おひさまの日記
日記インデックス|前の日の日記を読む|次の日の日記を読む
今までの自分を振り返ると、ひとつ気づくことがある。 それは、訪れるよきことは突然やってくるのではない、ということ。
例えて言うなら、まるで、わらしべ長者のお話のように、 ひとつのものが、次のものに、それがまた次のものに、という具合に、 次々と何かから何かにつながって、 最終形として、本当に欲しかったものがやってくる、という感じ。
その、本当に欲しかったものがやってきた時、 ああ、あれがあったから、あれもあったから、色々つながって、 そして、こうなったのか、とわかる。
だから、その途中経過を体験している時は、 欲しいものを手に入れるためのステップを踏んでいるとは気づかないことが多い。 むしろ、つらかったり、なんでこんな目にあうんだよ、って感じる体験もある。
そんな途中経過の体験の中で、 折々感じたこと、考えたことを元に、 ああしようこうしようと選択を繰り返し、その度行動に移し、 それによって、結果、ここに来たかったんだよ、って場所に辿り着く。
辿り着いてひとつのステージが完結するけれど、 それはまた次のステージへと続く。 たくさんの章が集まって、ひとつの物語ができているように、 私達の人生も、そんなステージがたくさん集まっているように思う。 そして、全部つながっている。 ひとつとして欠けていいものなどない。
それは私にとって普遍の真実だ。
その中で大切なのは「衝動」だと思う。 頭であれこれ考えるという行為を越えた、理由も意味もない「衝動」。 よくわからないけど、とにかく、ああしたい、こうしたい、そんな気持ち。
衝動ってやつは、えてして不条理だ。 だから、頭で考えると排除した方がいいものであることが多い。
私がabuと一緒になるまでのことを例に挙げるとわかりやすい。 キムタクのCMを見てどうしてもカメラが欲しくなって、 思い切って20万円の買い物をしたことが、発端だった。
カメラが欲しいと思った時、私はこう考えた。
「衝動的になってるだけで、欲しいのは今だけ。 第一、写真なんて『写ルンです』で撮るくらいで、 コジマデンキで買ったデジカメさえまともに使えなくて放ってる私が、 そんな高いカメラ買って使えるわけないじゃないか。 20万円もするのに使わないなら買うだけムダ」
おりこさんな頭がそう考えて、衝動を潰しにかかった。 周りの色々な人にもやめた方がいいと言われた。 でも、どうしても欲しくて、その衝動のままカメラを買った。
手元にカメラが来ても、もちろん、使えなかった。 取扱説明書を読んでも、さっぱり意味がわからなかった。
それでも、カメラをいじり続けて撮れるようになったのは、 強い「衝動」があったからだった。 欲しい、という衝動の次は、撮りたい、という衝動だった。
衝動が私をどこまでも連れていった。
その時点では、まさかカメラが、 未来のパートナーにつながるとは夢にも思わなかった。
そこから広がっていった世界でabuと知り合ったけど、 千葉と宮崎、しかも私は既婚、まさかこうなるとはこれっぽっちも思わなかった。
一緒になるまでにも本当に色々ないきさつがあったんだけど、 その間にもたくさんの衝動があった。 そして、その衝動すべて忠実に選択し、行動してきた結果、 私達は共に生きることになった。
あの時、思考が勝って衝動を打ち消してカメラを買わなかったら… 後から後から湧いてくる衝動のどれかひとつでも無視していたら… そう考えると、恐ろしい(笑)
衝動を辿っていくと、 意味のなさそうなたくさんの小さな出来事がひとつひとつつながり、 ある時、目の前に想像もしなかったものが現れる。
その体験から、説明のつかない衝動がどれほど大切なものかを学んだ。
abuと一緒になった体験は、衝動に導かれて辿り着く場所が、 自分の人生においてとても大切で必要な場所であるということを、 改めて、強く自分自身に刻むものとなった。
はじめにも書いたように、衝動はえてして不条理だ。 頭で考えるとろくなもんじゃないことも多いし、 ばかげていて、無謀で、どう考えても正しくないことがよくある。 でも、そんなものが私に多くの豊かさをもたらしてきた。 しかも、一発で、ハイどうぞ、ってんじゃなく、わらしべ長者状態で。
abuと一緒になってからも、私は衝動的に生きてきた。 その結果の体験は、みんな私にとって貴重なものだった。 だから、私は、今、こういう中にいて、それでも信頼しているのだと思う。 自分の衝動を。 そして、この大きな山場でその生き方をしてみて、 やっぱりこれでいいんだ、そう感じたいと願っている。 塞翁が馬の言葉通り、今起こっている出来事は、 いい、悪いと意味付けるものではなく、ただ起こっている。 連鎖の一部、次に続くなにかの兆しだ。
いい、悪いと意味付ける必要はないけれど、 そこで必要な行動はしていく必要がある。 それを忘れずに、今は進もうと思う。
私が転んでつかんだ「わら」は、何になるんだろう。
今は、写真が、ウェブが、って思ってるけど、 それださえもただの途中経過かもしれない。 もっと違うものにつながるのかもしれない。
もうひとつ、今までを振り返ると気づくことを。
それは、訪れるよきことは、 考えたり想像したり期待するものの中にはないということ。 それを越えたものが来る。 宇宙が私達に与える恩恵は、常にサプライズだ。
これも私にとっての普遍の真実。
誰もが平成版「わらしべ長者」なんだと思う。
私で言えば、それまで自分にあったものを次々と手放し、 けれど、じゃあ何がしたいのかというとさっぱりわからず、 目先の生活に追われながら、 自分って何なんだろうと苦しんで過ごした混沌とした2年間でさえも、 「わら」が化けた大切な何かだった。 その2年の間に、意味も生産性もないけれど、 ただなんとなくしたいからしていたことさえ、すべてが今につながっている。 日々もたらされる恩恵のきっかけになっている。
そこから動きを感じ始めた今、 私が手にしている見えない何かは、 次、何につながっていくのだろう。
|