おひさまの日記
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| 2010年02月07日(日) |
すんげぇこわい、しかも危険な冒険 |
数日前、私は口にした。
「やっぱり外に働きに出ようかな。 目先の生活なんとかしなきゃ」
って。
その途端に、目の前が真っ暗になって、胸がつぶれそうになった。 人生が終わったような感じさえした。 でも、お金を稼ぐのにいちばんの近道であるという点でその考えは正しい。 けれど、その正しさは私の心を殺してゆく。
外に働きに出るのがいけないっていう意味じゃない。 働きに出るのは立派なことだ。 けれど、ただ単に私がそれを望んでいないという意味だ。 自分にしたいことがあって、好きなことがあって、 それを仕事にして生活の糧にして、やっていきたい、 望まない仕事をもうしたくない、という意味。
そのことで、なぜこんなにシビアに悩まなきゃならないのかって、 それは、ガンガン稼ぐダンナさんのお給料で生活は安定してて、 何か好きなことでもしたいわ、なんて考えるセレブな主婦じゃないからだ。 明日のメシはどうするんだ!? 来月の光熱費や保険は払えるのか!? っていうところまで来てるからだ。 ふたりして同じ方向に進もうとして、同じことをしているから。
私達ふたりとも端から見るとプー。 自営でやってるって言ったって、不安定極まりない状態。 先も読めない、あてもない、方法もわからない、 決まっているのはやりたいことだけ。
私は、恐れと不安に負けた。 これからどうやって生活するの? そう考えると、こわくてこわくて、 心が決して望んではいない手近で確実な方法を取ろうとした。 取るのがいいんだと自分に言い聞かせた。 思考が本当の気持ちを殺した瞬間だった。
そして、口にした言葉。
その言葉を口にしてから、私は2日間泣いてばかりだった。 生きることに絶望していた。 それでも生きていかなければならない現実が、無慈悲で残酷に思えた。 意識があるのがつらくて、眠ってばかりいた。こわかったから。
好きなことなんかしてないで、パートでも探してやらないとダメなんだ、 そう考える度、私の心は砕けていった。
私が発したその言葉のエネルギーは、 abuまでも暗い地の底に引きずり込んだ。 ふたりは廃人のように、自分達はいかにうまくいってなくて、 そのために、いかに望まないことをしなければならないかを、 お互いに口にし、お互いの言葉につらくなっていった。 暗い淵にお互を引きずり込み合っていった。
自分の本当の気持ちじゃないことを、 口に出して話していると、 どんどん、どんどん、悲しくなってゆく。
頭で考えて結論を出したことは「思考」であって、 私の本当の気持ちじゃない。 でも、それを「自分の気持ち」として、言葉に出した。
過去の体験に基づいた「そうした方がいいんだ」という思考が、 本当の気持ちを修正して、抑えて、出てきた結論。 にせものの気持ち。
そして、それは、今すぐ死んじゃうんじゃないかってほど、 自分をつらく悲しくさせる。
にせものの気持ちに従って生きると、 計算した通りのものは得られるかもしれないけれど、 どんどん苦しく虚しく、自分ってなんなんだろう、って感覚になって、 大切なものがみんな自分から削ぎ落とされていくような気がする。
一方、「本当の気持ち」ってのは、 心の奥の方から純粋に湧いてきたそのままのもの。 時に理由のない衝動だったり、ひらめきだったり。
それは時に、非常識で、現実的でも合理的でも理論的でもなく、 子供じみたものであり、ばかげているものであり、 そんなのムリでしょ、おかしいでしょ、あり得ないでしょ、 ってものだったりする。
そして、それは「いけないもの」なんだって、 親や先生、社会から、くさびを打ち込まれるように教え込まれてきた。 長い時間をかけて、繰り返し、繰り返し。
でも、私達にとって本当に大切なのは、 その「本当の気持ち」なんだよね。
私はよく思うし、口にするんだ。 「正しさは人を救うとは限らない」って。
もちろん、正しさが人を救うことはいっぱいある。 けれど、正しさが人を押しつぶすこともいっぱいある。
私は、そういう意味において 正しくない生き方をしようとしているんだと思う。 常識で考えたらバカげた生き方を。 すべてが限界ギリギリの場所で、 今まで自分に染み付いてきた、 こうあるべき、こうするべき、そんなものをことごとく蹴散らして、 自分の人生だけで言えば、過去に例のない生き方。 子供が思い付いたままを行動に移すように。
通用するんだろうか、そんなことが。 時々こわくなって自問自答する。 やっぱりダメなんじゃないだろうか、って。 結局うまくいかないんじゃないだろうか、って。
そんな中でも、昨日、ある人と打ち合わせが入っていたので、 落ち込みながらもスカイプにログインした。 それは、自分が好きな仕事の打ち合わせだったんだけど、 話をしていると、気持ちが晴れていくのを感じた。 2日間地を這うようにもがいていたのに、 心地よくワクワクした自分に戻っていった。 あ…この感覚だ、と、何かが私の中ではじけた。 好きなことに関わっている時のこの感覚、これが私の「YES」なんだ。
