予想していたこととは言え、実際に目にした時は流石にショックだった。本日付の日刊スポーツ1面の見出しが「ジーコ辞めろ」。コンフェデレーションズカップの予選A組第3戦で日本はコロンビアに敗れ、ベスト4に駒を進めることができなかった。その試合に対して現地に飛んだサポーターがキレたというのが見出しの内容だった。 ジーコ監督自身もコンフェデ杯の目標として最低グループリーグ突破を公言していたので、悔しい結果であることに間違いはないのだろうが、予想していたジーコ解任論に対してはどうしても違和感を覚える。私が思うに、ジーコに限らず日本のスポーツはスケープゴートを仕立てることに背広組もファンもご熱心過ぎるのだ。 私は逆にこう思う。ここで仮にジーコの首が飛ぶようなことになれば、次回のドイツワールドカップで日本がベスト16以上に進む確率は限りなくゼロに近くなる、と。 ここ数年のサッカー日本代表の監督を振り返ると、オフト、ファルカン、加茂周、岡田武史、トゥルシエ、そして現在のジーコと、ざっと思い返しただけでもとにかく目まぐるしく変わっていることに気付く。1人当たりの平均就任年数は2年近く。監督が変われば戦術も理論も変わってくる。これではチームとして成熟した強さを持ちえる筈がない。 監督が安易に変わる度に迷惑を被るのは、実際にプレーする選手だ。そしてチームを応援するサポーターのフラストレーションの大きさはチームの成績と反比例する。そう考えれば、成熟した強さを持ちえない代表チームの姿をサポーターだって本当は見たくない筈だ。 ジーコにドイツまで任せたのならば、余計な雑音はシャットアウトしてジーコに4年という年月を預けるべきだと思う。 日本のサッカー界がワールドカップ出場にこぎ着けるまでに何十年かかったか。いくら日本がワールドカップの決勝リーグに進んだと言っても、ここに辿り着くまでに費やした年数を考えれば、ちょっとやそっとの時間でチームが強くなるとは間違っても思わない筈だ。1年や2年でチームの結果が劇的に変わるなんてことは、余程の幸運と偶然が重ならない限りは起こらない。起こる訳がない。 ジーコ解任を叫ぶサポーターは、Jリーグの理念を忘れてしまったのだろうか。Jリーグが日本のスポーツ界に提示した最大の強み、それは育成と強化を一本化した選手養成システムだった筈だ。 各チームに下部組織の設置を義務付け、全国のトレセンで同世代の選手を同じ指導者・同じ環境の中で切磋琢磨させることでサッカー界全体の底上げを長期間かけて積み上げていく。稲本潤一、明神智和、宮本恒靖らクラブ育ちのいわゆるJリーグ第一世代が現在の日本代表の重要な核になっていることは、Jリーグの後押しした一本化養成システムが一定以上の効果を上げたことを示していると言っていい。 日本の野球界を考えてみれば、中学野球、高校野球、大学野球、社会人野球、プロ野球と組織がバラバラのまま既得権益争いに明け暮れ、一本化して世界に通用する選手を育てていこうという姿勢は微塵も見られない。年齢を重ねるごとに短期間で指導者が変わり、その度に自分のプレースタイルを見失ってしまうという危惧が野球界には常に付きまとっている。そう考えれば、Jリーグのシステムは合理的且つ実際の成果も上げていて、野球界に比べれば万倍優れたシステムと言えると思う。 それなのに、たった1年でジーコをクビにしろという論調が大手を振って歩いている。本気で問いたいのだが、監督の顔がコロコロ変わるチームが本当に磐石な強さを持つことができると思うのか。一貫されない戦術や理論の下で戦う選手達が、本当に120%のパフォーマンスを発揮できると思うのか。本当にチームとして強くなることができると思うのか。 責任の所在を求めたがる気持ちはもっともだし、結果が振わない以上はどこかに問題があるに違いない。だが、その責任を求めるベクトルが、この国では監督というポジションに向き過ぎている。 負けた結果を追求するには、戦術やシステムはもちろんだが、それと同時にその国の国民性やスポーツ環境、さらには国家体制やスポーツの存在意義にまで考えを掘り下げていく必要がある。あらゆる角度から「なぜ負けたのか」という原因を追求し、敗北という現実と真っ向から向き合うことは非常に辛くしんどい作業だ。 辛いからやりたくない。やりたくないから安易なところに責任をぶつける。その結果としての「ジーコ辞めろ」であるなら、賭けてもいい。この国のサッカーはあと100年したってこれ以上強くはならない。 監督はスポーツの勝敗において大きなファクターであることは間違いない。間違いないが、それが全てでは決してない。