違和感を感じたのは一年前の夏だった。違和感と言うよりも、なんだかしっくりこないような気持ち悪さが、そこには常に渦巻いていたように感じる。そしてその奇妙な気持ち悪さは、一年の時を経て同じ場所、甲子園球場に持ち越された。 甲子園に渦巻く“ガイコクジン”への視線は、今年も奇妙なベクトルと共に、少々過熱気味にも感じるほどの強さでグラウンドに注がれたような気がする。 昨年の夏、日章学園の瀬間仲ノルベルト(現中日)が甲子園に描いた巨大なアーチは、一瞬で球場の視線を一人占めするだけの圧倒的な説得力を有していた。未完の大器という印象は拭えないものの、片山文男(現ヤクルト)の豪腕は将来性を存分に感じさせるものだったし、一学年下の小笠原ユキオも投打で輝く素質の片鱗を覗かせた。 彼らは日系のブラジル出身選手としてマスコミに取り上げられ、瀬間仲は協約の関係上“外国人登録”としてプロの世界に飛び込まざるをえなかった。“ガイコクジン”に対する視線は、野球の上でもプライベートの上でも、普通ではない何かに彩られたものだったように思う。 瀬間仲が放った特大ホームランには、判で押したかのように「日本人離れしたパワー」という枕詞がついた。確かに彼は日本国籍を持っていないが、それをことさら強調したかのような物言いには、正直言って反感めいた感情があった。「それがどうした、彼は類稀な素質を持ったスラッガーであって、それ以上でもそれ以下でもない」と。 この国がスポーツ後進国たる由縁は、近代スポーツにおける物理的な経験が浅いだけでなく、いつまでも外国人選手を“ガイジン”として見つつ、“助っ人”というへりくだった扱いをし、彼らを特別なトピックスとして扱うその精神性にあるのではないか、と最近考えるようになった。 今年の夏の甲子園で最も注目を浴びた選手は、準優勝した東北高の2年生エース・ダルビッシュ有だった。今年でもドラフト上位指名確実と言われる長身の本格派右腕は、イラン人とのハーフでイランと日本の両国籍を持った選手として、昨年からニュース番組などで特集が組まれることもあった。 ダルビッシュは確かに稀有な素質を持った逸材である。一通りの変化球を操る指先感覚の鋭さはともかく、将来的には160kmを投げてもおかしくないその柔軟な肩甲骨など抜群の身体的素質に、すでにプロ数球団のスカウトが張り付いているという話も目にする。 昨年に続く“ガイコクジン”という違和感が襲ってきたのは、彼が実際にイラン国籍を持っているという事実からではなく、決勝戦が終わった後の彼に対する各方面の評価からだった。 マウンド上でイラつきを隠すこともなく、球審のきわどい判定には露骨に不機嫌そうな顔を見せる。準優勝に終わった直後の閉会式では、いかにもつまらなそうにあくびをしていたという報道もあった。普通の高校生とは一味違った振る舞いのダルビッシュは、東北高のエースとしてよりも、またプロ注目の豪腕としてよりも、それ以上に違う何かしらの見方で見られていたように感じた。 正直言って、あの炎天下の開会式や閉会式で、大会役員や主催者の面白くない話を聞かされるのは苦痛だと思う。各代表が集まる開会式であくびをしていた選手は大勢いただろうし、死力を振り絞った後の閉会式で聞かされるダラダラした話など、選手にしてみれば眠たいだけのものでしかないかもしれない。 あくびをしていた姿が取り上げられたのは、ダルビッシュが注目されていたからだ。そしてそれを叩く姿勢があるのは、ダルビッシュが“ガイコクジン”だからだと感じる。肝心なのは、仮にあくびをしていたのが試合に出られなかった控えの日本人選手なら、けしからんと物知り顔で叩かれていたのか、という点である。 春のセンバツ大会でベスト4に進んだ東洋大姫路高の左腕グエン・トラン・フォク・アンも、あの大会当時から注目を浴びていた。彼の両親がボートピープルであるという事実も紹介されたが、はっきり言ってそういう報道の仕方には辟易した。彼はプロ顔負けの牽制技術を持ち、フォームのバランスやコントロールに優れた非常にいい高校生左腕であるが、そのことと両親がボートピープルであるという事実は何の関係もない。 この夏に羽黒高の豪球右腕として甲子園に進んだカルデーラ・チアゴもブラジル人留学生。