Journal
INDEX|back|next
2005年04月14日(木) |
「わたし」に戻る夜。 |
■年末から東京を離れ、仮住まいを拠点に九州から東北まで飛び回って暮らした。長い旅暮らしを終えて、ようやく東京に戻ったわたしを待っていたのは、予定通り、次の仕事。休む間もなくめまぐるしい生活に入り、久々の休みを翌日に控えて心がゆるんだ矢先に、母危篤の連絡が入った。
■始発の新幹線で病院に駆け込み、動脈破裂寸前で手術室に向かう母と、5分間だけ面会が叶う。医者は「少しでも会えてよかったですね」と、手術に向かう母の気持ちを気遣う余裕もなく言う。
■5時間と予定されていた手術が終わったのは13時間後。それ以来、物語の中でしか知らなかった人の命のあれこれが、自分の人生の一部として展開する。
■これが最後になるかもしれないから、という再三の医者からの呼び出し。仕事を終えて最終の新幹線に乗り込み、集中治療室で眠る母の顔を見て、始発の新幹線で帰ること数回。一往復4万円の交通費も、その頃はどうでもよかった。 人工心肺装置で生き延びたものの、その装置の限界として外さざるを得なくなったときには、植物人間としてでも生かすかどうかの選択を迫られる。 手術の弊害として、脳梗塞が起きていることを知らされる。 肺炎で熱があがり、明日は駄目かもしれないと告げられる。 血圧が高すぎて、目覚めたときの興奮を恐れ、睡眠薬を投与し続けないと危ないと告げられる。 手術後も出血が激しく、輸血の限界と告げられる。 人工呼吸器を外すとき、持病のぜんそくで痰がつまり、気管を切開して声が奪われるかもしれないと告げられる。
■そして、医者が口にするには似つかわしくない「奇跡」という言葉とともに、母は今、生きて目覚めている。目覚めはしたが、自分にまつわる記憶が一切なかった。 父は、最愛の母に名前も思い出してもらえないまま、献身的な看病を続けている。その報告は楽しそうでもある。生きてくれたから当たり前でもあるとも言える。でも、何も出来なくなった母と、他人として出会い直しているのだ。それでも喜びを隠さない父は、わたしにとって純粋過ぎ、美しすぎる。 わたしは、記憶を亡くした母に、まだ会っていない。仕事が詰まっている。さあ、いつ会いにいこう? 死と隣り合わせで闘う母を尻目に、わたしの感情は大きく揺れ続けた。どうやらわたしは、そんなに心優しき人間でも、いい人でもないらしい。様々に揺れ動く自らの感情とつきあって、わたしはわたしと向き合うのに少し疲れた。
■わたしにとっては最愛の母だ。この世で只独りわたしを見捨てない友人と言ってもいい。その人がなくしかけた命を取り戻して、うれしくないわけはない。もう何年か分の涙を流して祈った。母が喪われる絶望と、身を捩って闘った。それでも、死と、命と、現実と、あらゆるものに、正面から向き合わざるをえない時間は、わたしにあまりにもたくさんのことを考えさせ、自らのたくさんの醜い側面をも露わにさせた。
■仕事は、母のこととは関係なく進む。このことを告げてある幾人かのスタッフの心配をよそに、わたしは頑として仕事は休まなかった。わたしはわたしの仕事を、いつものように続けてきた。
■わたしの人生に欠かせない存在になっている恋人は、ずっと辛い時期を過ごしている。心も体も弱っていた。母のことと同様、ある時は母のこと以上に、わたしは彼を守るためにたくさんの時間を使う。彼の苦しみや喜びを、我が事として生きている気がする。そうありたいと思って彼に寄り添う。時間は惜しまない。母に向かう時間、仕事に向かう時間以外の時間を、すべて彼に捧げる。
■この2ヶ月、わたしは何人分もの時間を生きてしまったように思う。そして、わたし自身も、何人かに分裂してしまうほどの現実につきあってしまった。 何をどう書いても書き表せないものばかり、どれだけ言葉を連ねても説明しきれないことばかり。それでも、今夜、少しずつでも書いておこうかと思った。母の命がとりあえず長らえることを確信して、少し心の余裕ができたせいか?それとも、恋人が長い心と体の痛みから少し解放されたせいか?
■今、強く感じるのは。なぜだろう? ひどい孤独だ。ようやく自分に立ち返ったから孤独を感じ、自分のことを書こうと思い立ったのだろうか?
|