世界お遍路 千夜一夜旅日記

2003年12月26日(金) ★紅海初泳ぎ

もちろん晴だ。
紅海にしずしずと初入浴?する日だが、昨夜はファンの音でよく眠れず。
体調、芳しからず。
暑いからつけていたんだけど、うるさかったのだ。
体がだるい、というか、ここの湿った暑さは、空気に睡眠薬が入っているというところか。ベトナムの空気に似ているぞ。
ホテルで、ハエの襲来を追い払いながら、フルブレックファストを食べて10時半にでた。
砂漠の中の道をダダダと走って、ビーチホテルという、これまた砂漠のビーチ沿いにできたガイジン租界風のホテルについて、その前がビーチ。
まったく何もない、延々と続くビーチのハシッコ、ここだけに人気アリって感じ。
砂漠のビーチらしく、ラクダを引っぱったおじさんがいるが、それでのれって感じだがイランというと実にあっさりと引き下がりなさるわ。
私は、かったりいので(というか、今年のベトナム東シナ海初入浴で自分はもう若いときのように海で泳ぐことを楽しめない年齢になってしまった、と悟りを開いたので)、パラソルの下でごろついていらのだが、ナオミちゃん、ビレン、アスカダム、アスカデッド、みなさん、喜々として海に向った。
アスカダムは私がごろついていたら「どっか、悪いのか」と聞く始末(お優しいことよ)。上記のような説明を英語でするのは、ニュアンスが難しいので「昨夜、ファンでよく眠れていない」(事実だし)と応えておいた。
ナオミちゃんが海から上がってきて「お風呂みたいに暖かくて気持ちいいよ」というので、んじゃ、ちょっくら・・海縁へ。
内海の特徴・・ざざざざーーーーーざざざざざーーーーーという感じの波の打ち寄せ方。
ざっぶんーーーーーざああーーーーーざぷううんーーーーざざざあーーーーーじゃない。
このざざざ的波のうち寄せ方は、バルト海、北極海の内海辺りの音と似ている。
サントリーニで泳いだエーゲ海はもう少しダイナミックだった。
考えてみれば、今年は、東シナ海に始まって、エーゲ海、この紅海と日本では入れない時期に海にはいったと感慨に耽ってしまったわい。
ナオミちゃんのいうとおり、あったかい。ほとんど、お風呂、ホテルのシャワーよりうんと温度が高い。で、しょっぱい。この紅海は、流れ込む川が1本もない海だし、しょっぱいのもすんできれいなのも、なるほどだが。

泳いでいるのは、若干の白人観光客と地元観光客。
地元といっても、大方はアスマラ辺りから来ている人たちだろうが。子どもを連れて楽しんでいる。とても、ボーダーでは、国連の平和維持軍が駐在している国とも思えない。しかし、だからこそ、30年も独立戦争を闘えたんだろうな、なんてなんだか矛盾したことを考えてしまった私だ。
それにしても、こういったところに必ずある土産物屋がない。
あの、ベトナム10ドルリゾートだって、何人も、ハエのようにうるさい移動土産
物屋の兄ちゃん、ネエちゃんがいたぞなもし。
ここには、ラクダ引きのオヤジが手に申し訳程度宝貝のネックレスを持ってはいるがこれも断ればあっさりと引き下がる。
商売っけというものが希薄である。
アジアのリゾート、ハワイ、みならわんかいといいたくなった。
アジアまで行かなくとも、エジプト人だって、すごい商魂だもん。
今だ、素朴な観光地の典型であった。

帰ってきて、2時過ぎに帰って遅い昼食と昼寝。
私は昼寝はせずにビールを飲みに。
しかし、ビールにハエが飛び込みそうで追っ払うのに疲れた。
ホテルのボートを管理しているにいさんに「サラーム」(ハロー)といったら「あれ、テグリニアが話せるの」とうれしそうな顔でいわれたが・・・ごめん「サラーム」だけなのよ。

夜、ネットカフェに行くというビレンについて行ってみた。
いや起きるのが遅いわ。
1ページ開くのに5分以上かかっている。
それでも、あんまり広くない部屋に16台くらいのPCが稼働していて、満員。
隣の若い兄さん2人は、回りを気にしながら、ぎんぎんの顔してアダルトサイト(白人女性のヌード)を見ていた。
最終的に、追い出されていたけど。
やれやれ、男性はドッコモおんなじでんなあ。

ナオミちゃんは、子供用のテグリニアテキストを買って、お勉強の体制に入った。
「話せるけど、読めない」とは自己申告の言葉。
ナオミちゃんは、オランダ語のほかに、英語、ドイツ語、日本語、イタリア語?かな。それにこの国の言葉のテグリニアとエチオピアの言葉アマリニアも話せるのではないかしら。
で、今度はテグリニアをかけるようになる・・というその心意気はすばらしい。もともと両親からすばらしい耳をもらっているようだが、それに加えてしこしことがんばるお嬢さんだし、やるだろう。

夕刻、町の中を歩いた。
例のごとく、見せ物状態だったが、それでも、いまだに傾いたままの建物、爆撃で穴が空いたままになっている家などを町中にたくさん見た。
その下に人が暮らしていたはず・・・とおもうとショックだった。
(付記・・・帰ってきてアスカダムの義弟ノガブリエススさんにその話をしたら、エチオピアのアタックだけでなく、マサワは、1920年に大きな地震があってそのときに倒壊した建物もそのままになっているはずとのことだった。しかし日本的に絵いえば、80年以上も前の地震の爪痕がいまだに残るのか・・・と思う。阪神大震災後の神戸を見るとなおさらそう思う。回復するには、それなりの経済力やら政治力やらが必要なのだろう。で、この国は、金(ドル)はいるけど、口出すな、人はいらない(来なくてよろし)の体制を外向的にとっておるので、なおさら復旧ということから遠くなるのであろうとの感想を持ったのであった)


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