おひさまの日記
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2004年10月01日(金) |
母を見ていて思うこと |
以前の日記にも書いたことがあるが、 私の母は舌筆に尽くし難い辛い結婚生活を送っていた。 母の時代の女性には多いこともかもしれない。
父の言動の暴力と支配のもと過ごした40年近く、 最後の数年は、体が不自由になった父の介護で、 殴られながらも世話をし、 夜も思うように睡眠さえ取れず、疲労困憊の母だった。
父が老人福祉施設に入り、 ようやく平穏で自由な生活を手に入れた時、 母は怯えた。
あんなにも苦しかった地獄のような日々だったのに、 それが自分からなくなった時、母は喜ばなかった。 そして、取り戻そうとさえした。
私は母が不憫だった。 やっと自由になったのに、と。
母は言った。 「こんなふうに好きなことをしたり、 ゆっくりしてたらいけないと思うんだよ」 と。
長い長い時間をかけて母にしみ込んだ苦しみばかりの生活は、 もちろん彼女を相当にひどく痛めつけてはいたのだけれど、 それは、いつしか、彼女の安心できる場所になっていた。 苦しい場所に存在する自分が本当の自分だと信じていた。 そして、それでいいのだと信じていた。 口ではイヤだイヤだと言っていたけれど、 そこに根を下ろすことで、自分の居場所や役割を確保していたのだ。
だから、突然自由になった時、母はすべてを失った。
父が施設に入ってから、 母はずいぶんと長いこと様子がおかしかった。 そわそわし、音がすれば「お父さんだ」と父を探す。 夜中に急に起きて「今お父さんが呼んだんだよ」と言う。 日中も我を忘れようと何かに没頭し続けた。 今自分が置かれた状態を認識したくないかのように。
何ヶ月か経つ頃、母はようやく自由な生活に慣れたらしく、 友達と出かけたり、買い物を楽しんだり、趣味を持つようになった。 そして、毎日がとても楽しいと言うようになった。 明日はアンナの運動会で、見学するのを楽しみにしている。
そんな母を見ていて思った。 とても辛い境遇に置かれ、口で、苦しい、イヤだ、と言っていても、 そして、本当にそう思っていても、 心のもっともっと深い部分で、 「このままでいい、このままがいい、このままでいたい」 そう思う部分が、人にはあるのだと。 辛い境遇の中で自分なりの在り方や居場所を確立し、 そこにそうしている自分なりの理由を持つのだ。 そして、いつしか、それが自分を支えていくようになる。 無意識レベルで。
だから、母も、あんなに望んだ自由を手に入れた時、ひどく怯えた。 元に戻りたがった。
人は変化を恐れる。 たとえ、どんなによい方向に変化するのだとしても、 新しいものは恐ろしい。 自分を脅かすものだ。 だから、同じ場所に留まりたいのだ。 無意識レベルで。
そして、無意識で望んだそんなことが、 自分の目の前の現実となっている。
今は楽しく暮らしている母を見ていて思った。 「な〜んだ、しばらくすると慣れるのか」 と(笑)
そうなのだ。 慣れるのだ。 恐れていた新しいものも、しばらくそこに身を置くことで慣れてしまい、 今度はそれが自分の新しい現実となる。 あたりまえの現実となる。 そして、新しい自分を確立していく。
それが変化だ。 変化のプロセスだ。
きっと母は、 心の深い深い部分で、苦しい場所にいたかったのだろうけれど、 さらに、もっともっと深い深い部分で、 「もうイヤだ!」と、はっきりと決断した瞬間があったのだろう。 ま、本人に自覚があるはずもないけれど。
安達育朗さんの「波動の法則」にもあったが、 「決断」した瞬間に現実が動く。 少しの迷いもなく決断した瞬間に、変化のための一連の流れが始まる。
母は自分では自覚ゼロだけど、 彼女の深い部分でそういうことが起こっていたのだと思う。 だから、父からひとりの人間として独立し、 自分の意志を持って生きる道が訪れたのだ。
かなり遅咲きだったけれど、 これからの人生を楽しんでほしいと心から願っている。
慣れって、大切だよねぇ、ホント。 何にでも言えるけど。
そして、慣れって、恐いよねぇ、ホント。 苦しみにさえ人は慣れていくのだから。
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