月の輪通信 日々の想い
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小学校陶芸教室、本焼きの日。 朝、九時に電気窯に火を入れ、保護者の窯当番の人たちとともに窯の番。 1時間半ごとの交替で、入れ替わり立ち代り2〜5人のお母さんたちがやってきて、トタン造りの狭い窯小屋にこもる。 窯番といっても、30分ごとにデジタル表示の温度を折れ線グラフに記入していくだけなので、後の時間はお茶を飲みながら、おしゃべりに花が咲く。 学校のこと、子どもたちのこと、先生たちのこと。 防寒のためシャッターを閉じた狭く薄暗い空間は、心地よく噂話をする恰好の隠れ家のようで、ついつい当番の時間を過ぎても長居してしまう人もいたりして・・・。 今年の5年生には知り合いは比較的少なかったのだけれど、ついつい私も皆のおしゃべりに加えていただいて、長話。子どもたちが下校したあとは、担任のK先生も窯当番に加わってミニ懇談会の様相。学校での子どもたちの様子を聞いたり、ふだん気になっていることを相談したり。
「先生、うちの子、最近、学校から帰って来るとすごく疲れてるんです。『くたびれた〜』って。」 と切り出したのはAさん。 「なんだか、何でもきっちりやらないと気がすまないらしくて、学校でいろんなことをきちんきちんとやろうと緊張しているようなんです。それで、家に帰るとどっと疲れが出るらしいんです。 もうちょっと気を抜いて、気楽にやってくれるといいと思うんだけど」 横から「あ〜ら、うらやましい。うちなんて、気、ぬきっぱなしよ」とすかさず茶々が入る。 けれどもAさんは、そんな横槍には耳も貸さずに。
「小さいときはもっとぼんやりしたところもあったんです。先生のお話をちゃんと聞いてこなかったり、忘れ物をしたり。『ちゃんとせなあかんよ』と叱ったりもしてたんだけれど・・・」 Aさんの話をそこまで聞いて、私はあっと思い出した。 そうそう。以前、私が小学校のPTAで広報の委員長をしていたとき、確かにAさんも広報委員だった。自分の担当記事をコツコツと丁寧に作ってきてくれる、とても生真面目な人だった。
その年の夏休み、Aさんが急にうちに電話をかけてこられてたことがあった。http://www.enpitu.ne.jp/usr5/bin/day?id=56450&pg=20040720 夏休みに学校で開かれる夏期講習。 いくつかある講座の中から好みの講座を自由に選択して受けるのだが、Aさんちでは子どもが自分の受ける講座のスケジュールを良く聞いてこなかった。翌日何の講座を受けるのかわからないので、もしかして役員なら知っているかと思って問い合わせの電話をかけて来られたのだ。 あいにく私はそのとき、講座の参加者のリストまでは持っていなくて、お役には立てなかった。 学校もしまっている時間で、他に問い合わせる手段もなくて、 「しょうがないから、とりあえず明日は申し込んだ可能性のある講座3つともの準備をして行かせたら?」といったのだが、Aさんは「それでは子どもの荷物が多すぎて、かわいそう」と困っておられた。 ああ、あのAさんだったのか。
そうかそうか。 翌日の講習の予定が判らなくて困っていたあの子が、何でもきちんとやらないと気がすまない几帳面な子どもに成長したのね。 Aさん、それはあなたの教育の賜物じゃないの。 いい子に育ってよかったね。 ・・・と、口から出そうになって、やっとの事で踏みとどまった。
Aさんの悩みに対して、K先生は「学校ではそれなりに楽しそうにしてますよ。おうちに帰ってホッとして「くたびれた〜」というのはどの子も同じ。それでちゃんとバランスが取れているなら、それでいいんじゃないですか」というもっともなお答え。 Aさんはまだまだちょっと言い足りない顔をしていたけれど、別の話題に流れていってこの話はそのままになった。
子どもというのは存外、親が「こうあって欲しい」と望んだ道筋どおりに成長していこうとするものなのかもしれない。良かれ悪しかれ、子どもは親が育てたように育つ。 「うっかりさんでは困る。なんでもきちんとできる子に育って欲しい。」 そう思って育てた子が、なんでもきっちりやらないと気がすまない几帳面な子に育った。 けれども、今度は「もうちょっと気を抜いていければいいのに」と母は言う。 どちらも子どものために良かれと思って口にする悩みだけれど、いちいちそれに応えて行く子どものほうも大変だなぁ。
親が子どもに望むことは、時には親自身の「こうありたい自分」「こうありたかった自分」の投影であったりもする。 そのことに気づかぬまま、子どもらに身に合わぬ晴れ着をとっかえひっかえ着せてしまう親のエゴを私は笑えない。 せめて子どもらに、気に入らない親からのお仕着せを払いのける気概が育っていてくれることを祈るばかり。
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