世界お遍路 千夜一夜旅日記

2004年01月31日(土) ブリギッタ先生の原稿貼り付け

閑話休題。
忙しいような、忙しくないような・・・
以下に「佳作」の原稿を貼り付けました。
興味のある方はお読み下さい。
もう、プリントされて配られているモノなので、ここに貼り付けても問題ないと思うので貼り付けました。
ネット上とか、タビットとい阪神電鉄の会員誌にもそのうちに載るようなのだが。
2004年1/1日、2日の旅日記をアップしたいとは思っているのだが・・・できるかな・・・

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「ラトヴィアのブリギッタ先生」

 北ヨーロッパのバルト海沿岸に並ぶバルト三国の一つであるラトヴィアは、人口は約二四二万人、北海道より少し小さいくらいの広さの国である。
 そんなラトヴィアにブリギッタ・クルーミニャという女性が中心になって創設した国立日本語学校があるという。
 昨年バルト三国を旅しようと求めたガイドブック「地球の歩き方〜バルトの国々〜」のコラムに書いてあった情報である。
 どうして日本からずいぶん離れた小さな国で、極東の特殊といっていい言葉を学習しているのか不思議だった。
 私はラトヴィアに着いたら、観光より、まず「日本語学校」に行こうと決めた。

 ラトヴィアの首都リーガ到着の翌朝「地球の歩き方」に記載してあった番号に電話した。
 そしたら英語で「○×△ツーリスト・・・」というアンサー。学校じゃない。しかたないのでもう一つの日本語私塾「スタジオ言語」に電話してみた。
 出た女性に「日本語で話していいか」と英語でいったら、いいですよ、と日本語の返事。ブリギッタ・クルーミニャ、その人だった。
 聞けば、国立日本語学校はもうないのだという。(二000年の秋にはあったのに!)
しかし、電話の声は明るかった。そして「興味があるのだったら来なさい」と言う。
 伺うと、塾はビルの半地下になったフロアにあった。
「よく来ましたね」
 ブリギッタ・クルーミニャ先生は昔からの知り合いのように迎えて下さった。
 ひっつめにした金髪、ドーンとした大柄な身体、よく動く力強い目が印象的な女性だった。身体からエネルギーがあふれていて、五十代後半とは思えない。
 案内されたクラスには、男女二人の生徒が学習中だった。「こんにちは」と日本語で挨拶すると、二人ともちょっとはずかしそうに「こんにちは」と返事してくれた。
 男性は、日本へ陶芸の勉強に行くので準備として、女性は日本の音楽に興味があって留学したいので学習しているとのことだった。
 二人ともシャイでおっとりとした印象、何となく日本人と似ている。
 授業のあと「マフィアの家へラトヴィア語の個人教授に行きます」という先生と、途中まで一緒に歩いた。
 この国で金持ちはたいていロシア人、そしてマフィアに関係する人が多いとか。
「でも私がラトヴィア語を教えている男は愚かではない、ロシア人がラトヴィア語をやろうというのは立派なことです」
 ソビエト崩壊後に独立したラトヴィアは、ついこの前まで公用語はロシア語だった。だから、たいていのロシアンマフィアはラトヴィア語なんてバカにしてやらないらしい。
 
 先生の「夕方には子どもたちが来ますよ」という言葉に誘われて、夜、再び訪れた。
 小学三年から六年くらいの子どもたち六人ほどがノートにひらがな練習をしていた。
 書く、書く、書く、そして発音。
 その後、壁に貼り付けてある筆書きのひらがな表で、今かいた文字を探すのだ。
 古風な学習法である。
 それでも子どもは、ちゃんと今書いたひらがな墨書バージョンを見つける。
 墨書は、何とブリギッタ先生お手製だった。
 先生の話だと、ぽっちゃりした小三くらいの男の子は弟が目の前で池に落ちて死んだ心のケアのためにここに来るのだという。日本語と心のケア、どうつながるのかよくわからない。しかし、見たこともない国の文字を一心に書く時間、彼はつらい思い出を忘れているのかも知れない。
「縦に文字を書く日本語は体にいいと興味を持つ親はラトヴィアにはたくさんいますよ」とは、ブリギッタ先生の説明だが、それはさておいて・・。日本から遙かに遠いこの国で、金髪であおい目の子どもたちが日本語を一生懸命勉強する姿になんだかジーンとした。
 「ありがとう」といいたくなった。

