分かってくれないのだろう、どうして母は私がひとりで歩こうとするとそれを遮るのだろうと不思議に思ったし、不思議どころか腹立たしくさえ思った。
 でも、その体験のおかげなのか、私は、娘が生まれた瞬間に、あぁ私とはもう別個の、ひとつの命がここにあるのだということを痛感した。それは、理屈ではない。ただもう、あるがままに、私はそう感じた。
 今、娘とふたりで暮らしていて、彼女は私が思ってもみないことをどんどんやってくれる。母によると、私が同じくらいの歳の頃には決してしなかっただろう仕草、決して考え及ばなかっただろう思いつき、次々にやってくれる。母はそれを見ながら「あなたも彼女からおんなじことをされるわよ、私があなたにされたのと同じようにね」と苦笑する。それは、言葉は悪いが、或る意味で、母の期待を裏切り続けてきた私への言葉だ。
 だから私も言う。「そうだねぇ、いいよ、いいよ、もう覚悟してるから。私とは全く違うことを、この子もやっていくのよね」。そして母が言う。「あんたって子は、全く頼りない母親ね。娘の母親なら、もっと娘を指導していかなきゃ、とんでもないことになるわよ」。そう言いながら、母は、舐めるように孫を可愛がる。だから私も適当に、はいはい、と返事をして、母と娘とのやりとりを横で眺めている。
 そう、分かっている。母が言いたいだろうことは何処かで分かっている。でも、思うのだ。私と母との違いは、私が、生まれた瞬間から彼女のことを、私とはまったく別個の一個の人間だと思っているということ。それが良いのだとは私は思っていない。ただ、私はそう思って、娘を見つめている、ということ。
 たとえば食事をする。私はぱっぱと食べる。もぐもぐ食べる。一方娘はというと、とにかくよく喋る。一口食べたら、十くらい、その日に彼女が感じただろうことを隣に座る私に報告する。そんな具合だから、私が食事を終えようとするとき、下手すると彼女は、まだ三分の一も食していなかったりする。こういうとき、私はちょっといらいらする。早く食べなさいよ、と思う。でも、考えてみれば、私の食事のテンポと彼女の食事のテンポは、違っているのだ。彼女にとっての食卓は多分、ママと思いっきりお喋りをする場所で、お喋りをしながら食べるからおいしいのであって、黙ってむしゃむしゃ食べたのでは、きっと食事もおいしくなくなる。その証拠に、私がたまに急かしたりすると、彼女は一気にしょぼくれる。「ママのこと好きなのに。ママといっぱいお話したいと思ってるのに」。そう言って涙ぐむ。それは冗談で言ってるのではない、本気で彼女はそう言って、本気で涙ぐんでいるのだ。だから私は慌てて、彼女を抱きしめて、ごめんね、と言う。彼女の頬はもう、ぽろぽろと涙が零れていて、それでも、ごめんと言った私に、か細い声で、いいよ、と答えてくれる。
 そんな、些細なことかもしれないけれども、でも確かに私たちの日常を担っている一場面一場面で、私たちは、親子であるけれども、同時に、一個ずつ、全く異なる人間なのだということを、私は感じる。そして、そう感じさせてくれる彼女に、私はほっとする。
 子供にも、きっといろいろあるんだろう。たまたま私の娘が、私にとってこうした存在だったというだけで、たとえば世の中には、紙一重といっていいくらいの親子もいるだろうし、ぴったりくっつきあった親子だっているだろう。それはそれできっと、素敵な親子の形を作っていくに違いない。
 だから、私と娘も、私と娘だからこそ作ることのできる関係を作ってゆけばいい。だからあなたは、あなたの思うまま、どんどん私を裏切って、どんどん私を驚かせて、どんどん私を泣かせて、私が知らなかった世界をそうやってどんどん私に教えていって欲しい。一心にクレヨンを操る小さな娘の横顔をちらりちらりと眺めながら、そんなことを思う。
 そして、こんなふうに今私が考えることができるのは、思春期に、母や父と長い長い戦争を経てきてからだということを。私はじっと噛み締める。母や父とのあの長い葛藤がなければ、私は今、こんなふうに彼女を見つめることはなかっただろうと。当時は確かに苦しかった。しんどかった。なんで生まれてきてしまったのかと恨みさえした。けれど。
 今はあの時間を、いとおしく思う。アダルトチルドレンという言葉が、機能不全家族という言葉が巷に溢れるようになって久しいけれど、そういった言葉に自ら縛られて、私自身足をすくわれた時期もあったけれど。
 そういったものを否定するのではなく、受け容れることで、あるがままを受け容れることで、世界はがらりと姿を変える。そのことを、今の私はもう、知っている。

