2005年04月09日(土)  エロ牧師との対決


数日前からちょっと話題になっているこの事件
ここには、こういうことはあまり書かないのですが、今回はちょっと気になったのでひとことだけ。

はじめに、わたしはいわゆる宗教嫌いではない。むしろ好きな方で、聖書の一節や、いわゆる、あの日めくりなどでよく見る“今日のこころ”みたいな仏の言葉なんか読んでなるほどとおもうことも多々ある。宗教映画も見るの好きだし、三大宗教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)の本だって、昔だけど読んだことある。
それに、最近の、モラルの欠けた一部の日本人の姿を見るにつけ、わたしたちには宗教が必要なのではないかとさえおもっている。善悪の判断がつけにくい混沌としたこの世の中で、なにか物事を判断する基準として「教え」というものがあればよかろう。それに沿って生きていれば、弱い心も強くなるだろうし、人に対する思いやりだってできてくる。奉仕(ボランティア)することの意味がわかれば、ただ流行っているからと、気まぐれ心で動いたりしないはずだ。

それでも、こういう事件が起こるたびにおもう。
「神の教え」なり「仏の教え」なりを、彼ら信者はどう解釈しているのだろう。
もちろん皆が皆そうだとはいわないが、彼らにとって教えとは、「守る」ことであって「悟る」ものではなさそうだ。

そんなこと思ったのは、気になる一信者のこんな言葉があったから。

「主管牧師には従順であれ、と言われるけれど、こんな行為にまで従順でなければならないのですか。教えてください」

いいわけないですよね。
法外な金を強要したり、他人に暴力をふるうことが良くないことであるのは、宗教にすがっていない人間の目から見ても明らかで、一般常識として「悪行」でしょう。誰もが知っているこんなことで、「従順でいなければならないのか?」などと、うだうだ悩む方がおかしい。信者たちの悪口は言いたくありませんが、彼らはいったい何を学んでいるのでしょうか。

もちろん、はじめは、なにか悩み事や問題を抱えていて、宗教に心のよりどころを求めるというのはあるでしょう。というか、宗教にすがるほとんどの理由がそれだとおもいます。でもそれは宗教をはじめたばかりの、いわゆる初心者といわれるレベルで、1年2年、その宗教の教えの速度や信者自身の個性によって進歩の仕方は違うとおもいますが、5、6年もすれば、一人の人間の中にひとつの確固たる信念ができるものとおもっているのは、わたしが理想主義だからでしょうか。

この事件に関していえば、悪の元凶はもちろん強欲なエロ牧師です。
しかし、彼に騙されてしまう方、おかしいと思いながらも従っている信者も悪い。金を要求されたその時点で気がつくべきだし、暴行されたその時点でここはおかしいと悟らなければ嘘です。こういった普通の感覚でいう悪いことの概念が、宗教にすがったとたん、なくなってしまうのがいつも不思議でなりません。
もちろん、そのような行動力を持たない人たちが宗教にすがるのだと言ってしまえばそれまでですが。でも必ずしもそういう人たちばかりではないでしょう。

思うに、こういう組織内で起こった出来事というのは、DV(家庭内暴力)と似ているような気がします。DVの多いアメリカのドキュメンタリーなんかを見ていると、DVの対処法はひとつ。逃げること。暴力をふるう人間はある種ストーカーと同じで、許容してしまったらまた同じことを繰り返す。それに、牧師などの立場や、団体組織の上に立つ者というのは、みんな俺のことを信じてくれる従ってくれる“何でもできる”という万能感を持ってしまう人がいても不思議ではない。世の中にはそういった、大きな勘ちがいをしている輩はたくさんいるのですからね。

要するにわたしは何が言いたいのかといえば、ほんとにもう、いたたまれなくなるのですよ。幼児虐待だとか、小児性愛だとか、婦女暴行だとか、動物虐待などのニュースを聞くと。物を言えない弱いものに対して暴力をふるう行為が、まっとうな人間のすることだとはおもえないからです。
だから被害にあった信者たちも、その牧師に向かって一言、「なんじゃあうりゃぁ!(菅原文太風に)」と言うことができたなら、あんな辛い目にあわずにすんだのになあと、過ぎてしまったことではあるけれどおもったりします。もっと、自分の価値判断に自信をもって、人に頼らず、心強くして生きていって欲しいなあと。神の教えというものは、そういうものに役立つものであって欲しいと。


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