 授業が終わった。
 時間は七時過ぎだが、外はまだ明るい。
 子どもたちが帰ったあと、「グナさんという、私の友だちのうちを訪ねませんか」と先生がいった。
「はい」
 グナさんもまた「はじめまして、よく来てくれましたね」と歓迎してくれた。
 ブリギッタ先生とは対照的に細身でおっとりとした印象のグナさんは俳句の研究者、ラトヴィアに「haiku」を初めて紹介した人だ。
 うす闇に包まれ始めた庭でキャンドルを灯してスグリジャムを入れた紅茶で過ごした。
「これはナマジャムですよ」
 ブリギッタ先生がいう。
 確かに煮たものとちがう味で、フレッシュだった。
「この庭で採れたスグリです、ナマジャムは煮るのではなくて、砂糖を入れて何時間も棒でつきます」
 グナさんが作り方を説明する。
 自宅でとれた実を根気よくつぶしてジャムを作る・・・質素でゆったりしたラトヴィアの生活の一端をかいま見た気がした。
 グナさんは愛知県岡崎市に一ヶ月いたことがあるという。
「日本語の日常会話は難しいです、あなたはゆっくり話してくれるからわかりますが」
なかなかどうして、お上手な日本語である。 グナさんは日本語はもちろんだが、英語も教えるという。
 ブリギッタ先生も、グナさんも本来なら年金生活で悠々自適だったはずなのだが、年金を支給してくれるはずだったソビエトロシアが崩壊した。「語学教授」は不足する生活費補充のアルバイトだ。
 母国の独立は慶賀なことだろうが、こんな問題も出てくるのだ。

 ブリギッタ先生は「私は漢字研究家で写真家、映画監督もします」という。ラトヴィアでは、有名人らしい。
 漢字研究家の先生は、事実、たくさんの難しい漢字を知っていた。「鸛」という字、私は読めなかったが、先生は「コウノトリ、と読みますね」とニタリとした。
 負けた・・。
 そこで「何故、日本語を?」と聞いてみた。
「運命でした」
 モスクワで映画を勉強していた彼女は、夏休みにリーガに帰ってきて海に行った。そこでYさんという日本人の男性と会った。そして文通が始まった。彼女は日本語の、特に漢字に興味を覚えて独学で日本語をマスターした。何気ないちょっとした出会いから始まった日本語の研究なのだ。そして、それが日本語学校を作るという情熱にまでつながった。
 国立日本語学校が無くなった理由もきいてみた。
 簡単にいうと「こんな小さな国に日本語の国立学校はいらない」という文部大臣の鶴の一声で廃校になってしまったらしい。ラトヴィア大学の「日本語科」はそのまま残ったが、まあ客観的にいって大臣の一言は常識的である、と私は思う。
 それでも、ブリギッタ先生はめげない。
 「良語辞典」という、ラトヴィア・日本語辞典まで編集して出版していた。
 「良」は、「ら」とも読む。すなわちラトヴィアの「ラ」だ。
 だから「良語」は、ブリギッタ先生の造語である。漢字研究家の面目躍如といっていい。さらに母国語を「良い語(ことば)」と書く造語は、先生の強い愛国心やソビエトロシアを始めとした強国に蹂躙されてきたラトヴィアの歴史までも考えさせられてしまう。

