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2005年06月09日(木) 自分しだいかな。

■それにしても、世の中、携帯に毒されてるなあ。まあ、毒されてると言い切ってしまう語弊も感じないではないけれど、それにしたって、電車の中とか、街を歩きながらとか、車を運転しながらとか、どうしてそこまで携帯を握りしめてなきゃあならんのか? 交差点で、歩行者が目に入らず曲がってくる車のほとんどが、ながら携帯運転だし。歩くってのは前を見てが基本だろうに、メールを打ちながら歩くあぶなっかしい人たち。でもね、電話とか、メールとか、コミュニケーションツールとして使うなら、まだいい。まだまし。
 電車の中でひたすらに、携帯ゲームに興じる人々。……恥じてほしい。自分のかっこ悪さ、わかってほしいなあ。そんなとこでまで、あんなとこでまで、小さな画面に閉じこもらんでもいいではないか。

 と、ふだんはそんなこと思ってても面倒くさくて言わないし、日記に書こうとも思わないんだけれど、このところ、わたしの職業を脅かす、そうは言っていられない現象が起こっているのだ。
 
 劇場で新しい物語が始まるとき、新しい世界が開けるとき、「暗転」というものから始まることが多い。現実の世界が、一瞬真っ暗になるという「暗転」儀式を経て、劇的世界に明かりが入る。これ、とっても大事な闇の瞬間なのだ。だから、美しい闇を作るために、袖中(舞台の脇の隠れた部分)に必要な明かりだけ残して、毎日チェックをしてから開場する。

 そして。
 このところ、美しい闇が破られてしまうことが頻発している。ほぼ毎回と言ってもいい。暗転の中でまで、メールチェックする人。いい加減にしてください。その小さな液晶画面が、どれだけ眩しく、闇の邪魔になることか。電源を消し忘れて取り出すなら、せめて明かりが入ってからにしてください。

 我が職場の、暗転の話だけじゃあないな、これは。自分のいる場所を認識するってこと。自分が社会の中にいるってこと。そういうことを分からない人が、増えてるってことです。
 
 こういうことって、言うだけ、書くだけ、時間の無駄なような気もするのだけれど、でもねえ、闘ってかなきゃならない。諦めちゃあいけない。うるさがられようと、何の結果も生まなくっても。

■東京は、明日はかろうじて晴れるみたいだけれど、あさってからはずっと雨マーク。わたしにとっては、一年でもっとも気の塞ぐ季節。
 映画「雨に唄えば」みたいに、土砂降りの雨の中だって心が弾むような、踊り出してしまうような、そんな毎日を生み出したい。いい仕事をして、その結果としてのいい芝居を観て、恋人と心を交歓し続け、いやなことはさらりと忘れて、夢見て、夢見て……。

 まあ、現実はそううまくはいかないけれど、世の中の憂さは、自分で跳ね飛ばすものとして暮らしていくことが大事なんだよなあ。
 文句言っても始まらん。嘆いてもどうにもならないことばっかり。どうせこの世は不公平に出来てるものだし、なんたって、これだけたくさんの人間が共に暮らしているんだもの。
 
 自分、自分。自分で色んなこと、跳ね飛ばそう。あ、でも、物の力ってすごいから、雨の日が楽しみになるような新しい傘を買おうかな。


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