 午後の陽射は柔らかく、開け放した窓からとめどなく部屋に流れ込んでくる。しばし街の音に耳を澄ましてみる。車の音、風の音、遠く過ぎる飛行機の音、そして、チチチ、チチチ、と鳴く小さな雀の声。季節はもう春。私にとってそれは三十三回目の春。これもまた、たった一度の、大切な季節。
 そろそろ仕事に戻ろう。いや、その前に珈琲を、一杯だけ飲んで。


2004年03月04日(木) 
 あぁ今日はなんて気持ちの良い陽気だろう、と、仕事に取り掛かる前に布団も洗濯物もすっかり外に出したのだが。ふと気付くと、外は恐いくらいに暗くなっており。私は慌てて布団や洗濯物を部屋に取り込む。そうして空を恐る恐る見上げてみる。泣き出そうか、泣き出すまいか、唇をうむむと一文字に結んでいる子鬼の顔がそこに浮かぶ。子鬼さん、泣き出すのはもう少し、後にしてもらえませんか。私はそっと、口の中で呟いてみる。
 私が鏡を覗き込んで、そこに母の顔を初めて見出したのは、数年前のことである。或る朝、夜通し泣く娘を抱いて過ごし、すっかり疲れ果てた私は、顔を洗おうと思って覗いた鏡の中に母を見た。私は一瞬目を疑い、自分の思考回路が凍りついたのを今でもよく覚えている。
 鏡から目を逸らす。そうすると、母の顔は視界から消える。実際には、あんなにもやつれ疲れ果てた母の顔など、私は見たことがなかった。しかし、私の記憶の中にある幾つもの母の顔の点と点とが結ばれて、鏡の中で母の顔となった。私の顔であり、母の顔。母の顔であり、それは決して母の顔ではなく、私の顔。
 多分、このとき初めて、私は、母の過去を知りたいと思ったのだった。私の記憶の中にある母の顔たちが結ばれて描き出してしまった虚の母の顔を見た時、それを培ってきたのだろう彼女の歴史を知りたいと。そこには一体何が積まれているのだろう。そこには一体何が詰まっているのだろう。
 私は、父母と親しくなかった。親子の間に自然にあるだろう葛藤以上のものを、私は彼女たちに抱き、それは私と父母を長いこと苦しめていた。いつか和解したい、いつか分かり合いたい、そう思いながら、そのきっかけさえ掴めずに、私は長い時間を過ごしていた。それはきっと、父母も同じだったのではないかと思う。
 それが、私が子を授かったことで、少しずつ変容していった。父母は孫を溺愛し、私はそれを、そっと外側から見守る。そんな構図が生まれた。私と彼らとの間に、適当な距離が生まれた、それまで父母と娘という関係ではお互いに棘を刺し合うしかできなかったのが、適当な距離が生まれたことで私たちは、その棘を、己の内にそっと隠して、お互いを見ることができるようになった。しかし、それだけじゃ、私と父母との間にできた溝は埋まるものではなかった。私たち自身が自ら埋めようと思わなければ、他からの影響からだけでは決して埋まらない溝。深い深い、亀裂。
 あのときもし、私が、母の顔を形作ってきたのだろう母の歴史を知りたいと思わなければ、今私たちはどうなっていたのだろう。
 私は、母に少しずつ尋ねていった。お母さんは、おばあちゃんのことをどう思っていたの? お母さんは子供の頃何が好きだったの? お母さんは四人兄弟の中でたった一人女の子でおじいちゃんは猫かわいがりしたって聞いたけどそれは本当?…。それは、どうでもいいようなことたちだったと思う。でも、私は、聞いた。聞きたいと思った。母がこれまで、どんな人生を歩んできたのか。何を好きで、何が嫌いで、どんなことを求めて歩いてきたのか。そして今母は、この人生に満足しているのか。私といがみ合ったあの時間を、あなたはどう思っているのか。そして今ふたりこう在ることを、どんなふうに思っているのか。
