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2001年08月15日(水) |
書かなかった日々のこと。今のこと。 |
●今の仕事は、あと1カ所、さいたまで開けて、終わりになる。旅と旅の間の、3日ほどのお休みを過ごしている。
●書かない間、ずっと読み続けていた。面白いものも、面白くないものも、とりあえず通読して、ページをめくり続けていた。 川上弘美の「センセイのかばん」が素晴らしい。彼女の最高傑作ではないかと思う。行間から立ち上る人間の哀しみ(一人の哀しみ、他者と出会った哀しみ)で、何度もわたしは足下がゆらゆら揺れた。最後に、主人公と一緒に、いなくなったセンセイのかばんをわたしものぞき込んでしまい、ホテルの喫茶室で涙が止まらずになり、困った。 山田詠美「姫君」も、彼女らしく、川上さんと同じようなことを書いているのだが、使い古されたことばに、もう何も感じない。自己模倣により生まれた作品。 ジョゼ・サラマーゴ「白の闇」も読み応えのある作品だった。突然、目が見えなくなり、それも真っ白い明かりに包まれた闇に陥るという病気が、国民的に伝染し始める。ほぼカフカ的な始まりをみせるこの作品で読めるのは、「そういうことが起これば、どういうことが起こるのか」という、徹底的な検証だ。 どんな設定、どんな仮定から始まろうと、「人間を描く」「世界を描く」ための意志さえあれば、作品は文学として成立すると思わせる、力強い作品。
●仕事に疲れては観客に励まされ、無力感に苛まれては人間の持つ無限の可能性に支えられ、かろうじて自分を保ち、働いている。たぶん、回りから見ると、とってもしっかり働いている。しかし、本質的にちっとも満足していないのが、現在のわたし。
●休演日に仲間と連れだって、川遊びに行く。朝がきて、冷え冷えとした谷間に陽が射して、地面に光と影のくっきりした線が浮かび上がると、心も体も一挙に暖まり、温もり、踊り出してしまった。わたしは踊れないので、不器用に地面の上をバタバタと走り回ったに過ぎないが、気分は赤い靴を履いてしまった少女だった。 太陽が真上を目指すと、暖かさは暑さに変わったけれど、目の前には透き通った水が跳ね上がり、うごめき、流れていたので、そこに飛び込みさえすればよかった。今度は心地よい冷たさに、水中で踊り出した。と言っても、わたしは泳ぎが上手ではないので、バタバタと四肢を動かし、しぶきをたてていたに過ぎないのだが。 そんな誰もが日常的に感じている幸福からとっても遠い生活をしている。でも、そうして幸福を味わうと、どんなところでどんな風に苦しんでいても、別の場所にはこうした幸福が待っているのだと思い出すことができる。そうした思い出す力を取り戻すことができる。
●また、一人の他者を、特別に思うようになってしまった。従属したかったり、支配したかったり、独占したかったり、解放されたかったり、勝ち取りたかったり、沈潜したかったり。そして、あらゆる恐怖。 こんな面倒な感情の渦にまたしても嬉々としてつかっている自分を疎ましく思う。もちろん、会っている時、愛し合っている時、わたしたちの間にあるものはこの上なく幸せなものだ。しかし、個人的な作業としての恋愛は、いつもいつもこの上なく辛い。
●大阪公演の間、母が喘息と高血圧で危ないとの知らせを受ける。2度、短い時間ながら帰省。 母が、戻ったわたしを見たときの顔。それは、言ってみれば、「世界で最も愛している人に、会いたくて会いたくて、探して探して、どうしても見つからなくって、あきらめた時に振り返ったら、その人がいた」時のような顔。 わたしが、母にいつまでも生きていてほしいと願う以上に、母は、「いつかこの世から自分がなくなって、娘を会うことができなくなるのだ」と体で知っている。 いつも「忙しい」という言い訳のもとに滅多に帰らないわたしの2度の帰省は、母に力を与えたらしい。そんなことぐらいで元気になってしまう母の姿に、わたしへの愛情の強さを感じる。 もう、言い訳はすまい、と心に誓う。
●今春からずっと大陸を旅している友人から、時折思いだしたように絵はがきが届く。ポストから絵はがきを取り出すたびに、余りに違う時間の流れから、おこぼれの滴が飛んできたみたいで、しばし立ちすくむ。仕事をせず自由に歩く人への嫉妬とかではない。どうしたって、ひとつの人生しか生きられないっていう、ちょっとした諦めのようなもの。
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