おひさまの日記
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アンナはボーイスカウトの小さい子組のカブスカウトの活動をしている。 その活動の一環で、今日からキャンプに出かけた。
子供の世話がないと母さんラクチンね、好きなことし放題ね、わーい♪ と思っていたけど、そして、その通りなんだけど… 夜になってみると、子供がいないことがなんとさびしいことか。
家の中がしーんとしてて、 いつもはドアを開ければそこにある笑顔がなくて、 ママー!と呼ぶ声が聞こえない。 あまりにさびしくて、彼女がいつも眠っているベッドに転がり、 かすかに残っているかわいらしい子供の匂いを吸い込み、 タオルケットをぎゅっと抱きしめて、熱くなった目頭を押さえた。 彼女がいなくなって、初めてわかるその存在の大きさ。
普段は、あれやってないだー、これやってないだー、 またこんなことしてー、またあんなことしてー、って、怒ってばっかりだけど、 こんな夜は、そんなことがどれだけチンケなことかよぉくわかる。 もちろん、マナーやきまりを守ったり、やるべきことをやったりすることは、とても大事。
だけど、それ以上に大事なことは、アンナが存在しているということ。 そばにいて、元気で、生きているということ。 何より大事なこと。 何より尊いこと。
そう感じた時、ふと、自分も親にとってそんな存在だったのかしら…と思った。 物心ついた頃から、特に父親はこわくてきらいだった。 いつも私がすることに干渉してきて口うるさかった。 毎晩のように怒鳴り声がしていた。 あまりのひどい仕打ちに、お父さん早く死なないかな、と思っていた。 常に怯え、心閉ざしていた私は、家に居場所などなかった。
でも、今ならわかる。 それでも、親は私がとても大切だったこと。 私がいないと、今日の私みたいに、とてもさびしかったであろうこと。 私がかわいくてかわいくて仕方なかったこと。 今ならよくわかる。 愛されていたんだと。
その愛し方はとてもいびつだった。 愛が愛だと伝わらないくらいいびつだった。 でも、今なら本当によくわかる。 愛されていたのだと。
私の愛し方もいびつだ。 あんなに嫌っていた父親と私はそっくりだ。 いや、あそこまではひどくないと思うけど(思いたいけど・笑)。 きっと、アンナにとって、今の私はあの頃の父みたいに煙たい存在なんだと思う。 上手に愛せない。 よく本に書いてあるようないいお母さん像からはほど遠いと思う。 そして、それがとてもつらいことでもある。 その痛みは、きっと、私の親が感じていた痛みでもあるのだろう。
お父さん、お母さん、私は元気です、ここに生きてます。 色々あったし色々あるけど、 お父さんとお母さんの愛を受け取ってここまで生きてこられました。 人の親にもなっちゃいました。 やっぱりうまくいかないこともありながら、子育てしてます。 そして、今になって、お父さんとお母さんの気持ちが痛いほどよくわかります。 私を本当に大切に思っていてくれたんだね。 ありがとう。 私にいたずらするトラウマはいまだ心の奥深くにうずいているけれど、 今はそれさえも一緒に持ったまま、ここにいようと思います。 そして、いつか、そんな痛みも手放して、最高のお母さんになれたらいいなと思ってます。
アンナが私の子として生まれたことで教えてくれたこと。 それは、人はただそこにいるだけで、 人の心をあたたかくして、満たして、そして、幸せにするということ。 何ができるとか、どういうふうであるとか、そんなことには関係なく、 その人そのものがそこにいるということ、それがどれだけ尊く美しいことかということ。
存在の大きさ。 それは、例外なくすべての人に言えること。 生きている、それはどんな形であれ、愛を受け取ってきた証。
渦中にいる時は、そんなことわからないし、わかるはずもないし、わかる必要もないと思う。 わかりたくないことだっていっぱいあるし。 だから、人が生きる人生があり、そこでの体験があるんだと思う。 その体験を通して積み重ねたものでわかることを増やしていけばいいのであって。 ゆっくりと、ゆっくりと。
アンナが帰って来たら、思い切りぎゅうっと抱きしめよう。 笑顔を見せよう。 怒ってばっかりのママだけど、 それがアンナの一番欲しいものだって、ママは知ってるよ。 だって、ママもそれが一番欲しいものだから。
アンナの存在がこんなにも大きいということ、 それは、私自身の存在も同じように大きいということ。 そして、すべての人の存在が同じように大きいということ。 たとえそれが信じられなくて、自分なんか消えてしまえばいいと思う時でさえも。
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