2004年02月27日(金) |
小刻みに眠りから覚める日々。というよりも、眠って一、二時間で目が覚め、その後どうしても再び眠ることができない。いっそのことと起き出して仕事をし始めてみる。そうして気付けば窓の外は明るくなり、冷たい水で私はばしゃばしゃと顔を洗い、時間になると眠っている娘の身体をあちこち突つく。くすぐったくて起き出す彼女は、ママやめてよぉと笑っている。 そんな彼女と毎日暮らしていて、最近思うことがある。それは、視点の柔軟さだ。 たとえば。自転車で走っていて彼女が急に呼びかけてくる。「あのお家の上にチューリップが咲いてるよ、今日はピンクも見える、昨日は黄色だけだったのにね」。言われるまで私は全く気付いていなかった。昨日は黄色で今日はピンクも並んでいるだなんて。言われて自転車を止め、彼女の指差す方向を見てみると、確かにチューリップが三階建てのお宅の屋上で揺れている。 たとえば、彼女と一緒にスーパーからの帰り道を歩いている。すると彼女が大きな声で、蜜柑がなってるよ、と指差す。指の方向を見つめてみれば確かにそこに蜜柑はあって。彼女はさらに言う。蜜柑が大きくなってるね。私は彼女に言われるまで、そこに蜜柑がなっていたことも多分気付いていなかった。もしかしたら何処かで気付いていたかもしれないが、蜜柑が育ってゆく姿にまで気を留めていなかった。 たとえば。私が花を買って、それはだいたい同じような色合いで値段も安い似たような花ばかりなのだけれども。私がその花を買いかえればもちろん彼女は気付く。それどころか、ただ単に水を換えてやっただけのときでも彼女は気付くのだ。同じように生けて、同じ位置に飾っているはずなのに。 先日など、実家の父母が遊びに来た折、母を驚かせるためにと私だけ走り、花屋へ駆けこんだ後に私が先に部屋に辿りついたとき。私はベランダから身を乗り出して、三人が気付いてくれるように手を振ったりしていた。が、父も母も全く気付く気配がない。そんなとき、彼女がママーっと声を上げた。父母はそれでも真っ直ぐに、歩く道筋へと視線を伸ばしている。 そうやってみてくるとき、最初は、あぁこれが子供というものなのかな、と思った。毎日毎日がきっと彼女にとっては発見に違いない、あぁ世界が毎日新鮮っていいよな、私にもそんな時期があったよな、と。そんな具合に、親として或る意味微笑ましいような心持で彼女の後姿を眺めていたりした。でも。 本当にそれだけだろうか。 私と彼女は毎日同じ道を二人で通っている。同じ道を同じ回数通っている。でも、彼女はその道筋で毎日何かを発見し、それに比べたら私は全くといっていいほど発見していない。これは何が違うのだろう。そう思って、歩く彼女の視線の様子を眺めてみた。 彼女は別に、何か特別なことをしていたわけではない。ただ、歩きながら、あっちを眺め、こっちを眺め、その視線は上下左右、自由自在に動く。それどころか、私から見たら彼女はちらっとその方向を見ただけの景色の中でも、彼女はちゃんと新しい発見をしているのだ。あそこのお花もう枯れちゃったね。あそこの木の包帯とれてよかったね。 それに比べると。私の視点はほとんど定まったままだった。同じように歩いているのに、彼女の目は360度動く。一方私の目は。歩く方向に殆ど定まったまま。 あぁ、これだ。固定された視点、固定された視界。それに対して、柔軟な、同時に敏感なアンテナを張り巡らした視点に視界。この差だ。 私たちはこれを、多分、慣れと呼ぶ。私たちは幾つもの慣れに従って日常を過ごしてゆくものだ。それは或る意味で、人が獲得する術の一つかもしれない。慣れた方が何でもうまくできる、何でも早くできる、ぱっぱとこなすことができるという意味で。 でも同時に、その術は、その慣れはやがて、飽きや倦怠感といったものを人の心に生じさせる。毎日のこの日常という代物に倦怠感を全く感じないという人は、多分皆無に近いのではないだろうか。 それは、年を重ねれば、この世に長く生きていれば仕方のないことなのだろうと私は思っていたところがある。もちろんイベントがあれば別だ。たとえば引越しだとか転職だとか、或いは新しく家族をもつだとか。そういったイベントによって環境が変化すれば、環境に慣れるまで私たちはどきどきするだろうしあくせくもするだろう。しかし、やがてそれにも慣れればまた、似たりよったりの日常が待っている。それはもう、仕方のないこと、いや、それが自然なのだと、私は何処かで思っていた。諦めていた。良く言えば受け入れていた。こうやって慣れが一粒ずつ砂のように降り積もって、それが人生の常なのだろう、と。 でも。それは違うのかもしれない。 慣れて、固定されてしまうのは、日常や環境の方ではなく、私たちが慣らし固定してしまうのではないか。 私が自分の眼を、視界を、固定すれば、当然その部分だけしか目に入らなくなる。私の目を通って私の体に染み渡るものはだから、毎日毎日同じものになる。ならば、私がこの目を固定させず、広げたり回したりすることを怠らずに世界を見つめたならば、世界はもっといろんな姿を見せてくれるんじゃないか。
こうやって私はまた、娘に教えられる。 毎日同じものはないのだ、と。確かに私たちは毎日同じ道を通り、同じ道をまた戻って家に辿りつく。でも、この道を取り囲む世界は、いつだって変化し続けているのだ。世界は平面じゃない、一面じゃない、丸いのだ。そして一刻一刻、動いているのだ、と。 もう当たり前過ぎることだけれども、一分一秒、同じ時はない。いつだって毎瞬毎瞬新しいのだ。私はいつだってこの一つの世界の住人だけれども、この世界は刻々と変化している、そしてそれはきっと、私自身にもいえる。 そう思ったら、生活をもっと楽しみたくなってきた。彼女と私と、今日はどっちが発見するか。それは大きなものなんかじゃなくていい、これっぽっちの、葉っぱ一枚分の大きさ重さしかもたないようなものでもいい。でもそれは間違いなく、発見なのだ。それは、世界がそして私たちが今日も生きていることを示す、大事な証言なのだ。そんな発見たちはきっと、私たちの心をいつだって柔らかくしてくれる。 あぁそうだった、私はいつだって一証人なのだ、生きているこの世界の、生きているこの私自身の。 そう思ったら自然に口から言葉が零れていた。あぁ、世界はなんて美しい、そしていとおしいものなんだろう。 そうして私は深呼吸する。多分友人にそんなことを突然言ったら大きな声で笑われるに違いないと苦笑しつつ。それでもやっぱり言いたい。 世界は美しい。そしてそこに生きているということは、こんなにもいとおしい。 |
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