DEAD OR BASEBALL!

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Vol.136 オールスターに芳醇な純度を
2003年05月09日(金)

 半分は予想通りではある。昨日発表された今年のサンヨーオールスターゲームのファン投票、セ・リーグでは現在首位の阪神から投手を除く8人の野手がトップに立ち、長年ファン投票の人気上位に君臨してきた巨人からは1人の選手もトップに立たなかった。

 様々な要因があることは事実であろう。昨年同様に阪神は開幕から快進撃、毎年恒例の“組織票”も加味すれば、現時点で阪神の選手たちが“ファン投票ジャック”するであろうことは充分に予測の範囲であるし、主力にケガ人が多発した巨人のレギュラークラスに票が集まらないのも予測の範囲。

 昨年はレギュラーを外された阪神の藤本がファン投票で一時トップに立ったことを考えれば、まだ巨人ファンは節操があるのかもしれないな(笑)。

 しかし、である。「ついにここまで来たか」というのも偽らざる本音であることは、ここで正直に白状しておかねばならないかもしれない。

 これまでの統計的データを考えれば、巨人の選手は黙っていてもファン投票で多くの得票を得てきた。阪神への組織票という話は、ひとまず棚上げしておく。問題は、その「黙っていても入っていた得票」は、いったいどこへ消えてしまったか、或いは流れてしまったのかということだ。

 私観から述べれば、すっぽり消えてしまったのではないだろうか。

 これまでのオールスターファン投票で、巨人の選手は2つの固定票を持っていた気がする。巨人ファンからの組織票と、一般の野球ファンからの流動票である。前者はどこの球団でも持っている票だが、絶対数が違う。後者は露出度が多い球団のみが持っている、いわば“有名票”。

 これまで巨人は、その2つの固定票をもってしてオールスターに多くの選手を送り込んだ。莫大な組織票と有名票を持つに至った経緯に眼をつぶれば、至極当然の真っ当な票だったと言えると思う。

 今年の中間発表を見ると、後者の有名票が巨人からすっぽり抜け落ちた結果、今回のような結果が出ているような気がしてならないのだ。つまり、一般の野球ファンからオールスターゲームに対する興味が離れていっているように感じるのである。

 投手部門の上位は川上、井川、上原と開幕投手3人が並んでいるが、共にもう一つ調子の上がらない井川と上原の間に現時点で1万票以上の差があり、川上とは完全に差がつけられている。阿部、清原と矢野、桧山の差も同様の印象を受ける。

 清原のカリスマ性は一種の絶対性を秘めた怪物的産物だが、それとて打率.200そこそこで一塁手1年目の桧山に3万5千票近くの差をつけられている。チームリーダーとして絶大な人気を誇る高橋由も現時点では5位、トップの濱中とは5万票以上の差がある。

 果たしてこれをどう見るか。野球人気の衰退という安直な議論には辿り着きたくないのだが、少なくともオールスターゲームに向けられたファンの目に変化の兆しを感じるのは確かだ。

 ファンがオールスターゲームに何を求めるか、それはまさしく千差万別だから一概に言うことはできない。私が求めているものは、普段のペナントレースで味わうことのできないグレートマッチアップ。同時に、オールスターでしか感じることのできない独特の風情を求めたい。

 かつてオールスターゲームと聞いてワクワクしたあの感情の昂ぶり、それを取り戻したいのだ。今のイベント化した真剣味が伝わってこないオールスターに、私ははっきりNOを突き付けたい気分だ。

 日本のオールスターゲームが失い、メジャーのオールスターゲームが宝のように守っているものが、まさしく風情というものだと思う。日本にないものは、メジャーのオールスターゲームが“ミッドサマークラシック”(真夏の古典劇)と呼ばれる由縁そのもの――そう言ってもいい。

 風情というものは、様式美であると思う。様式美とは、それそのものが存在するだけで醸し出す風情や美しさであると思う。それは、長い年月をかけて醸造し醸成されていく中で、初めて芳醇な薫りと風味を醸し出す。

 メジャーのオールスターを例えるなら、長年樽の中で大事に熟成されてきたモルトウイスキーのようなものだ。瓶の中でじっくりと旨みを膨らませた古酒のようなものだ。創業以来継ぎ足されては使われてきた鰻屋のタレのようなものだ。

 日本のオールスターが、長年鰻の旨味を吸い続けてきた秘伝のタレを引っ繰り返して、出来合いのタレを使うようになってしまったのは、いつのことだろう。

 秘伝のタレの芳しさを失ったことに加えて、ここ数年で日本のファンはミッドサマークラシックの芳しさを知り、或いはかつての郷愁にかられてしまった。それがファンのオールスター離れ、すなわち「黙っていても入っていた流動票」の消滅に繋がっているのではないか。そんなノスタルジーが、この項の本論である。

 極めて感覚的なことではある。だが、その感覚的なものが変わってきたこと、そしてその変化した感覚は確実に“勝負”“ゲーム”として劣化したものだということは、胸を張って肯定できると思う。レベルの問題ではない。純度の問題だ。

 ファンがオールスターゲームで見たいものは、ピッチャーイチローでもなければ、浴衣姿の女子アナでもない。観点はそれぞれあろうが、野球であるということは共通のベクトルであると思う。野球で夢を見るためには、野球で魅せる以外にない。

 メジャーのオールスターに風情と美しさを感じるのは、試合にしてもセレモニーにしても前夜祭にしても、ベースボールへの深いリスペクトと親愛に全てのベクトルが強く向けられているからだと思う。オールスターでもレギュラーシーズンでも、グラウンドにあるのは結局ベースボールである。それ以上でもそれ以下でもない。

 オールスターゲームは特別な試合である。特別だからこそ特別な風情を感じたい。特別な風情とは何か。結局それは、野球というスポーツの上に乗っかった極上のゲームなのだと、私は思う。

 ファンの視線が色々な意味でオールスターから離れかけているとすれば、これは尋常ならざる事態である。オールスターゲームは、夢の産物である。夢は美しいものである。美しい夏には野球が似合う。真夏の古典劇には、風情が必要だ。野球の風情とは、真夏に訪れる極上の勝負だ。それがなければ、夢もない。夢がなければ、ファンもついてこない。

 お祭り騒ぎも、多少はいい。だが、野球という勝負の先にこそ真夏の夢があることを、そしてその先にこそクラシックな純度があることを、是非御一考頂きたい。



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