月の輪通信 日々の想い
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2006年10月01日(日) 雨の運動会

小学校の運動会。
朝からあいにくのお天気。
登校して出て行く頃からポツリポツリときはじめていた。
天気予報では、午後からの雨。午前中だけでももってくれればいいと願っていたのだけれど。
とりあえずお弁当を拵えて開会式に間に合うように駆けつけたけれど、その頃には冷たい霧のような雨がコンスタントに降り続けていた。
プログラムを大幅に変更して、組体操やダンスなど主要な演目をピックアップしての決行。結局、2時間ほどでプログラムの半分弱を消化して残りの演目は水曜日に延期されることになった。
最初から最後まで傘をさしての観覧。ぬれねずみの子どもたちはかわいそうなことだった。

ゲンは、組体操と南中ソーランの踊り。
高学年ならではの力強い演技でさすがに見ごたえがあった。
毎年恒例の演目だけれど、重みに耐えながら踏ん張る子、土台となってくれる友達を信頼して上に載る子、それぞれの頑張りにウルウルと涙腺が緩む。
今年はゲンも小学校最後の運動会。
夏以後急に重量感を増した体で、友達と協力し合う姿にたくましさが感じられるようになった。

実はゲン、運動系はどれも不得意だが中でもダンスは大の苦手。
今回の南中ソーランも速いテンポで進む躍動的な踊りになかなかついていけず、苦労していたようだ。夏の予備練習のときから自主的に参加して熱心に練習してきたのだが、どうも踊りに切れがなく、いつまでたっても振りが覚えられない。本人はそれなりに必死で頑張っているのだけれど、周りからはふにゃふにゃしているように見えたりして、最後の練習の時には「ふざけるな、まじめにやれよ」と指導係をしている仲良しのI君になじられたのだという。

人には得手不得手というものがある。
同じだけの努力をしても、誰もがその努力に引き合う上達をするとは限らない。
「努力すれば努力した分だけ、必ず報われる」
そう教えられて育った子どもたちには、頑張ってもなかなかうまくならない人の痛みがわからない。

「僕だって、ふざけてるわけじゃないんだけど。
必死でやってもなかなか速いテンポについていけないんだ。」
と言っていたゲン。
踊りがうまく出来ないことよりも、友達に「ふざけている」と見られていたことに深く傷ついているようだった。
「みんな一生懸命やっているから、僕の踊りが下手なのが目立ってしまうんだろうけど、なんでそれをふざけてるって思うのかなぁ。」

応援団やクラスでの役割を積極的に引き受けて責任を果たそうとしているまじめなゲンだから、踊りの指導係の友達がなんとかクラスの踊りをレベルアップしようと一生懸命になっている気持ちもよくわかる。
出来ることなら自分もその友達の期待に応えて、じょうずに踊れるようになりたいと思うのだけれど・・・。
気持ちだけでは、うまく踊りは踊れない。

「たとえばね、ゲン。
君が友達に紙飛行機やゴム鉄砲の作り方を教えたとき、君は友達の工作を見て
『なんで、こんな簡単なことがうまくできないんだろ』とか
『なんで、もうちょっと丁寧にやらないんだろう』とか思って、歯がゆい思いをしたことがあったじゃないの?
君にとっては、簡単なこと、できて当たり前と思うことでも、誰かにとっては一生懸命やってもなかなか出来ない難しいことだってことも、きっとあるよね。」
「上手にできる」ということは、「できない人のことがわからない」ことの裏返し。
自分が「できない」になって初めて、できない人の悲しみがわかるんだね。

「再チャレンジ」という気持ちの悪い言葉が、省庁の名前に使われるようになった。
困難に挑戦しよう、苦手を克服しようと自ら努力する姿は尊い。
けれども、すべてを持っている者から見下ろすように「チャレンジしろよ」「頑張ってここまで上がって来いよ」とかけられる叱咤の声は、時には小さな棘になって誰かの心を傷つける。
「チャレンジ」と言う言葉はあくまでも、上をむいてすすんでいく人のための言葉であって、下を見下ろしている人が使って美しい言葉ではないのだなと言うことに改めて気がついた。

雨の中、直前の組体操で汚れた手足のまま、子どもたちが縦横に舞い踊る南中ソーランは圧巻だった。
上手な子もそうでない子も、同じリズムに乗って楽しげに飛びはね、空を仰ぐ。
たくさんの子どもたちの間からチラチラと見え隠れするゲンの姿。もたもた遅れがちのリズムながらも、楽しげにニコニコ笑って踊っているのが見えた。この笑顔がもしかしたら、「ふざけている」と見られる原因だったのかもしれない。
でも、母にはわかってるよ。
その笑顔が、また一つ何かを理解し、克服した喜びの表情だと言うこと。
ゲンは本当に大きくなった。
身も心も。


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