おひさまの日記
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大いなる宇宙はなんて深く私達を愛しているのだろう。 普通の毎日の中で、一瞬たりとも忘れられることなく、常に見守られている。 そして、人生の中で、時々「それ」は様々な形となって現れて印を見せる。
説明のつかない泥沼にはまり込んでいた私を呼ぶ声が、窓の外からした。
「おいでよ」
「えみちゃん、大好き」
そんな声とおひさまのやさしくてあったかい光にいざなわれて、 久しぶりにゆっくりと外を歩いてみることにした。 昨日のことだった。
てくてく歩き出した。 いつものコース、市街地を抜けて田んぼ道に入る。 遮るもののないその道は、いつもおひさまの光がいっぱい。 気持ちいい、ただ、ただ、ひたすら気持ちいい。 ぽかぽかして、あったかくて、やさしくて、包まれている感じ。
最初はまるおくんと話してたんだけど、そのうち全然違う人の声を感じ始めた。
「愛しています、愛しています、あなたを愛しいてます」
私のイメージの中に現れたのは、何年も前にその姿を感じた人だった。 成田でセッションをしていた頃、訪れる何人かの見える(笑)方に、
「この部屋(セッションルーム)には女性がいますね。 セッションをサポートしてえみやさんを見守っています」
と言われていた。
まさにSunGoddess、太陽の女神のような人。 オレンジと黄色が外に向かって放射線状に伸びるような服を着ていた。 力強く、けれど、穏やかな、女性。
歩きながら感じたのはその人だった。
「あの時の…」
「愛しています、愛しています、愛しています」
涙が溢れてきた。 その声に混じって、わいわいきゃあきゃあ楽しげなざわめきがしている。
「よく頑張りましたね。 よくここまで来ましたね。 立派です」
その女性とその周りの楽しげなざわめきに包まれながら歩き続けた。 歩きながら涙が頬を伝った。
「愛しています、愛しています、愛しています、私の娘よ」
「お母さん? ママ?」
その道は通行量が少なく、めったに車が通らないことに感謝した。 私は立ち止まり、大きな声を上げてくしゃくしゃな顔で、うわーん!と泣き出した。 涙が後から後から流れて落ちた。
「ママ!ママ!ママ!ママーっ!」
叫びながら泣いた。 赤ちゃんが泣くように泣いた。 おひさまの光があったかくて、包み込んでくれるようで、 まるでお母さんにだっこされているようで、うれしくて、やさしくて、私は泣いた。
「ママ!ママ!ママ! 会いたかったよーっ! さびしかったよーっ!」
その女性と手をつなぎたくなった。 空に向かって手を伸ばした。 彼女は私の手を取り、そして、滑り込むように私の中に入ってきた。
私は思いつく限りの大好きな人達を思い浮かべ、彼らにその女性のエネルギーを送った。 急にそうしたくなったのだ。
「あなたも愛されている」
黄色とオレンジ色の光が時空を超えて飛び、彼らを包むイメージを感じる。 人も、家も、場所も、その光で包んだ。 みんな笑顔に、みんな幸せに、なりますように…
その後、無心になったような感覚の中、ひたすら歩いた。 私の中は、波ひとつ立たない水面(みなも)のようだった。 何もなくただただ静か、満ち足りた穏やかな感覚。
自分に何が起こったかなど、分析する気持ちはこれっぽっちもなかった。 そんなことどうでもよかった。 あれは誰で、どんな人で、どういう意味でこれが起こって、なんてこと。
宇宙は私達の理解を超えたものを理解を超えた形で与えてくれる。 それだけはわかっていた。 すべてはひとつで、今世界はそんなふうな形に戻ろうとしていて、 宇宙は私達に精一杯の働きかけをしてくれている。
「愛されている」
その感覚が自分の中いっぱいに広がって、 私という枠を超えて外に広がり、それが、
「愛している」
そんな感覚になっていった。
自分に何が起こったのかはわからないけれど、 自分に必要なことが起こったということだけはわかる。 そして、心から望んでいたことが。
1時間のウォーキングコースの終わろうとしていた。 見えてきた家の玄関。 中に入ると、そこで不思議な体験が待っていた。 そして、何かが大きく変わったのを確信した。
近々ブログでそのことを書こうと思う。
もうひとつ改めて確信したのは、宇宙が無条件の愛を私達に与え続け、 ひとりひとりを片時も離れることなく見守り続けているということ。 そして、新しい世界に向けて、今、そのサポートをより強くし、 私達にどんどん働きかけているということ。
昔は、使うことさえ、むずがゆく、時に不愉快にさえ感じていた言葉「愛」。 今、宇宙からその愛のシャワーが降り注いでいる。 すべての人に。 そして、こっちだよと、いざなっている。 私達が進むべき方向に。
もうすぐ44歳になる私。 生まれ落ちてからこの瞬間までのすべての出来事が、感情が、 この時の体験を与えてくれた。 生きることの尊さ、生きとし生けるすべての人が持つ役割 (たとえそれが人を傷つける役割だったとしても) その過程での未熟な自分、それが私をここに運んでくれた。 どれひとつ欠けても私はここにいなかった。
感謝しましょうと言われてするのではなく、 心の奥の奥から感謝が自然に湧いてくる。 涙があふれるほどの感謝。 どれほどまでに自分は愛されているのだろうかという感動と共に。
何十年という長い長いスパンで、私達人間はひとつの課題のために生きる。 気が遠くなるほどの時間をかけてそれをこなしていく。 時に、ボロボロに傷つき、希望のかけらさえ見えず、 失意のどん底で這いずり回りながら。 それが何年も続くことだってある。 それでも、やがて出会う、「ある瞬間」に。
その「ある瞬間」に出会っても、それは完結でなく、 そこからまた自分が行くべき道を行けるよう、慢心することなく心砕くことが、 私達のすべきことなのではないかと感じる。
昔は、こうした不思議ちゃんな体験があると、 「自分は辿り着いた」というようなおごった気持ちがどこかに生まれた。 いやん、恥ずかすぃ(笑) けれど、それは違うって、今は思う。
前に空手の先生が言っていたように、 人はきっと辿り着くことなどないのだと思う。 辿り着くことよりも、その道のりこそが、人生の目的なのだから。
またここからの道のりを噛み締めて歩いて行こうと、今は思う。 歩き続けること、それが、すべてだと。
ママ! 私、行くね。 いつも一緒だね。
私に起こったことは特別なことじゃない。 あなたにも起こる。
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