2004年04月28日(水) |
嵐の後、空を覆っていた厚い鼠色の雲が突然、ぱっくりと口を開ける。その瞬間、目の前に現れる空を見上げる、この爽快さ。もう、どうにも表現しようがないほど、私の心は至福に満たされる。おのずと両腕が空へ伸ばされる。眩しさに思わず目を閉じても、私の瞼を容易に通り越して、光は私に降り注ぎ、そして私の体は光と青とで満たされてゆく。 そして。じわじわと、じわじわと、私の奥底から、エネルギーが滲み出してくるのを私は知る。石と石の間から僅かに滲み出す涌き水のように、それはとてもゆっくりと、でも間違いなく、私の中から奥底から滲み出されてくるもの。じわじわと、じわじわと、奥底から。内奥から。
伸ばしていた腕にひんやりした風を感じたと思った途端、激しい通り雨。私は慌てて軒下に入る。今日の天気はまるで私みたいだと少し苦笑する。ブラウスについた雨粒を、そっと払い落とす。払い落としながら、ふと、私は自分の左腕に目を止める。 それは別に何も特別なことでもなく、ごく自然に、私の目が左腕を眺める。そして、右の掌で、傷だらけのその腕をそっと撫でてみる。もう指先では感じ取れないほど薄くなった傷もあれば、いまだにありありと盛り上がって私の指先にその存在を誇示してくる傷痕もある。びっしりとこの腕を埋める夥しい傷痕にも、それぞれの個性が、歴史があるのかしら、なんて、思って、私はまた笑ってしまう。そして思う。 これは、私の戦争の痕跡なのだと。 そう、私と私自身との、闘いの痕跡。こうやってしか生き延びることのできなかった、私の標。
ねぇ、こんな腕でも、掴めるものはあるよね。 こんなずたぼろの命であっても、私はそれを誇っていいよね。 こんなに粉々に砕けた心であっても、私は私だけはせめて、抱きしめてやっていいよね。
やがて雨が上がる。レンガ敷きの道には、あちこちに小さな水溜りができる。その水溜りにそれぞれ、空が広がる。私は、空を踏んでしまわないように、あっちに飛び、こっちに飛びながら道を往く。
仕事をしなければと思いながら、私は家に戻る前に公園へ立ち寄る。引っ越す前毎日のように通ったあの公園へ。もうすっかり全身に萌黄色の葉を繁らせた桜の樹のアーチが私を出迎えてくれる。途端にむせかえるような緑の匂い。あぁ、久しぶりだ、あの反吐の出るような臭いや味じゃない、芳しい香りを感じるのは。私はまるで散歩中の犬のように、くんくんと鼻をひくつかせる。ここにある全ての樹々の香りを、一片たりとも逃がしたくない。そうやって一歩一歩歩きながら緑の匂いを吸い込むほど、私の体も奥から緑色に染まっていくような錯覚を覚える。 家に戻ると、今度は部屋に薔薇の香りが漂っている。嵐の中で咲いたホワイトクリスマス。白の大輪の薔薇。嵐だというのに部屋の中に取りこむのが遅れてしまったために、一番外側の花びらがでろんと垂れ下がってしまった。けれど、何といういい香りだろう。私は、深く深く息を吸い込む。途端に、胸いっぱいに広がる香り。甘く切なく、いっそこの花に埋もれて死んでしまいたいと思えるほどの。そうして私はそっと指で花びらを撫でる。おまえたちは嵐の中で咲いた花。だから余計にいとおしい。
私の、不安定な部分ばかりを大きく捉える人もいれば、それはあくまで私の一部として受けとめてくれる人もいる。そしてまた、私の為す仕事の部分を知っている人は、私が毎週心療内科に通っているなんてこれっぽっちも思っていなかったりもする。それは理知的で論理的。呆れるほどきっぱりと現実的。一方で、極まりないほど不安定。解離して時間をふっとばして生きていたりもする。また一方で、私は多分何処にでもいる人間の一人。そんな私に対する周囲の受け取り方はきっと、十人十色。そのことを、私は拒みたくはない。 でも、時々思うことがある。私を知って欲しい、と。私の一部を見るのではなく、私の全体を捉えて欲しい、と。 そう思って、私は苦笑する。それは無理ってもんだろう、と。 別に、私が性犯罪被害者でなくても、PTSDなんて抱えていなくても、人はたいてい、相手の全体を見通すことなんてほとんどできないんだと思う。自分の目の前にいる人の、今目の前にある一面を受け止めてゆくのが自然。 欲張りなんだな、と思う。私は、この人はと思った人には、自分の全体を見てほしいと願ってしまう。十代二十代の頃なんて、まさにそうだった。それが強烈すぎて、いろんな人を傷つけた。 だから欲張りなんだなと思う。私は欲張りなんだってことを、ちゃんと自分で覚えておこう。そして、欲張りは人を傷つけるよ、ということも、しっかり覚えておこう。
ベランダでは今、薔薇だけでなく、ミヤマホタルカヅラも咲いている。この花の青が私は好きだ。こんなに小さな、指先ほどしかない小さな花なのに、どこまでも透き通ってゆくようなこの深い青。見つめていると、ふぅっと溜息が出てきてしまう。見惚れてしまう。挿し木してどんどん増やし、今はプランターの中、こんもりと小さな茂みを作り、私を楽しませてくれる。そうだ、娘が帰ってきたら、教えてあげよう。ほら、新しくここでも花が咲いたよ、と。 そうして今日も暮れてゆく。涼やかな風の吹く、今日という穏やかな一日が。 |
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