おひさまの日記
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私の好きなOSHO禅タロットのカードがある。 それは以下のカードだ。
すべては自分の中にあるとよく言われるけれど、 本当にそうだと思うんだ。
うまく言えないけど、このカードみたいな状態でいられると、 つらいのに、そのつらさに絡めとられてボロボロなのに、 なぜか、それでも、なんだろう、「これだ!」みたいな感じがする。 意味不明だな(笑)
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51. 内側へ向かう
内側に向きを変えることは、向きを変えることではまったくない。 内側に入って行くことは、行くことではまったくない。 内側に向きを変えるということは、 あなたがあれこれと欲望を追いかけてきて、 追いかけるたびに何度も何度も欲求不満に みまわれつづけてきたことを意味しているだけだ。 どの欲望も惨めさをもたらすということ、 欲望を通しては満たされることはないということだ。 あなたはけっしてどこにも行き着かないということ、 満足することはありえないということだ。 この、欲望を追いかけてもどこにも行き着かないという真理を見て、あなたは止まる。 止まろうと努力するのではない。 止まろうと努力したら、またしてもそれは追いかけることだ。 微妙な意味で。 あなたはいまだに欲しがっている。 あなたが欲しがっているのは、今度は無欲かもしれない。 内に入るために努力しているのであれば、 あなたは依然として外に向かっている。 努力はすべて、あなたを外に、外側に連れ出すことしかできない。 旅はすべて外に向かう旅だ。 内に向かう旅はない。 どうやって内側に向かって旅ができるかね? あなたはすでにそこにいるのだ。 行こうとすることなど問題外だ。 行こうとすることが止まったら、旅をすることも消える。 欲しがることであなたの心がもはや曇っていないとき、あなたは内にある。 「内側に向かう」と言われているのはこのことだ。 だが、それは向きを変えることではまったくない。 たんに外に出て行かないことだ。
Osho This Very Body The Buddha Chapter 9
解説:
このイメージの女性は、かすかな笑みを浮かべています。 じつは、彼女は心(マインド)のたわむれをただ見守っているのです。 それらを判断せずに、止めようとせずに、同化せずに、 まるで通りの往来か池の水面のさざ波でもあるかのようにただ見守っています。 それに、心のたわむれはあなたの気を引き、 ゲームへ誘い込もうとして、跳んだりはねたり、あちこちに捻れたりして、 ちょっと可笑(おか)しくもあります。 心(マイド)から離れているコツをつかむのは、最大の祝福のひとつです。 瞑想とは、ほんとうはそういうことなのです。 真言(マントラ)を唱えたり、誓いの言葉を繰り返したりするのではなく、 まるで心は誰かほかの人のものであるかのように、ただそれを見守ることです。 今、あなたには、この距離をとって、 ドラマに巻き込まれることなくショーを見守る準備が整っています。 そうできるときはいつでも 「内側に向かう」というこの簡素な自由をじっくりと味わえば、 あなたの内側で瞑想のコツが育ち、深まっていきます。
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