ましてやサッカーやラグビーのように監督がほとんど試合中に選手や戦術に関わることのできないスポーツにおいて、監督がその試合の内容に介在する余地は実際のところほとんど存在しない。 サッカーの監督にできることは、準備をすること。料理で言うなら、材料を調達し下ごしらえをするまでの人だ。実際にどんな料理に仕上がるのか、そこの問題の大部分は実際に腕を振う料理人が握っている。どんなに豪華な材料を集めて丁寧に下ごしらえをしても、料理人次第では食うに食えない料理になってしまう。材料の持ち味を生かすも殺すも、最終的には料理人の腕次第だ。 試合において結果を出すのは、言うまでもなく選手である。試合になれば、その行く末は全て選手に預けられる。厳しいことを言えば、試合に負けた原因は選手達の力が及ばなかったという要素が最も強いことがほとんどだ。それなのに、勝敗の責任はほとんどの場合で監督に丸投げされ、「トゥルシエニッポン!」の大合唱に象徴されるように手柄も監督第一主義。 監督の名前だけで結果が出るならば、野村監督時代の阪神は3年連続最下位なんて惨状に喘いでいないし、横浜の森前監督も任期満了を待たずしてクビにはなっていない。この2球団、監督と選手の心が乖離しているということは散々言われていたから、監督とチームの歯車が合わなかったということは間違いない。だが、最終的には選手の力が足りなかったから散々たる成績に終わったのだ。監督と選手の気持ちが通じていなくても、地力のあるチームなら一定の成績は残せた筈だろう。 負けた責任を二言目には監督にぶつけたがるこの国のメンタリティは、要するにこの国のスポーツにおける背広組やファンの成熟度を物語っているのだと思う。現状に対する批判だけなら誰だってできる。対案を用いない評論なら子供だって可能だ。本当にこの国のスポーツを強くしたいのなら、具体的な方法論は絶対に必要だ。 日本が負けました。監督を替えましょう。そこからどうしようと言うのか。監督を誰にすればいいのか。どのような戦術を試していけばいいのか。その結論を出すに、1年や2年という時間ではあまりにも短過ぎる。何かを示すこともできなければ、現状を批判して否定する資格は誰にもない。 オリックスの石毛前監督が突如解任され、レオン監督が急遽就任したことも同じだ。確かに石毛の監督としての手腕にはクエスチョンを付けざるを得なかったが、はっきり言って昨年や今年のオリックスでは誰が監督をしてもそう大した結果は得られないだろう。あの程度の戦力で優勝争いをしろと言い、2年の我慢もできず電撃的に監督の首を挿げ替えるフロントの丸投げ神経には、ほとほと恐れ入る。 イチローを始めとした多くの選手が抜けたことを言い訳にする前に、その後の備えを満足にしてこなかったフロントの責任こそ追及されるものだ。そして、結局はそういう状況下でチャンスを生かしきれなかった選手達の力がなかった、というのが結論でもある。レオン監督も、因果な時期に因果なチームの監督になってしまったものだ。 「チームはファンが育てるものでもある」と言うのなら、ここでジーコ解任というカードを切ることは自滅行為もいいところ。何が大事かと言えば、結局「なぜ負けたか」ということに対してあらゆる角度から徹底的に対峙し、その原因を突き止め、これからの発展につなげることだ。その上で現状の経験値を積み上げていく。それしかない。 監督をあっさり挿げ替えるということは、時間をドブに捨てるということとイコールだ。その責任は監督一人のものではない。サポーターにとってもまた我慢の時が始まることを意味している。そしてまた短期間のうちに結果が出なければ「辞めろ」となる。その繰り返しは、本当に不毛な時間だ。全くもって無為な時間だ。 人生七転び八起き。いいこともあれば悪いことだってある。何が良くて何が悪いのか、それを見極める目を養うことがこの国のスポーツを強くする策になり得る筈ということだ。「取り敢えず監督が悪い」というメンタリティから脱せなければ、この国のスポーツがスポーツとして成熟することもまた、あり得ないことなのだ。 ジーコ解任を謳う人達に改めて問いたい。あなた達はそれだけの覚悟と信念があってジーコ解任を叫んでいるのか、と。監督を交代させるだけでチームがあっさり強くなれるほどスポーツというものが甘いものだと思っているのか、と。大袈裟でなく、チームを率いる監督だって良い意味でも悪い意味でもあなた達の代表なんですよ。
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