月の輪通信 日々の想い
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この夏、ゲンの声変わりが始まった。 風邪でもひいたのかなと思っていたら、時々声が裏返っちゃうことが増えて、いつの間にか普段の声もぐんと低くなってきた。 「おかあさん、おかあさん!ぼくの水槽の金魚がな・・・」 と楽しげにおしゃべりしてくれる内容はまだまだお子様の可愛らしさなのに、その話す声のトーンとのギャップが可笑しくて、ついつい調子が狂ってしまう。 そして気がつくと、ほんの数週間前まで13年間も毎日普通に聞いていたげんの子どもの声がどんなだったか、もう、あいまいにしか思い出せない。 舌っ足らずでちょっと甘えるような、いつもユーモアを含んだ愛らしいゲンの声。 永久保存版のディスクに入れて、ずっとずっと大事に持っておけばよかった、あの声の記憶。
オニイのときにもそうだったけれど、声変わりが終わると男の子たちは汗の匂いもガラリと変わる。 「大人の香り」といえば聞こえは良いが、実際には生臭いオスのケモノの匂い。もっといえば、そう、「おじさんクサ〜イ!」というヤツだ。 朝、3時間の剣道の稽古を終えて、「あち、あちー!」とゲンが車に乗り込んでくると、小さな軽自動車の車内はぼとぼとに汗を吸った剣道着から発する匂いで一瞬にしてむせ返る。 発酵の進んだ果実ととろろ昆布を混ぜたような、なんともいえない饐えた臭いだ。 「窓、開けてぇ!」と後部座席から悲鳴が上がる。 「そんなに臭いかなぁ。道場の中はみんなこんな臭いだから、自分じゃわからないけど・・・」とゲン自身は車窓からの風を受けて、涼しい顔でぐびぐびとペットボトルのお茶を飲み干す。 この子もこうして青年になっていくんだなぁと、まぶしく思う。
うちへ帰ると、「おかえり〜!」と走り寄ってきたアプコが、うぇーっと鼻をつまむ。 ひるまず、冷蔵庫の前へ直行するゲンの背を押しやって、 「とりあえず、剣道着脱いで、シャワーでも浴びといで。頭も洗ってね。」と、追い立てる。 「ゲンにぃ、くさ〜い!」と、アプコがゲンの歩いた後をスプレー消臭剤をシュウシュウやりながら、ついて行く。
そういえば、昔TVで流れていたこの消臭剤のコマーシャル。 疲れて仕事から帰ってきたご主人の背広に、「なにをおいても」の勢いでシュウシュウと消臭剤を振りまく主婦。 あれって、感じ悪いなぁ。 一日しっかり働いて、くたびれた旦那さんの汗。 あんなに嫌そうな顔しなくっても・・・って、眉をしかめて見ていた私。 あらら、でも、今、アプコがゲンにおんなじことしてる。 これってやっぱり感じ悪い?
やいのやいのというけれど、ホントは私自身はゲンの汗の匂い、そんなに嫌じゃない。 藍の剣道着の背中が真っ黒にかわるほど搾り出したゲンの汗。 日に日に少年から青年に成長していく若いゲンの勲章のような気がして、臭い臭いといいながら、なんとなく誇らしい、嬉しい気持ちも確かに含まれているとは思うのだけれど・・・。 シュウシュウと脱臭剤のスプレーで兄の背を追うアプコには、多分そんな複雑な母の思いは伝わっていない。きっとそれはアプコ自身が母となり、その子どもが自分の背丈を追い越す少年に成長する頃まで、たぶん気がつかないことなのだろう。 「アプコ、もう良いよ。そんなにいっぱい撒いちゃ、もったいないよ」 とりあえず、きゃあきゃあ騒ぐアプコからスプレーを取り上げる。
「ああ、さっぱりした!」 と、短い髪からぽたぽたシャワーの雫を落としながらやってくるゲン。 ゆで卵のようなきれいな顔に、石鹸の匂い。 まだその頬はふわふわと幼い子どものやわらかさで、こわい髭の生えてくる気配もない。 「アイス、もう残ってなかったかな」と冷凍庫に頭を突っ込むしぐさもまだまだ子どもであっけらかんと屈託がない。 男の子の成長というのは、面白いもんだなぁと、思う。 汗でどっしりと重くなった剣道着を、ガラガラと洗濯機で洗った。
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