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2001年05月17日(木) |
せめて渇望し続けるということ。 |
この2、3日、わたしの書いていることは、何やら分裂症ぎみ。 仕事が楽しいと言ってみたり、これじゃあいかんと吠えてみたり、喜んだり嘆いたり嫌悪したり、どうも面倒だ。 自らとつきあって40年近くにもなるので、ある程度は見当がついている。
わたしは自分の持ち時間の半分以上を、社会人としての虚像で暮らしている。その虚像はきちんと一人歩きしていて、他者から十二分に愛されている。その虚像を「わたし」と呼んでもいいほどに。 でも、幾つになったって、どうしようもない実像がウズウズと自己主張をやめないのだな。まあ、わたしの場合は、わがまま勝手で利己主義自由主義、そしてまた感傷的でどうしようもない、そんな「わたし」が控えている。そして、自分で言うのもなんだが、社会的に認められているわたしより、こっちの「わたし」の方が魅力的だと思えてならない。
それでもって、ここのところはその「わたし」が泡だっている。 実に自由に「本人」であることを勝ち得て暮らしている作家と知り合ったことも一因だし、三好十郎のことばを読んでしまったのも、やはりそうだ。(「あなたがこれだけは、ぜひともいいたい、それをいわねば、あなたの精神の大切な部分が亡びてしまうと思うことが、一つはあるでしょう。それを分かりやすく、誰か一人の人に話しかける気持ちで書けばいいのです」)
今夜は、わたしが唯一実像でつきあっている恋人みたいな友人と酒を飲んでいた。たまたま、彼もスランプの中だった。二人して、共有できる話をしては、宙を見つめて自分のことを考えていた。 「こういう時もあるよ」とお互いがお互いを元気づけて別れた。 会ってよかった。 彼が鏡となって、新しい角度で自分が見える。 どんな時でも「渇望」して生きること。何も持っていない時期、満たされない時期、うまくいかない時期なら、少なくとも「渇望」することをやめないこと。飢えていても、渇いていても、自分に対して望み続けること。(他者に望んだって何も出てこないことは既に知っている。)
酒場に足を運ぶ前に、久しぶりに本屋へ。 エリクソンの新作を発見。喜びがまたやってきた。
酒場に足を運ぶ前に、久しぶりにCDショップへ。 フラメンコギターの天才パコ・デ・ルシアとジャズピアノの天才キース・ジャレットを購入。別のCDを持ってはいるが、重すぎて、本物すぎて、ふだんは余り聴かない人たち。 そういうものを聴いて打ちひしがれたかったのかもしれないな。 でも、家にたどり着いて聴いていると、ひどく耳に優しいのだ。天才でもなんでもない「人」が音の向こうに見える。
こういうのを「出会い」呼ぶのかもしれない、と、夜の時間のわたしは静かに思う。
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