 母は、あえて私と目を合わせるでもなく、淡々と、私が聞くことに答えてくれた。時にはぐらかし、時にもう覚えていないと笑う顔を、私はただじっと、見つめていた。
 あぁ、ここに、こんな歴史があったのか、と、私はそうして初めて知ったのだ。あぁだから母は、あのとき、あんな不器用な仕草を私にぶつけたのか、と。あぁだから母はあのとき、あんな言葉を吐いたのか、と。
 そして私は知った。私たちがあのとき分かり合えなかったのは、こうやってみれば、ごくごく自然なことだったのだ、と。分かり合えなくてよかったのだ。分かり合えないということを経たからこそ、お互いに、今、ここにそれぞれ在ることができる。
 私は今、歳を重ね、母が私を産んだ歳を越え、じきに、私の記憶の中にある幾つもの母と同じ年齢になってゆく。きっと私は歳を重ねるたびに、鏡の中に母を見出すであろう。そしてそれはきっと、私にいろんなことを教えるだろう。こんな考え方もあるのよ、と。あなたはこう言うだろうけれども、それだけじゃない、こんなことだって言えるのよ、と。事あるごとに教えるだろう、私に。母はそうやって、私の中に、血の繋がった者として、同時にとても親しい他人として、存在してゆくに違いない。
 それはまた、母だけではない。血の繋がっている者としては母や父、弟しか私にはいないけれども、それだけじゃない。私の中には、SもMも、FもKもTも、Yもいる。鏡の中の自分を覗きこんだとき、重なる彼らの顔。それは、彼らの中にある自分との共通点、或いは相違点を、私に教える。そして、私の心がどうしても偏ってしまっているとき、彼らの顔はそっと語りかけてくる。ねぇ、それだけじゃないでしょ、こうも考えられるでしょ、と。また、私の心が逃げの構えをしているとき、彼らの顔が教えてくれる。ほら、本音はここにあるじゃない、本当はどうしたいの、本当はどう言いたいの、言ってごらん、いくら逃げたって、あなたはあなたの本音からは逃げられないよ、と。やさしく諭してくれる。
 だから私は何処までも強くなれる。本当はこれっぽっちでちっぽけで弱っちくて、どうしようもない私だけれども、私が私の心の中に棲む愛する人たちを思い出すとき、私は強くなれる。さぁこれが私の一歩よ、と、胸を張って踏み出せる。
 そうやって考えると、人の顔や手の皺、その姿勢というのは不思議だ。何よりも克明に人の歴史を語る。今日私はどんな顔をしているだろう。どんな手をしているだろう。背筋は伸びているだろうか。昨日よりやさしい目をしているだろうか。昨日より冷たい口をしているだろうか。そうして私は鏡の中を覗きこむ。
 そこには、確かに私がいる。私の顔が。けれどその私の顔は私をずっと越えて、広がってゆく。私を培っている幾つもの時間や経験や人の顔が、そこには在る。私の内奥をその有り様をそうやって、私の顔が手が、これでもかというほど現している。そして私は知る。あぁこれが私だ、と。醜かろうと何だろうと、これが私が背負っていく私自身なのだ、と。

 とうとう子鬼は泣き出した。これでもかというくらいに冷たく勢い良く。吹きつける風に次々雨粒を散らす。泣けるうちは泣いた方がいい。そう言ったのは誰だったか。泣けるときは思いきり泣けばいい。泣くことさえできないときが人にはあるのだから。
 そして明日はまた笑うんだ。こぼれんばかりの笑顔で。


遠藤みちる HOMEMAIL

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