月の輪通信 日々の想い
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先月、心臓の急な発作で入院した義母が今日退院して来た。 まだまだ本調子ではないようだけれど、とりあえず一安心。 何より義父のほうが、連れ合いの帰宅にほっとしているよう。 夫婦ってもんは、年をとってもやっぱりそばにいないと寂しいものなのだろうなぁと微笑ましく思う。
義母には従来から高血圧のきらいがあって、病院での食事も減塩食バージョンだったらしい。入院中は「病院の食事は味がなくてまずい。」という愚痴をよく聞いた。義母の訴えを聞いてか、食事には小さな減塩しょうゆが添えられていたそうだが、義母はそのおしょうゆを何にでもつけて食べた。 たまたまうちの父さんが義母の食事に立ち会ったとき、「どれどれ、そんなに味がないの?」と病院食を試食してみたのだけれど、確かに薄味だけど食べられないほど無味ではなく、まあまあ美味しく感じられたのだという。
義母は元来京都の人で、薄味のおばんざいを上手に拵える料理上手な人だ。 胡麻和えやらお膾やら、ちょっと甘口の小鉢のお料理は絶品で、新婚の頃には義母の料理の味を盗もうと、よく義母の台所に出入りしたものだった。 その頃は、義兄やうちの家族も義父母宅で一緒に食事を取ることも多くて、大人数用のたっぷりしたお惣菜でも、薄味でちゃんとおだしの利いた京風の美味しい仕上がりだった。 最近、義父母宅は、ひいばあちゃんを含めて年寄り3人家族。 歳を取って3人とも食がほそくなり、一度に調理する量も減った。買い物もほとんどが生協で配達されるものに頼るようになって、冷凍食品やレトルト食品の利用も増えた。一度調理して食卓に上った煮物の残りを、何度か煮返して次の食事のときに食べることも増えた。 そんなこんなで、年寄り家族の日々の食事はだんだん濃い目の味付けに変化していったのかもしれない。 時々、多めに炊いたからとおすそ分けに頂いた煮物があれっと思うくらい辛かったり、薄味に仕上げたお料理にわざわざお醤油を添えておられる場面に遭遇したりすることも増えた。
何よりも問題なのは、高齢になると味覚そのものも鈍くなりがちなのか、当人たち3人ともが自分たちの日々の食事の味の変化に気がついていないようだ。 退院に当たっての説明でも、塩分制限の食事の指導がされたというが、義父などは「もともとうちの料理はどちらかといえば薄味ですから・・・」などと人に説明したりしておられる。「最近は結構濃い味なんだけどなぁ・・・」と思いつつ、実際義父の舌にとっては若い頃から何十年も変わらぬ薄味の家庭料理の味なのだろうなぁとあきらめ半分で聞いていたりする。
もともと義父母は、健康のために食べたいものを制限したり、嫌いなものを無理して食べたりすることを嫌う人たちだ。専門書のレシピどおりに拵えた減塩料理を差し入れたとしても、「ちょっと味が薄いね」とお醤油をさしてしまわれるだろう。 誰かが母に代わって毎食あの家の食事を調理することにしても、調子のいいときには元気に台所に立たれる義母から家族の食事を賄う楽しみを奪ってしまうことになるだろう。 とどのつまり、あのくらいの年齢になれば少々からだのためには悪くても、美味しいと思うもの、食べたいと思うものを十分楽しんで食べておられればそれはそれでいいのかなぁなんて思って見たりもする。 それもその人たちの人生の選択。 そう言い切ってしまうのは酷だろうか。
今日、取り合えず気休めに「退院祝に」といって減塩しょうゆの小瓶を一本、義父母宅の食卓の上に置いてきた。 減塩しょうゆは塩分が通常のしょうゆの2分の一。いくら減塩といっても倍量使えば元の木阿弥。それもよく分かってはいるのだけれど。
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