月の輪通信 日々の想い
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朝、ゲンを道場へ車で送る。 春の暖かい日差しに誘われて車の窓を開けると、柔らかな風とともにどこからか桜の花びらが舞い込んできた。 助手席の剣道着姿のゲン、もう上着は要らないという。 足元は素足にゴム草履。 ほんの1,2週間前まで、足の親指をすり合わせて寒そうにしていたゲンの薄着も、今日はやせ我慢に聞こえない。 数日前に散髪したクリクリのスポーツ刈りが、青々してちょっとかわいい。
先月末、卒業式を終えてから、ゲンは剣道の大人稽古に参加するようになった。 小中学生向けの子ども稽古のあとに行われる大人対象の1時間の稽古。 一応中学生以上が参加できる事になっているが、実際には錚々たる上段者が居並ぶきつい稽古だ。 子ども稽古の中では体格も大きく、がっしりと年下の子どもたちの打ち込みを受けてやっていたゲンも、大人の先生方の中に入ると巨大な猛獣の群れに紛れ込んだ羊の様相。 あちらこちらで、突き返され、打ち畳まれ、弄ばれて、転がされる。 あれよあれよと言う間に足元がフラフラと危なくなってくる。
この春、同じ道場から中学生になったのは3人。 そのうちゲンがいつもライバル視していたSくんは、一年間の受験勉強休みを経て、私立中学への進学が決まった。Sくんの進む中学には剣道部があって、入学祝に新しい防具一式を新調してもらって道場へもどってきた。 一方、ゲンの進む地元の公立中学には剣道部がない。剣道を続けるなら、学校では他のクラブに入って、今までの道場で週2回の大人稽古に参加するより仕方がない。 そのことでゲンにはちょっと悔しい思いもあったらしい。 だから、少しでも早く大人稽古に入れていただきたくて、ちらちらと先輩や先生方の顔色を伺いながらの入門だった。
大人稽古に来られている先生方や先輩剣士たちの中には、色々と新参者にはわかりにくい決まりことがあるらしくて、その経験や段位によって居並ぶ位置や、かかり稽古を受けていただいていいレベル、ご挨拶の順番など、その場の空気で対応していかなければならない暗黙のルールとなっているらしい。 稽古が終わり面を取り、一斉に礼を済ませると、剣士たちはさっと分かれてその日稽古をつけていただいた先輩剣士たちに順繰りに挨拶に行き、講評を伺って、頭を下げる。その順番も、もちろん経験や段位の高い者からペーペーまで、何となく決まっているらしくて、一番末席のゲンはキョロキョロ周りを見渡して、自分が割り込んでいい場所を素早く判断してご挨拶に行かなければならない。最初のうちはすぐ上の若い先輩剣士Mさんがいっしょに引っ張りまわしてくれた。 そのあと、道場のモップ掛けや片付け。これもゲンとMさんの仕事。 一番高段者の先生がお帰りになるときは、Mさんがモップを放り出して先生のかばん持ちに駆けつけ、先生が靴を履かれたところで防具袋と竹刀袋を恭しく差し出す。ゲンもその後ろにくっついていって、ピョコリと頭を下げる。
いい勉強をさせてもらっているなぁと思う。 剣道の技術や技はもちろんのこと、長幼の決まりごとや礼儀作法、周囲の状況をよく見て自分の身の置き場を判断するバランス感覚。 学校と言う「みんな一緒。」「みんな平等」の中では磨くことの出来ない微妙な社会規範の一端を、今ゲンは学ばせていただいているのだろう。
「ありがとうございましたぁ!」 明かりを消した道場に向かって、ゲンは頭を下げる。 その言葉づかいはずいぶん大人びてきたけれど、まだ声変わりしない子どもの声だ。 ここ一年あたりで、大人の声になるのだろうか。 くりくり頭の少年剣士には、まだもう少し子どもの声のままで居て欲しいきもするのだけれど。
BBS
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