彼らに対する視線に普通のそれと違ったエッセンスが含まれていたことには、私の気分を重々しくするだけの何かが含まれていた。 箱根駅伝で山梨学院大が、ケニアからの留学生選手で旋風を巻き起こしたことがあった。ジョセフ・オツオリ、ステファン・マヤカらの快走で一時期黄金期を築いた山梨学院大だが、ケニア人留学生のあまりに強烈な記録に、「助っ人の力を借りてでも勝ちたいのか」「プロではない学生スポーツなのに卑怯」という、非難めいた批判が飛び交ったのも事実だった。 その時には同時に、「駅伝は日本人のもの」という論調も少なからず大手を振っていた気がする。駅伝の精神を“ガイジン”にいいようにされてたまるか――という、偏狭なナショナリズムとも言うことができない論理には、単純な外国人選手排斥のキナ臭さが立ちこめていた。 彼らは確かに外国人だが、レースの場に出れば、オツオリ選手でありマヤカ選手である。それ以上でもそれ以下でもない。確かに彼らの走りは凄まじかった。身体能力の差もあるだろう。しかし、同じコースを走れば誰だってかかる時計は違う。彼らはただ優れたランナーとしていい時計を出しただけだ。ただ速いということだけで、彼らを“ガイコクジン”という理由の下に吊るし上げることには、居心地の悪い嫌悪感を覚えた。 ダルビッシュやアンの場合は、両親の事情で日本に生まれた。日本語を話し、日本で生活をする、いたって普通の高校生である。そして彼らは、野球を通じて注目されるに値するだけの実力を磨いている。ただそれだけのことなのだ。 しかしそこに注がれる視線には、常に“ガイコクジン”という成分が含まれている。“助っ人”と見られ、“ガイコクジン”扱いされ、いいことも悪いことも全てそのフィルターを通される。 高野連は今のところ、外国籍を持った選手の出場に関して規制を設ける動きは見せていない。時代の変化と共に、ダルビッシュやアンなどのように何らかの形で野球を始める外国人選手も多くなるかもしれないし、オツオリやマヤカのように留学生として日本でスポーツをする外国人選手も増えるだろう。それでも彼らは“ガイコクジン”扱いを受け続けるのだろうか。 今治西高の三塁手・曽我健太に対する視線も同じである。義足という身体的ハンディを克服して甲子園の土を踏んだ曽我は、確かに素晴らしいと思う。だが、彼が過度に注目されたのは、“義足の選手”だからだ。彼を取り上げた多くのマスコミは、曽我健太という一人の選手を見ていない。彼らが見ていたのは、彼の義足だけだ。義足の上にある曽我健太という一人の選手は、義足に添えられた刺身のツマ程度の見方しかされていない。 曽我にとって、義足のことばかり触れられるのは苦痛だったかもしれない。本人に話を聞かないとわからないが、恐らく面白くはなかったと思う。それは、マスコミが彼のプレーを見ている訳ではなくて、「義足の選手」という色眼鏡で彼を見ていることだからだ。義足というフィルターを通さずに彼を見たマスコミは、恐らくほとんどいなかった筈だろう。 彼は、自分がエラーをしたり自分がチャンスで打てなかったときは、それを重く受け止めるかもしれない。もちろん自分が活躍してチームが勝てば、それはそれで喜ぶと思う。けれど、そのプレーに「義足だから」「義足だけど」という枕詞がつけば、彼はその枕詞を拒否すると思う。それは関係ない、と。 ダルビッシュに感じた視線も同じだった。彼がもし普通の日本人で、しかも大して目立たない選手ならば、「閉会式の途中であくびをしてけしからん」などと叩かれただろうか。 ダルビッシュはいい意味でも悪い意味でも特別な視線で見られていた。“ガイコクジン”でも義足でも、それを理由にして彼らを捻じ曲がった視線で扱うのは、はっきり言えば程度の低い差別的な扱いをしているということである。 瀬間仲の周辺から感じた奇妙な気持ち悪さは、一年を経た今年も同じように私を支配した。今後も増えていくであろう“ガイコクジン”球児に、マスコミは変わらない差別的な視線を注ぐのだろうか。私たちファンも含めた観る側の視線に、決して軽くない倫理観が突き付けられた気がする。 彼らは一人のスポーツ選手である。繰り返すが、それ以上でもそれ以下でもない。
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