月の輪通信 日々の想い
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2006年09月01日(金) 夏を看取る

始業式、雨。
例によって、朝から「体育館シューズがない!」「通知表にハンコ捺すの忘れた!」「水筒が要る!」と大騒ぎ。
4人とも無事に追い出したら、どっと疲れた。
さぁ、新学期が始まるぞ。

この夏、我が家にはたくさんのペットがいた。
ネットで買ってもらった極彩色の小型のクワガタムシ。
父さんの知り合いの方が送ってくださった超高級大型クワガタムシ。
近所のおじさんに教えてもらったポイントで捕まえたカブトムシ。
ゲンは机の周りにたくさんの水槽や飼育ケースをはべらせて、毎日いそいそと餌をやり、ケースの中を掃除して水替えをし、飽きもせずニヤニヤとケースの中を眺めて、夏をすごした。
クワガタが交尾したと言っては狂喜し、ワクワクしながら産卵を待ち、芥子粒のような卵を探し出しては別のケースに移して悦に入る。

そして2回の地域のお祭でもらってきたたくさんの金魚。
我が家では毎年リビングの水槽で育てて、次の年のお祭の頃には大きくなった金魚を池に放し、もらってきた金魚で更新しするのが習いとなっている。
今年はいつもよりたくさんの金魚をもらったので、ゲンはリビングのとは別に、自分が取ってきたお気に入りの金魚を小さな飼育ケースで飼う事にした。

けれども、夏休み中、ゲンに大いなる楽しみを与えてくれたペットたちも、そのときがくれば死んでしまう。
寿命で死んでしまうもの。ちょっとした飼育ミスで死んでしまうもの。つい昨日まで元気だったのに、朝になったら動かなくなってしまっているもの。
ことにお祭の金魚は、釣ってきた直後の数日でおおかたがパタパタとご臨終になった。はじめのうち「可哀想」とすぐにティッシュに包んで埋めに行っていたアプコもしまいにはうんざりしてしまい、見て見ぬ振りをするようになったのを、見かねてゲンが「しようがないなぁ」と根気よく埋葬してくれた。
木切れを組み合わせた小さな十字架を立てて、形ばかり手を合わせて・・・。隣の空き地の一角は、葬られた小さな動物たちのお墓で、まさに「禁じられた遊び」状態になった。

2,3日前から、ゲンのお気に入りの出目金の調子が悪い。
お腹が大きく膨らんで、時々傾いてじっとしている。死んだかと思ってコンコンと水槽を叩くと思い出したようにチャカチャカと泳ぐ。
心配したゲンがネットで調べると、どうやら「便秘」らしい。消化の悪い餌を食べさせると体の中に詰まって排泄が出来なくなり、お腹にガスがたまって浮力で傾いてしまうのだという。まだ小さい出目金に、大きい金魚用の大粒の餌を与えていたのが原因ではないかと、ゲンは自らを責める。
弱った金魚をきれいな水のバケツに移し、お塩を一つまみいれて、必死の看護。それでも素人が病気の金魚に出来る手当ては少なくて、だんだん弱っていく金魚をなすすべもなく眺めてため息をつくばかり。
「お祭の金魚って言うのは、本来、すぐ死んでしまうものなのだから」という慰めもむなしい。

結局ゲンの出目金は数日の間、横向きにぷかぷか漂ったまま死ななかった。
「もう逝ったかな」とつついてみると、弱弱しく尾びれを動かして、かすかない息を訴える。
そんな生きているでもない、死んでいるでもない状態が長く続いて、ゲンはすっかり滅入ってしまった。
「こんなこと、言いたくないけど、いっそ早くすっきり死んでくれるといいなぁ。見るたびに気持ちがううっとなるよ」
「生きているのに、何にも手当てしてやれないのがしんどいよ。こんなになっても痛かったり苦しかったりするんだろうか。」
大事なペットの緩慢な臨終に苛立って、ゲンは何度も悔しさを訴えに来た。

でもなぁ、これもまた「死ぬ」ということの現実。
人間にだって、若くして早世する人もあれば、先ほどまで元気だった人が急な事故であっけなく逝ってしまうこともある。
それと同じように、昏睡状態に陥ってからも人工の医療機器につながれて「死んだも同然」の姿のまま命をつなぐ人もいる。
そのとき家族には、「一瞬でも長く生きていて欲しい」という願いとともに、「早く楽にさせてあげたい。」「早く最後を看取る息苦しい時間を終わりにしたい」と願う気持ちが一緒になって存在する。
残酷なようだけれど、それも現実だ。
少なくとも、私たちが幼い次女の臨終を待った長い最後の一夜には、「もう終わりにしたい。」と死を倦む気持ちがあったことは確かだった。

「金魚の安楽死ってないのかなぁ。」
「さぁねぇ。でもねぇ、ここまで面倒を見てやったのだから、もう少し頑張って見守ってやろうよ。
多分もう長くは生きていないだろうから、・・・」
誰かが手を下さなくても、きっとすぐに死は訪れる。
私は元来、安楽死、尊厳死というものが素直に受け入れられない。
よほどの苦痛、よほどの心理的な苦痛がない限り、たとえ昏睡状態であっても人は生きられる限りの生を全うさせてもらいたいとっている。
近頃では「過剰な延命措置はしないで欲しい」「脳死状態に陥ってしまったら、生か死かの判断は医者や家族の決定に任せる。」と遺言する人も多いというが、私自身は「体のどこかの部分が生きているなら、自らその動きを止めるまで出来る限り生きさせて」と言い残しておくつもりでいた。
けれども、たかが金魚の、たかが数日の臨終の過程をあれだけ心をいためて、凹んで、苛着いて見送るゲンの姿を見て、しばし考え込んでしまう。
「ま、みんなが辛抱できる間だけはそこそこ生かしておいてよ。」
とへらへらと志を曲げて、笑ってしまいそうだ。

夕方になって、ゲンの出目金は本当に死んだ。
つついても動かない。
目玉も白くにごって、うろこのつやも消えた。
「やっと逝ったね」
ゲンはほっとしたように、掬ってティッシュに包んで埋めにいった。
バケツもエアポンプもきれいに片付けてようやく一息。
長い長い「夏を看取る」一日だった。

この夏、ゲンはたくさんの「夏の友達」を葬った。
「ぼくな、生き物を買うのは好きだけど、死ぬのを見るのはいやなんや。
だから捕まえたカブトムシも弱ってきたら元いたところに放してくる事にしてる。そしたら、死んだあとを見なくて済むやろ。」
こころ優しく、小心者のゲンの死生観。
「優しく」見えて、ちょっと身勝手。

今はそれでもいい、子どもだからね。
見たくないものは見ないでいい。
でも、大人になったら、君もいつか直面せざるを得なくなる。
そのことは君もちゃんとわかっているんだよね。
だから自分のことをずるく感じて苦しいんだ。
今はそれでもいい、子どもだからね。


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