月の輪通信 日々の想い
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お正月の里帰りから戻って、数日振りに我が家での台所仕事。 ピリピリと刺す様に冷たい水を洗い桶に張り、野菜を洗う。
濃い緑の葉っぱつきの大根は、実家の家庭菜園での収穫物。 都会育ちの幼い孫娘たちに収穫の楽しさを味わわせてやろうと父が丹精した大根だ。小学校の学級園で農作業はたっぷり経験済のアプコも、お姉さんぶってお相伴でぬかせてもらった。 土のついたままの立派な大根を新聞紙でくるみ、紐で縛って持ち帰ってきた。
たわしで泥を落とし、葉っぱを切り落として、まな板に載せる。 包丁を入れるとピリピリと亀裂の走りそうな張り詰めた大根を、薄く刻んで千六本にする。柔らかそうな大根葉も細かく刻んで、一緒に塩もみにする。 軽い重石を載せてしばらく置けば、簡単お漬物の出来上がり。 冬の大根が美味しい時期になると、実家のおばあちゃんがよく作ってくれた懐かしい味。確かおばあちゃんはこのお漬物を「もみぬき」と呼んでいた。 生の大根の適度なからみとシャリシャリと心地よい歯ごたえが大好きだった。気がつけば、「新鮮で立派な大根に行き当たったら、まずは刻んでもみぬきに。」というのが我が家の冬の台所の定番となっている気がする。
とうに会社を定年退職した父。 自作の立派な大根を前に 「もう、お前たちのために稼いでくる物と言ったら、こんなものくらいやな」 と笑う。 そうか。 「サラリーマンの定年退職後の生活」というのはそういうものなのかと改めて思う。 定年のない自営業の我が家では、高齢の義父母やひいばあちゃんも「ここから先は無職」というポイントがない。だから、何歳になっても窯元の仕事の一端を担っているような感覚が自他共に抜けない。 実際、年齢相応の衰えにしたがって仕事の量や質は落ちてはくるものの、健康の続く限りこまごまとした雑用や簡単な軽作業の「手」として何らかの役割が用意される。 それは、有難い事なんだろうか、それとも苦しいことなんだろうか。 くだらないことを考えてみたりする。
新年の挨拶にと、今年も父さんが干支の置物やお茶碗、香合などを実家に贈ってくれた。 毎年、あちこちにお配りしたり販売したりするために、年末ギリギリまで窯も乾燥機もフル回転で何十個も焼き上げる干支作品。家族従業員が総動員でようやく年内にすべてが納まった。 実家へ持ち込んだのは昨年最後の窯から出た、最終の作品。やっとのことで年が明けてから包装したものだ。
「一年の仕事の成果を、こんな風に作品という形にして持ってこられるというのはええ仕事やなぁ。」 と父が言う。 同じく帰省してきている弟達も働き盛り。それぞれの職場で責任ある仕事を任されて、精力的に働いている。 でも、その仕事の成果を直接的な物という形で故郷の父母の手の上に広げて見せることは出来ない。 「ものつくり」の仕事は、そういう意味でも幸せな仕事なのかもしれないなぁと思う。 父母は毎年、新年に私達が持ってくる干支作品をその場で開け、玄関の一番良く見える下駄箱の上や、和室の棚に飾ってくれる。 父さんや私の1年間の仕事の成果をこうしてみてもらえることを嬉しく思う。
怒涛のような年末仕事を終え、ゆるゆると穏やかなお正月をすごして、さぁ、今年も一年が始まる。 短い里帰りから戻った父さんは、さっそく工房で遣り残した仕事を始めた。工房の初出は来週からだけれど、父さんの仕事はもう元旦の翌日から始まっている。今月末の個展に向けて、新作の制作にも火がついてきたようだ。 また忙しくなる。 暖かい汁物の鍋をストーブにかけ、煮物や青菜を鉢に盛る。 夕食前の茶の間から子どもらの賑やかな声。 これも私達の仕事の成果。
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