 次の日も先生に会う約束をした。
 リーガは、中世ヨーロッパの雰囲気を残す美しい町である。そんな旧市街を先生が案内して下さることになったのだ。
 午後一時半、ブリギッタ先生と市場で落ち合った。
「失敗しました。大学は明日からです」
 先生は昨年から教育学の学位が取ろうと、また大学に通っている。今日は新学期最初の授業だと学校に行ったのに違ったらしい。
 五十九歳にしてまた大学生。実に意欲的である。そのことをいったら「まだ、若いですからね」。これは先生の口癖だ。昨日から、何度も聞いている。
 ところでリーガの市場はかつて飛行船ツェッペリン号の作業所だったドームを使用している。実にでかい。野菜や果物から、肉、チーズ、ハム、魚・・・あらゆるものが並んでいた。リーガの食卓の豊かさが想像できる品揃えだある。
 市場の後は街を歩きながら話した。
 時々子どもの物乞いが寄って来る。
「ソビエト時代はいなかった、教育は無償だったから。でも、今は四十ラッツ(一ラットは二〇〇円くらい)もいる、子どもがたくさんいて貧しかったら学校にはやれない」
 先生に「お子さんは?」と聞いた。
 「娘がモスクワにいますよ、でもロシアはもう外国です、訪ねるにはビザがいります、ビザを取るにはたくさんのお金がいります、もう行けませんね」
 先生はため息をついた。
 夕方、ちょっとおしゃれな店でビールと軽食をとってリーガ大聖堂へ行った。
 「リーガ大聖堂のオルガンを聞かないとリーガに来たことにならない」と「地球の歩き方」には書いてある。そうなるとすぐその気になるミーハーな私なのだ。
 大聖堂窓口で訊くと一番安い二ラッツチケットがなかった。次の三ラッツもない。
 先生には「明日発つので、十九ラッツしかない。両替すればいいのだが、できればこのお金で今日の二人分の費用すべてをまかないたい」と話してあった。先生は「大丈夫」とうなずいたが、一番高い四ラッツチケットとなると予算が狂う。
 先生が大きな声で抗議した。
「どうして二も三もないのか?」
 なんと三ラッツが出てきた。しかしそれは、よく見ると先月、八月の券だ。勿論それで入れたのだが、先生は怒る。
「この切符はおかしい、二ラッツがないのもおかしい、年金生活者が来ても四ラッツでは高すぎてはいれない」
 先生がいうには、あの入場券売りの女性は不正を働いている。売れ残りになった八月分を売って代金は自分のぽっぽに入れているのだろうという。ありそうな話ではある。
 大聖堂のパイプオルガンは渋く重厚だった。一八八三年製、六七一八本のパイプ、十メートルにも達する高さなど、当時は並ぶものがなかったらしい。外側の木彫り装飾は十六世紀のものだ。
 始まる前「ソビエト時代はこうやって聞きました」と、先生はひょいと固い板でできたイスの向きを変えた。そうすると、聞く人はキリスト像のある教会正面に背中をむけることになる。ソビエトロシア時代、信仰は許されなかったから、だ。
 三ラッツの席は隅っこだった。
 でも、先生はいう。
「このイスが十六世紀からのもので、この教会で一番古い、だからここがいい」
 やがてコンサートが始まった。荘厳な音が疲れている身体に気持ちよくしみ込んだ。
 コンサートが終わった後、先生は窓口の女性に「どうして八月のチケットなのか、私は館長と知り合いなので話す」と宣言した。
 フェアだが・・・まっすぐな、あまりにまっすぐで、賄賂が横行したらしい社会主義体制の中で大変だったろうなと思った。

 八時過ぎ、先生おすすめの「民族料理店」に行った。
 それぞれサラダ、グラタン、デザート、ビール。これで、五ラッツにもならない。
「お金が三ラッツも余りましたよ」と、財布を見せたら、先生はニコニコした。
 十時くらいまでたくさんお話して別れた。
「ありがとう、楽しかったですよ、また来なさい、今度は私のところにお泊まりなさい!」
 そういって、先生は手をふって下さった。
 
 おばさんバックパッカーを自認する私の旅はいつも一人だ。いろいろな人に出会う。
 バルト三国の旅は、三泊四日のリーガ滞在とブリギッタ先生の印象が何よりも強烈だった。時々先生の「運命でした」という一言、明るさ、まっすぐさ、一心に日本語を学習する子どもたちのことを思い出した。
 そうして一年が過ぎた。
 ふっと思いついてインターネットで、ブリギッタ先生の名前と先生の運命の人であるYさんの名前を入れて検索をかけてみた。
 そうしたら、Yさんのホームページが上がってきたではないか!
 さっそくメールをしてお会いした。 
「会ったのは一九六九年、ソビエト時代です。ユルマラ(リーガ郊外の保養地)で声をかけられたんです。私の持っていたカメラがめずらしかったんですよ。そのときに名前を漢字で書いたらブリギッタは見事に書き写した、びっくりしました、彼女は、絵を描くのでそれが出来たんですね」
 その後モスクワに仕事で行ったときに再会し、日本語の本を送ったりして交流が深まったのだという。
 ブリギッタ先生は、一九九八年に短期だが日本語学習のために来日してYさんの家にホームステイしている。
「鰻丼が好きでね、よくごちそうしましたよ」 私も、ブリギッタ先生にリーガの市場を案内してもらったとき「日本の鰻もおいしいけど、ラトヴィアのもおいしい」と、一緒に立ち食いした。なつかしい。
「ブリギッタが日本語塾を始めたのは、生き残り戦略だと思います、ソビエトが崩壊して彼女の運命も変わりました」
 またしても「運命」・・・。でもブリギッタ先生は、顔を上げて堂々と彼女の「運命」を生き抜くだろう。
 いつかまた、先生に会いに行きたい。

           完

参考文献
 地球の歩き方 バルトの国々 
二〇〇一〜二〇〇二版


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