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●ほんの少し休んだだけで、心と体が気負わない自分に戻っている。だからこそ、何かを書き始める気になったり、自分のやるべき仕事の青写真について考えられたりするわけだが、こうして仕事が始まると、カンパニーの中で必要とされることのみを追っている。根本的に、やっていること、やろうとしていることが、違うのだ。
●どこか「生(ナマ)」な自分でないと、書き始められない。語り始めることができない。そして、現在の仕事場にいるのは、かなり去勢された自分なのかもしれない。それは決して悪い意味ではなく、集団の中にあって、自分が求められていることを最大限にこなすために懸命にこしらえてきた自分なのであるが。
●昨日、わたしが「弱い」人を解さないということを書いたが、そういう意味では断然弱い自分なのである。だって、その時々、足場が違っているのだから。 求められる自分と、自然な自分(それはもしかしたら「こうありたい」自分)の間で、始終揺れている。これを「弱い」と言わずしてなんと言おう? 現代を生きる中、誰もが負っていることを、わたしもこうして負っている。 自分探しをしないと息ができない、そんな時代の中で。
●レベッカ・ブラウン「体の贈り物」は多くの人にお勧めしたい文章だ。エイズのホームケア・ワーカーが、共に時間を過ごした患者のことを淡々と語っていくのだが、その淡々ぶりが素晴らしい。足場がしっかりしている。だから「このように書こう、書きたい」というような邪念で文章が揺らがない。ただ、健康な自分がいて、病に冒され死に向かう人がいる。それだけが描かれる。もちろん、生きている以上、心の揺らぎがないはずがない。文章が揺らがないのは、見る対象語る対象に対しての自分の足場がしっかりしているからなのだと、そう思えてくる。それはまた、揺らぎを許さない「死」と「生」の強さに人間らしく立ち向かっているからこそだ。
●生き方はそのまま文章に現れる。
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