打ち合わせが終わる頃には、2日間泣いた私はもういなくなっていた。 あの時は、恐れと不安に負けて、もう好きなことなんか捨てて、 目先の安全と安心のために、 不本意なことでもやらなきゃって考えたけれど、 そんな考えはなくなっていた。
そこにいたのは、 好きなことを仕事にして生活していこう、 それで稼ぐようになろう、そう改めて心に決めた私だった。
どうしたらいいのかなんてよくわからない。 今思い付くことを、今できることを、精一杯やるだけ。 ゴール設定だけして、あとは丸投げした。 そう、見えない羽のはえた人達(?)に。 決めたの、だから導いてください、私は好きな道を行くんだから、と。
それさえも正しい方法じゃないように思える。 成功のルールを書いた本にあるようなことをするわけでもなく… 血を吐くような努力をしているわけでもなく… 自分達がとても怠惰にさえ思える。 あれこれ都合よく言葉並べてるけど、ただのニートじゃん、って、 思いたくないけど思うことだってある。
でも、なぜだろう、曲げたくない。
いい加減自分がおかしいとしか思えない。 自分が間違ってると認めるのがイヤなだけかも、 夢見がちな自分を正当化して精神世界に重ねて現実逃避してるだけかも、 そう思う。
でも、なぜだろう、このまま進みたいんだ、どうしても。
私にabuも連動していた。 彼もいつしかいつもの笑顔になっていた。 それを見て私はますます元気になった。 お互が与え合う影響の大きさを感じずにはいられなかった。
その翌日の今日、小さいけれど仕事の依頼が入った。
あ、動いてる…そう思った。
そんな色々をたまたまだと受け流すか。 サインと受け取るか。
私は「サイン」と受け取ることにした。
これからどうなるかは全くわからない。 明日のことさえ。 でも、本当の意味でもうダメだってなる時までは、 静かに穏やかにあきらめられる時が来る時までは、 このまま進んでいきたい。
恐れと不安に負けて、頭で考えた正しさを選択して、 自分じゃない自分を生きようとした時のあの悲しみ、 あれは魂の悲鳴。 あの悲しみだけはもう味わいたくない。
今まで体験したこと、今まで見聞きしたこと、 今までそれがいい、それが正しいと思ってきたこと、 そうしたデータベースは、今までと同じ結論しか導き出さない。 私はそれをことごとく無視しようとしている。 だから、予測がつかない、想像もつかない、保証もない。
でも、そんな予測がつかない、想像もつかない、保証もない、 そんな場所へと行こうとしている。 こわいけれど、ワクワクするのだ。
私のガイドは内側にある感覚だけ。
43歳、冒険してもいいじゃないか。 いや、今回はすんげぇこわい、しかも危険な冒険なんだけど。 そのうちフツーにパートやってたら、 ああ、ダメだったんだな、って笑ってくれ。 それさえもネタにして、きっと私は日記を書き続ける。
そんな私がひいたOSHO禅タロットのカード。
タイムリー過ぎて、泣いた。 悲しい涙じゃなかった。
私どこかで信じてるんだ。 そういう生き方が、きっとこれからのスタンダードになるって。 思考の産物で生きるんじゃなく、感覚を指針に生きることが。 感覚は宇宙とつながる、魂とつながるための、大切なもの。 自分達をがんじがらめにするために思考を使うんじゃなく、 その大切な感覚を助けるために思考使えたらどんなにいいだろう。 世界がこれからそうであってほしい、そんな切なる願いでもある。
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0:愚者
瞬間から瞬間へ、しかも一歩ごとに「愚者」は過去を後にします。 彼は手にした白い薔薇(ばら) で象徴される自分の純粋さ、無垢、 そして信頼以外のものはなにひとつ携えていません。 身につけているベストの模様はタロットの4つの要素の色をすべて含み、 彼が自分のまわりにあるすべてと調和を保っていることを示しています。 「愚者」の直観の働きはそのピークに達しています。 未知へのこのジャンプをするにあたって、 「愚者」はこの瞬間に宇宙の支えを得ています。 生という川のなかで冒険が彼を待ち受けています。 このカードは、まさにいま、自分の直観、 ものごとの「正しさ」という自分のフィーリングを信頼することができたら、 あなたは間違うことなどありえないことを示しています。 あなたの行動は他人の目には「愚か」に映るかもしれません。 あるいは、もしあなたが自分の行動を 合理的な頭(マインド)で分析しようとしたら、 あなた自身から見ても「愚か」に見えるかもしれません。 しかし、「愚者」が占めている「ゼロ」の場所は、 数のない数(ナンバーレス・ナンバー)で、 懐疑と過去の体験がガイドなのではなく、 信頼と無垢がガイドである場所なのです。
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