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2001年12月25日(火) 刹那の喜び

 金井美恵子という人が、「兎」という短編小説の冒頭で、
*書くということは、書かないということも含めて、書くということである以上、もう逃れようもなく、書くことは私の運命なのかもしれない*
 と、書いている。
  
 分かり易い言葉だ。

 今日は夕刻から先刻まで、時折しか会えない恋人と、我が家で過ごした。

 共に時間を過ごせて幸福だったあと、当然の如く、分かれ分かれになり、わたしは、電車の中で金井氏のその言葉を思い出していた。

 彼と「会う」約束をしている日は、それは朝からソワソワしたりするものだが、仕事に精を出さなければならない状況だったりなんだりで、常に彼のことを考えていられるわけではない。
 でも今日は。仕事が休みで。
 目が覚めて、起きて服を着替え、暖房をつけ、歯を磨いた時から、「彼と会う」ことだけを考えて過ごした。彼のために料理を作って待つという約束が、余計にわたしにそう思わせたのかもしれない。
 そして、幸福なことに約束が反故にされることもなく、彼の顔を見ながら食事をして、お酒を飲み。

 さっきまで二人でいた場所にこうして一人でいると。
 わたしにとっては、「一緒にいられない=会えない」ということも含めて「一緒にいる=会う」ということである以上、彼と「一緒にいたい」と願い、その時間を喜びとすることが、わたしの運命なのかもしれない、と、思えてくる。

 もっと、もっと、長い間、一緒にいたいと常に願う。
 会うたびに思うことだが、人は記憶だけでは生きていけない。喜びは基本的に、その刹那で終わるもの。
 記憶を再現して、幸せを反芻するために、人は様々な自己操作をするものの、基本はそう。
 だから、単純に、この人といるのはなんて幸せで気持ちの良いことなのだろうと喜びながら、この時間がもっと続けばいいと願う、その刹那は。
 そして、分かれ、次ぎに会うときのことを夢想する。「会えない」という形で、わたしの彼への愛情は続いていく。


 それは大変に苦しい愛情の形ではあるのだが、それでも、愛する人がいるということは、これはなんとも、いいこと。いいこと、だ。

 彼がさほど素敵ではなかったり、わたしへの興味を失ったり、という状況では、わたしは愛することに安住できないから。

 思えば思えば、幸せなこと。

 と、まあ、分かれ分かれの淋しさも。そんな風に。ひとりごちて。

***

 今の部屋に引っ越して、10ヶ月たつが、はじめて本格的な料理を作った。
 金に糸目をつけない買い物を楽しんで、渋めの音楽を聴きながら、楽しんで料理したら、出来たものすべてが美味しくって、食事中の会話はすべて、今まさに食べているもののことに終始した。
 これもまた、愛情とは別に、人生の喜びであった。


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