月の輪通信 日々の想い
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ひいばあちゃんの病状、相変わらずよくない。 ほとんど召し上がらない。 お茶も一口二口しか召し上がらない。 数日前から、訪問看護の看護士さんが毎日来てくださることになって、血圧や脈拍を診て、着替えをさせ、点滴をして行ってくれる。 何も召し上がっておられないのにひいばあちゃんは、着替えを嫌がって手を払ったり、点滴の腕をもどかしそうに振り上げたりするだけの力が残っているらしい。 「いややぁ」とか、「しんどい」とか、子どものように訴えたりなさることもある。
今日、看護士さんと義母がお下の着替えをさせていたら、ひいばあちゃんが突然大きな声ではっきりとおっしゃった。 「こんなこと、したかて、もう、なんもならへん!痛いだけや。」 そのはっきりした言葉の意味に、看護士さんと義母の手が一瞬はたと止まった。 胸を衝かれる言葉だった。
「そうかなぁ、なんもならへんのかなぁ。」 看護士さんは、ひいばあちゃんの言葉を優しく受け流して手早く着替えを終えられた。 100歳を超えたひいばあちゃんに、もうそれほど命のエネルギーが残っていないことは、家族にも看護士さんにもよく判っている。 それだけに、「一日でも長く」とひいばあちゃんの細い腕に毎朝点滴の針を刺す心境は複雑だ。 このまま何もせず、静かに命の火を消していかれるのを見守って差し上げるべきなのではないかという疑問が付きまとう。 でも、家族は皆、一日でも、一時間でも、一分でも、お別れの刻は先送りにしたいのだ。 そう思う気持ちは、遺されるもののエゴなんだろうか。 「こんなことしたかて、なんもならへん」ことなのだろうか。
辛い看取りの時間が今日もゆっくりと過ぎた。
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